第85話 普通の感覚が普通に狂ってるぞ

「やっと終わったーっ!」

 すっかり暗くなった放課後に、桃園の高い声が響いた。紐をほどいてゆくように張り詰めていた空気が緩む中、御門が振り返って頬杖をつく。

「ねえ桃園、忘れてない? 冬休み明けたらテストなんだけど。なんなら受験までもう少しであと1年なんだけど。来週にもカウントダウン始まるんだけど?」

「うぅ……それ言わないでよー。今はこの『終わった』ってことが重要なんじゃん。ちょっとくらい安心してもいいじゃーん!」

「桃園じゃなければ僕も何も言わないんだけどね。自分の成績わかってる?」

「……それ言わないでってばー」

 自覚はあるのか、特に反論することはせずに紺色のコートに袖を通す桃園。肩をすくめ、御門はコートの最後のボタンをしめた。黒いリュックを背負い、言い放つ。

「ま、赤点取らないだけマシだけどさぁ」

「ひどくない!?」

「事実じゃん。じゃ僕帰るから。じゃあね」

「むー……今に見ててよ! ばいばーい!」

 頬を膨らませながらも手を振る桃園と、それを一瞥して教室を出ていく御門。そんな二人を見比べ、柿原は幻に触れたかのように呟いた。

「……あれでコミュニケーション成立してるのすごくない?」

「本当だよ」

 彼の視線にを追い、ベリーショートの面長が頷く。顎に手を当て、後ろの席に視線を流し……再び御門を見て、桃園を見て、呟いた。

「でもカップリングとしてはナシだな」

「……何言ってんの矢作クン……」

「だからナシだって言ってるだろ。塾行こうぜ柿原。ついでに課題見せて」

「課題くらい自分でやろうよ……」

 やれやれ、と肩をすくめ、柿原はウィンドブレーカーのファスナーを上げた。リュックを背負い、矢作と連れ立って歩き出す。


「……」

「……」

 一方、神風と山田の方は妙な緊張感に包まれていた。雷が鳴る直前の空のように、製氷皿に入れられた水のように。震える手でコートのボタンをかけ、神風は意を決して顔を上げた。

「それじゃあ、行こうか」

「……ああ」

 頷き、山田は黒いリュックを背負った。サブバッグを肩にかけ、教室を出る。その足取りは案外いつも通りで、それでもその瞳は新月の夜のような色を帯びていて。小走りで彼の隣に追いつき、神風は彼の瞳を覗き込む。

「……スターライト、意外と緊張してなさそうだよね」

「してる。……心臓が破裂して死にそうだ」

「そんなに!? ……っていうか、その割に全然顔に出ないよね!?」

「出さないようにしてる。というか言ったのか?」

「……え?」

 急に吹っ飛ばされた話題に、神風は思わず立ち止まった。合わせて立ち止まり、山田は眼鏡の奥の瞳をすっと細める。

「俺たちが付き合ってること。親に言ったのか?」

「……」

 静かな問いに、神風はふっと目を伏せる。その瞳に一瞬、泣きそうな光が宿って……だけどそれをすぐに引っ込め、ゆっくりと首を横に振った。

「……まだ、言えてない。スターライトが泊まりに来ることも、普通にクラスメイトが泊まりに来るだけって説明してる」

「…………そうか」

 声のトーンがわかりやすく落ちる。ふっと視線を落とし、山田は玄関へ向けて歩き出した。慌ててその後を追い、神風は口を開いた。

「待って、ちょっと待って!」

「……?」

 何気なく振り返った山田、その瞳にはどこか海に映る月のような光が宿っていて。一度唇を引き結び、神風は意を決して口を開いた。

「……この三連休の間に、話してみようよ」

「……」

「多分、話せばわかってくれる、と、思う……よ」

 言葉が徐々に尻すぼみになっていく。思わず山田から視線を逸らし、神風は疲れ果てたように頭を押さえた。そんな彼を見つめ、山田は呟く。

「……不安そうだな」

「うん……エレンと付き合った時も、仕事に支障出たみたいだし。大事にならなかったからいいんだけど……やっぱり不安で」

「……」

 俯いた神風にそっと歩み寄り、さらさらの茶髪をふわりと撫でる。顔を上げた神風の瞳には星屑のような光が宿っていて、山田は薄桃色の花弁に触れるように口を開く。

「……大丈夫だと思う」

「……そう、かな」

「根拠はないけど」

 その言葉には不思議な安心感があって、胸にすとんと落ちた。神風は淡い色の花のように微笑み、歩き出す。山田の隣に立ち、陽だまりのように柔らかく笑った。

「ありがとう、ちょっと安心した。……心配かけてごめんね」

「別に。……行くぞ」

 何事もなかったかのように歩き出すその横顔がひどく頼もしく思えて、神風は繋いだ手をぎゅっと握り返した。



「……爽馬」

「なんだい?」

「……お前の家、普通に大きいんだな……」

 ただでさえ高級住宅地として知られる田園調布。その中でもそこそこ大きめの洋館を見上げ、山田は呟いた。案外淡々とした呟きに、神風は首を傾げる。

「……このくらい普通じゃないかい? 辰也の家とかもっと大きいし」

「普通の感覚が普通に狂ってるぞ」

「なんかスターライトに言われるとグサッとくるなぁ……とりあえず、中に入ろう」

 門の脇に据え付けられたパネルに親指を押し当てると、カチリ、と鍵が開く音。神風はそのまま金属製の門を開け、中を指し示す。一つ頷き、山田はあっさりとその門をくぐった。


「……それで、俺はどこに泊まればいいんだ?」

「あぁ、普通にボクの部屋に泊まっていけばいいよ。準備はしてあるから。まずは荷物置いてこようよ、案内するから」

「……やたら手際いいな」

「そうかな」

 フローリングの廊下を進み、突き当たりの階段を上る。なんか壁に絵画がセンスよく飾ってあったり、階段の手すりにフクロウを模した装飾があったり、上品な高級感がある内装。それでいて掃除も行き届いているようで、塵ひとつ見当たらない。壁を飾る間接照明を見上げ、山田は呟く。

「……何て言うか……すごいな」

「ふふ、そうだろう? 今は亡き母様が設計して、家政婦さんたちが毎日綺麗にしてくれてて……」

 階段を上りきったあたりで、何気なく呟かれた言葉。思わず足を止め、山田は呆然と聞き返した。

「――今は、亡き?」

「うん……母様は、ボクが物心つく前に死んでしまったんだ。だから、ボクには母様の記憶がない」

「……」

 振り返ると、山田は言葉を探しあぐねるように立ち尽くしていて。神風は小さく笑い、そっと彼に歩み寄る。

「大丈夫、気にしてないよ」

「……」

「ボクは幸せだ……母様の分まで、父様が頑張って育ててくれた。これ以上何を望めばいいのかわからないくらい、恵まれてる」

「……そう、なのか」

「うん。……会ってみたい気持ちはあるけどね」

 ふわりと微笑む神風に、山田は一度目を伏せる。親が片方しかいない家を想像し、物心ついた時から母親がいない気持ちというものを想像し、考えてもわからないものはわからない、と顔を上げた。

「……爽馬が幸せなことくらい、見ればわかる」

「待って、どういう意味なんだい、それ!?」

「あと、俺のことも忘れるな」

「……っ」

 しれっと放たれた言葉が耳に届いてから、脳に到達するまでにひどいタイムラグがあった。数秒かかってその意味が脳に浸透していき……それに比例して頬に熱が集まっていく。バッと心臓を押さえ、神風は思わず山田から顔をそむけた。

「ふっ、ふざけたこと言ってないで部屋行こうよッ! っていうかそれとこれとは別じゃないかッ!」

「わかってる。言ってみたかっただけだ」

「何なんだい、本当にッ……!」

 押さえた心臓は痛いほど高鳴って、全身が彼への恋情を訴えていて。自分の部屋のドアノブを捻り、神風は深く息を吐くのだった。

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