第84話 僕はいつでもどこでも

「おはようございます、郁君……って、どうしたんですか?」

 塾の自習室、いつもの席の脇にリュックを置くなり、昴小路は素っ頓狂な声を上げた。隣に座る犬飼のシャーペンの動きがいつになく鈍く、その顔色も熱に浮かされたように赤い。顔を上げた彼の瞳には光がなくて、昴小路は彼の方に椅子を寄せた。

「……なんだ、昴小路か」

「直嗣です。郁君もしかして風邪ですか?」

「……わからん。今日はなんだか頭が働かない……」

 その声もどこかぼんやりとしていて、昴小路は椅子に腰を下ろす。彼の額に手を当てると、じわりと火照るような熱。そこまで深刻ではないが、と昴小路は犬飼の額から手を離した。

「熱がありますね。帰りましょう」

「は……?」

「は、じゃないです。帰りましょう。迎え呼んどきます」

「……あ、ああ」

 半ば押し切られるままに荷物を片付け、立ち上がる犬飼。その足取りもどこかふらついているようで、昴小路は何気ない風を装って彼の腕を取った。

「……昴小路」

「そんなふらついてると心配ですよ。さ、行きましょう」



「……こんばんは、昴小路です。……はい、僕です。郁君が熱出しちゃったみたいなので、迎えに来てもらえますか? 今、塾の前にいるんですけど……はい、はい、わかりました。待ってますね。では、失礼しますー」

 電話を切り、塾の軒先で朝方の空を見上げる。隣に立つ犬飼の肩を支えながら、呟いた。

「っていうか新年早々風邪ひくってどういうことなんですか。不吉です」

「……多分、昨日の初詣でもらってきた……と思う」

「マスクくらいしていきましょう? 僕達まだ2年生ですけど、来年は受験なんですよ。しかも僕らの代から新テストなんですよ?」

「……」

「ついでに言うと僕は医者志望です。看過できません。体調管理はしっかりしましょう」

「……ごもっとも、だな」

 肩を落とし、犬飼は呟く。昴小路の腕が彼の肩に回る中、彼はアスファルトを眺めながらぽつぽつと語る。

「……実を言うと、朝から体調が悪かった」

「じゃあなんで塾来たんですか」

「今日は模試だ。来ないわけにはいかないだろ」

「……来たところで、体調悪かったら元も子もなくないですか?」

「……」

 反駁の余地のない言葉に、犬飼はアスファルトを見つめて押し黙る。そんな彼を抱き寄せ、昴小路は口を尖らせる。

「どうせ試験問題はあとで貰えますし、いつでも解けるんですから。体調悪いんだったら大人しく休んでください。約束です」

「……ああ」

「にしても弱ってる時の郁君は妙に素直ですよねー……」

 犬飼の硬質な黒髪をそっと撫でつつ、昴小路はどこか不満そうに頬を膨らませる。熱に浮かされた瞳で見上げてくる犬飼に、彼は語りかける。

「素直な郁君も好きですけど、普段の跳ねっ返りの強い郁君の方が好きです」

「……?」

「明日はゆっくり休んでください」

「……ああ」

 ぼんやりと頷く犬飼の額をそっと撫で、昴小路は彼を抱きしめる腕をそっと強める。

「……だからこそ、放っておけないんですよね……」

「……何か言ったか?」

「郁君大好きって言ったんですよ」

 悪戯っぽい笑顔で言い放つと、犬飼はバッと顔を伏せた。小さな身体が細かく震えだし、それすらも愛しくて昴小路は黒髪をそっと撫でる。伏せた顔から湯気すら立ちのぼりそうで、犬飼は薬缶やかんが笛を吹くように叫んだ。

「……ば、馬鹿なこと言うなッ! 衆人環視の場だろうがッ!」

「いいじゃないですか。僕はいつでもどこでも郁君が好きなんですから」

「だ、か、ら、お前はッ!」

「あ、車来ましたよ」

「っ!?」

 慌てて顔を上げ、昴小路の腕の中から脱出する犬飼。肩で息をするその姿はどこか滑稽で、愛しくて。近づいてくる車の音を聞きながら、昴小路は小さく手を振った。

「それじゃあお大事に。僕は塾に戻ります」

「ああ。……お前も気をつけろよ」



「大変大変大変大変!」

 派手な足音を響かせながら、茶色のウェーブヘアが教室に飛び込んできた。肩で息をする彼に、すっかり復活した犬飼が迷惑そうに口を開く。

「なんだ、柿原。新年一発目の講習の朝から」

「いやいやいや、超重要な話! 例の通信コースからの試験編入生の話!」

「えっ!?」

 号砲のような言葉ように、一斉にクラス全体が色めき立った。御門が片眉を跳ね上げ、桃園が瞳を輝かせる。興味なさそうなのは、それこそ電子辞書で遊んでいる山田くらいなものだ。相変わらずだなぁ、と苦笑いを浮かべ、神風は前方の席でさえずる雨トリオの声に耳を傾ける。

「試験編入生って、なんかわかったのか!?」

「そうなの、わかっちゃったんだよ! さっきティーチャーズが喋ってるの聞いちゃってさ!」

「え、マジ!? 女? 男?」

「男、男。席は神風クンの隣になるって!」

 ふと自分の名前が呼ばれ、神風はぱちぱちと目を瞬かせた。試験編入生が隣に来る。つまり、自分がしっかりしないといけないということで。柿原のハイトーンボイスは続く。

「なんか去年のうちに転科試験はパスしちゃったらしいんだよ。通信でそれってすごくない? なんかオンラインで進学に強い塾とかに通ってたらしいんだけどさ、普通にすごいよ。ボクらも負けてられなくね?」

「そんで、性格とかはわかるの?」

「ごっめん御門クン、そこまではわかんない! でも多分いい子! 人見知りっ子チャンらしいけど、多分いい子!」

「だってさ」

 ひょこ、と御門が神風を振り返る。いつも通りにニヤニヤと、それでも全面の信頼を寄せた瞳が彼を見つめた。

「まぁ爽馬なら大丈夫でしょ」

「御門くん、すごく信頼してるねー」

「ま、僕の幼馴染だし?」

「……なんで御門くんがドヤ顔するのー? それで柿原くん、その人、名前はなんていうの?」

 桃園の問いに、柿原は両手で頭を押さえた。目を瞑り、その名前を記憶から引っ張り出そうとする。

「えーっと……チョコ会社みたいな名前だったんだよな。明治じゃなくて、不二家じゃなくて、えーっと……」

「……ゴディバとか?」

「んなわけないでしょ。クレアじゃないんだから」

 桃園のボケに、呆れたような御門のツッコミ。と、柿原が思い出したように両手を打ち鳴らした。

「そぉおおだ! 森永だ、森永クン!」

「……!?」

 唐突に山田が電子辞書から顔を上げた。ふるり、きめ細やかな肌に鳥肌が立つ。眼鏡のテンプルに隠れてわかりづらいが、その瞳は確かに揺れていて……神風はその横顔を見つめ、おずおずと口を開いた。

「……スターライト?」

「……いや、なんでもない」

 軽く頭を振り、再び電子辞書に目を落とす山田。だけどその指先は抑えきれないほどに震えていて……神風は遠い人を想うように、彼を見つめるのだった。

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