第10章 風の下 第1話 不安

 


 エミリアが寝込んで、3日が経った。桜の連れてきた医者は、大変腕の立つ医者で、シャーロット婦人にも、櫛にも感謝された。エミリアの容態は何とかよくなった。

 櫛はあれから、ずっとエミリアに付きっきりだ。

「・・・」

 桜はというと、毎日毎日部屋で引きこもっている。聖体探しはとりあえず、櫛が落ち着くまで休止しようと思ったのだ。彼女がエミリアから離れない以上、聖体を見つけても、この世界を旅立つことはできない。

「あのさ・・・櫛のことなんだけど」

 ヒクイドリが言った。

「もしかして、あの子、元の世界に帰る気ないんじゃない」

 桜はその言葉に目を伏せた。 

「・・・」

 薄々気づいてはいた。櫛は、この世界を現実だと思いこむことで、自分の精神を保とうとし始めている。櫛は自分とは異なる方法で、異世界に飲み込まれようとしている。

「本気でエミリアって子の姉になる気じゃ」

「・・・」 

 桜はそれはまずいと思っていた。

 桜の推測が正しければ、エミリアは・・・。

「・・・大丈夫ですよ」

 桜は自信なさげに言った。

 櫛は、今までの17年間、あの世界にいたのだ。あの世界に愛がないはずはない。しかし。

「・・・もし、これから、ずっとここに住むって言われたら困るわね」

 ヒクイドリははあ、とため息をついた。桜は、ひきつった笑みを浮かべた。

「やめてください。冗談じゃない」

「そう?改めて、あなたはどうかしら?」

 ヒクイドリは聞いた。

「あの世界に帰りたい?」

「ええ、当然です」

 桜は顔をしかめた。

「そんなの分かりきってる」

「あなたの街はたぶん破壊されつくされている。あなたが過ごした街は火に包まれている」

「ひどい有り様でしょうね」 

桜はため息をついた。

「・・・」

「あなたはそれでも帰りたいの?」

「はい」

「なぜ?」

「・・・僕は、きっと異世界が嫌いです」

 桜は言った。

「自分の目の届かない世界には興味がないんです」

「・・・そう」

「だから、夢の中で僕に入ろうとしてくる人のことも嫌いです」

「・・・・・・西条敦、か」

 ヒクイドリは言った。

「1990年代のメサイアロードの参加者」

 桜は頭を押さえた。

「僕は彼の視点で世界を見た。彼の人生を体感した。生まれるときから、死ぬまでの。彼の痛みは僕の痛み。彼の苦しみは僕の苦しみだった」

「・・・・・・桜」

「僕は、彼が怖いですよ」

 桜はうつむいた。

「だから、異世界も嫌いなんです。だから、せめてたとえ壊れてしまっていても、見知った景色の中に帰りたい」


 


 櫛は彼女の額に手を当てた。熱は下がっている。エミリアはもぞもぞ、と布団を動き回り、目をぱちりと開いた。

「・・・・・・」

「エミリア、起きた?」

「クシ・・・」

 エミリアはその大きな瞳を細めて笑った。

「おはよう、ずっといてくれたの?」

「うん、ちょっと眠いけど」

「寝てないの?」

「いや、寝た寝た」

 櫛は微笑んだ。

「大丈夫?ご飯あるけど、食べれる?」

「うん、お腹空いてる」

 エミリアはよいしょ、と起きあがろうとする。櫛は彼女の背中を支えた。

「ねえ、サクラは?」

「今、部屋にこもってる」

「お医者さん、連れてきてくれたんだね」

 エミリアは微笑んだ。

「やっぱり、サクラはいい奴ね」

「ええ」

 櫛はうなずいた。

「ちょっと、変わってるけどね。いい人よ」

「・・・でも、櫛とは違う」

「え?」

「あいつは、きっと本当のこと言わないもん」

「そう?」

 櫛は盆から粥の入った茶碗を持ち上げた。

「結構、話してるでしょ」

「・・・・・・そうだけど。なんだか、仮面を被った人みたい」

 エミリアは眉をひそめた。

「いつも、上辺だけで話してる」

「仮面ねえ」

 櫛はスプーンを彼女の口に近づけた。エミリアはそれにぱくりと食いついた。

「でも、意外と、情緒不安定なのよ、あの人」

 櫛は微笑んだ。

「怖くなるとすぐ泣くし、引きこもるし、自分のものが壊されるとすごく怒る」

「・・・クシは、桜のこと好き?」

「・・・好きよ」

 櫛は肩を竦めた。

「ずっと一緒の仲良しだもん」

「・・・ずっと、一緒か」

 エミリアはなんだか、悲しそうに笑った。

「うらやましい」

「・・・」

 櫛は、スプーンに山盛りの粥を乗せた。そして、それをエミリアの口に運ぶ。

「一口がでかい」

「あーん、しなさい」

「でかいって」

「いいから」

 櫛は微笑んだ。

「・・・・・・あたしも桜も、あなたとずっと、一緒だよ」

 エミリアは目をぱちぱちさせ、顔を赤くした。

「え?別にいいし、そんなの・・・」

 彼女は照れを隠すように、山盛りの粥を口に含んでほおばった。

 ふふふ、と櫛は笑った。この日常を失いたくない。もっと、エミリアたちと仲良くなりたい。桜も一緒に。

 日常に、戻るんだ。

「どうしたの?」

 エミリアが櫛の目をのぞき込んだ。

「え?」

 櫛は我に返った。エミリアは笑った。

「ぼうっとしてたよ」

「・・・そう、ごめんね。なんだか眠たくて」

「ちょっと寝たら?私のことはいいから」

「・・・うん」

 櫛はうなずいた。

「お言葉に甘えようかな」

「どうぞ?」

 櫛はエミリアのベッドに入り込もうとした。

「あれ?何か、足下にある」

「え?」

「なんだこれ?」

 エミリアはもぞもぞと動いた。櫛は布団をめくった。

「え?」

櫛はどきりとした。そこにあったものに嫌悪を覚えた。

 櫛はそれが何なのかに咄嗟に気づき、ポケットの中に滑り込ませた。

「何だった?」

「・・・ごみだよ」

 櫛は微笑んで、布団を直した。

「もう寝よう。おやすみ」

「うん。おやすみ」

 櫛はポケットの上から、それを握り込んだ。

SDカードだ。

何で、こんなところにこれがあるのだろう。桜が持ってきたものでも、櫛が持ってきたものでもない。エミリアの所有物かもしれない。これが何なのかはわからない。けれど。

 これが、この日常を破壊しうるものだと、櫛は理解していた。

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