第87話 運命みたいじゃないかい?

「ただいま。待った?」

「……別に」

 諸々の家事と風呂を一通り済ませ、時刻は午後九時近く。ラフな部屋着姿の神風に、山田はいじっていたスマートフォンから顔を上げた。イヤフォンのコードに指を絡め、引き抜く。白Tの上に濃紺のカーディガン、シンプルなジーンズ姿の彼の隣に腰を下ろし、神風は何気なく問うた。

「何してたんだい?」

「対戦クイズ。割とすぐ終わるから暇潰しに丁度いいし、地味に授業で習った単語とか出てくる。さっきプラザ合意出てきたし」

「へぇ……そんなアプリがあるのか。楽しそうじゃないか……って」

 さり気なく見せられたリザルト画面、そこに記された数字を神風は思わず二度見した。食い入るようにそれを見つめ、感嘆したように口を開く。

「……20連勝って本当かい!?」

「ああ。たまにスポーツ関係とかでマニアックな設問出てきて記録途切れるが」

「でもすごいじゃないか……流石だよ」

「別に」

 あっさりと言い放ち、アプリを終了させる山田。スマートフォンを置き、神風の茶色の瞳をじっと見つめた。見透かすような視線にたじろぐ彼に、山田はどこか期待するように口を開く。

「……爽馬、何か隠してるだろ」

「えっ、い、いや、そんなことはない……よ?」

「声が上ずってるぞ」

「うぅ……全部お見通しってわけかい」

 諦めたように肩をすくめ、神風は観念したように笑った。その左手の人差し指にはいつかに渡された指輪が嵌まっていて、山田は春の日差しのように目を細める。

「スターライト、ちょっと目、瞑ってて」

「……ああ」

 言われた通り目を閉じ、山田は何気なく思考を巡らす。神風には律儀な面があるし、誕生日なんだから何かしらあるだろうな、とは思っていた。その中身まではあえて予想することはせず、ただ追憶する。彼と過ごした毎日を、そして彼を初めて認識した日のことを――。



(……にしても、本当に外部受験生は少ないんだな)

 待合室として使用されている教室を見回し、当時中三の山田はふっと目を細めた。鶴天の薄い色のブレザーとは対照的な、暗い色の制服姿たち。鶴天高等部の外部受験生である彼らの数は、せいぜい四、五十人程度だろうか。外部受験生が少ないという話の鶴天高等部だったが、どうやら本当だったらしい。野次馬とみられる内部受験生たちが、静電気のような緊張感を持った外部生たちに奇異の視線を向けてくる。しかし山田はそんな視線など気にも留めず、面接対策シートを眺めていた。……どうせ、彼の視界にはモノトーンにしか映らない。

(……むしろ、そっちの方が都合がいい)

『――愛なんて、もう、信じられないよ』

 彼の世界から色を奪った声が、追い打ちをかけるように響く。焦げ茶色の癖っ毛も切れ長の黒い瞳も、白い肌も赤い頬も何もかも、山田の心臓を端から徐々に壊死させていくようで。唇を噛み、おぞましく蠢く腫瘍の痛みに耐えていた。


 一人、また一人、受験生たちが面接に向かっていく。それを山田は特に気にすることなく、ただ面接対策シートを眺める。一つ前の受験生が席を立ち、彼はようやく顔を上げた。特に意味はないが、何気なく内部生たちを眺めてみる。

(……そこそこ多いんだな。鶴天中の生徒って)

 興味はないが、と彼らを適当に眺めていく。今思えばその中には現在のクラスメイトも数名紛れていた気もするが、どうでもいい。彼の視線に気づいたからか、それともチャイムが鳴ったからなのか、鶴天の生徒たちは一人また一人と廊下からはけていく。

 ――最後に残ったのは、案内役とみられる二人だった。今思えば御門だったかもしれない少年と、もう一人。さらさらの茶髪、利発そうな茶色の瞳、健康的な肌色、俳優じみた美形の顔立ち。

『……?』

 ふと視線を感じたのか、神風は御門らしき少年から視線を外し、彼を見つめた。電気のスイッチを入れるように、茶色の瞳が彼を絡め取る。彼はしばらく不思議そうに山田を眺めたのち、ふっと表情を綻ばせた。その笑顔は桜のつぼみが綻ぶようで、春の太陽が陽だまりをつくるようで。春の空を貫く初雷のような感覚に、山田は一瞬、呼吸すらも忘れた。

『……っ』

 ――モノトーンだった世界は、一瞬で七色に塗り替わった。胸の中で疼く腫瘍も、魔法のように消えてしまう。陽だまりのような、春風のような笑顔は、まるで彼の傷を癒す天使のように――。



 左手がそっと握られる感覚に、山田はゆっくりと意識を浮上させた。反射的に瞳を開きかけて、耐える。柔らかい手の感触だけに意識を集中させると、薬指にひんやりとした金属の感触。

「もういいよ」

 聞き慣れた優しい声に、そっと目を開く。左手を見ると、薬指に精巧な造りの銀の指輪。小さな花が細かく集まるような意匠、これは。

「……何の花だ?」

「ストックっていってね。花言葉は『愛の絆』なんだって」

 神風の手がゆっくりと動き、山田の手に指を絡める。顔を上げると、彼は真っ赤に開くガーベラのように微笑んでいて。薔薇の蕾が綻ぶように、山田の心臓が甘い音を立てた。

「ボクの誕生花の花言葉と一緒。……運命みたいじゃないかい?」

「……運命だろ」

「うん、ボクもそう思う」

 神風は一度目を閉じ、開く。繋いだ手から伝わる彼の体温は、いつもよりも少しだけあたたかくて。彼は黄金の矢で射貫くように彼の瞳を見つめ、花束を差し出すように口を開いた。淡水パールのように揺れる茶色の瞳を見つめて、山田はそっと言葉を飲み込む。その瞳は虹が架かっているかのように美しく、タンポポの花が揺れるように優しく。


「スターライト……本当にありがとう」

「……?」

「生まれてきてくれて。ボクと出会ってくれて。そして……ボクを好きになってくれて」


 心臓がセレナーデのような甘い鼓動を刻む。繋いだ手が、見つめ合う瞳が、ただ真摯に彼への想いを訴えている。神風の笑顔はどんな宝石よりも美しくて、目が離せなくて。春の空に流星が流れるように、神風は山田の身体を抱きしめた。硝子細工を扱うように優しく、澄んだ冬の星空のように熱く。

「大好きだよ、スターライト。……誕生日おめでとう」

 その声は水晶を打ち鳴らすかのように、流星が空を射るかのように響いた。プリズムのようなセレナーデを奏でる心臓、服越しに伝わる確かな体温。男にしては細い彼の身体をそっと抱きしめ返し、山田は唇を引き結ぶ。……そうしなければ、涙が零れ落ちてしまいそうで。一度彼の身体を離し、山田は潤む瞳で神風を見つめ直した。二対の瞳は、まるで惹かれ合う連星のように。


 どちらからともなく唇を重ねる。ふわりと広がったカーテンから月光が差し込む。惹かれ合うままに互いの体温を感じ合う二人を照らすのは、確かな満月だった。

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