2章-56話 もう一つの試練

 吸盤のついた幾つもの触手。水面から伸びるそれは視認出来るだけで十程度。一本一本がリュートの胴回り以上はある。


 本来であれば海に生息する軟体の魔物。海を知らないリュートは本で読んだことがあった。


 クラーケン


 そう呼ばれる海の災厄。リュートの知識よりか幾分小ぶりだが、水中から襲い来る脅威に変わりはない。


 なぜこんな洞窟の湖にいるのか、それは宙で笑みを浮かべるベンジャミンが創り出した人工の魔物。竜種を造り出したというのが真実であれば、他の魔物を造ることも可能だったのだろう。


 腰の剣を抜き放ち、即座に動けるよう意識を切り替える。


 水面は大きく波打ち、鮫の死骸も激しく揺れる。


 足場としてはかなり不安定だ。


 魔石の明かりに照らされた洞窟内に陸地は見えず、一面水しか見えない、ところどころに岩があり、空を飛べるわけでは無いリュートはその位置をしっかりと記憶する。


 水棲の魔物と相対した時は、水の中に引きづり込まれない事に気を付けなければならないが、少ない足場でどう戦うべきか素早く思考を巡らせていた。


 環境的不利を覆す算段を付ける前に、触手の一本が水面を切るようにしてリュートへと襲い掛かってくる。その動きは鈍足ではあるが、殴られれば痛いでは済まない。


 鮫の死骸の上では踏ん張りがきかないと、リュートは即座に岩の一つに飛び移る。


 鮫の死骸に振り下ろされたクラーケンの触手は、そのまま鮫の半身を水中に引きずり込み、岩に着地したリュートへと別の触手を動かす。


「ふふふふふ。ふはははははっ! げほっ。かふっ!」


「うるさいっ!」


 高笑いのしすぎでむせ返っている影に文句をぶつけながら再度跳躍。足場だった岩にクラーケンの触手が巻き付き砕く。


 水上に見える岩はそれほど多くない。数度繰り返せば着地点が無くなるだろう。


「どうするんだリュート。もう足場が無くなるぞ」


「……」


 癇に障る声に苛立ちながらリュートは意識を影から外す。影を切り捨てる事も考えたが、どうせ新しく現れるのであれば無駄な労力。それよりも未だ足しか見えないクラーケンをどうするかに思考を傾けるのだ。


 まずは触手をどうにかしなければ本体どころの話ではないと、リュートは岩から足を踏み出す。


「おや? 自ら水の中に入るのですか……」


 影にはそう見えたのだろう。水の中に入って戦うと。


 だが違う。


 水面に足を付けたリュートはそのまま駆ける。


 両手で握り締めた剣を構え、水の上を走り出したのだ。


「っ?!」


 影が驚いたように息を呑む音が聞こえた。


 リュートが一本の触手に狙いを定め駆け抜けざまに一閃。上下に両断された触手が水に落ちる前にもう一本。そしてさらに一本、別の触手が反応する前に切り落としたからだ。


 その間リュートは脚を止めない。


 別に水の上に立っているわけではないのだ。


 風の精霊の力で極力身体を軽くし、片足が沈む前にもう片方の足を出しているのだ。リュートはほんの数秒で三本の触手を切り落とし元の岩へと戻る。


「ふ、ふふふ、ふふふふ。さすがは我輩が見初めた男。だがまだまだこれから。触手の先端を少し切ったくらいでは終わらんよっ!」


「気持ち悪い事をほざくな」


 水面に出てきているのは長い触手のその先端でしかない。本体が顔を見せない以上致命の攻撃を与える事は出来ないのだ。


 それでもリュートが剣を振るえばその分クラーケンの攻撃手段が減り、戦闘は楽になっていく。


「まさか水の上を走るなどと離れ業をするとは思わなかった……だがっ! 行けっクラちゃんっ!」


「っ!?」


 影が叫ぶのと同時に立っていた岩の下から触手が伸びてくる。跳躍して躱すが、最後の足場を破壊されたリュートに逃げ場は無い。


 さらに、周囲の水面から先ほど切ったものとは別に数十以上の触手が出てきた。せいぜい十本程度だったと記憶していたが、すでに三十はゆうに視認出来ている。


「ふははははははっ! 我輩の本体。つまりは史上最高の頭脳が生み出した生物。既存の知識に当てはめてもらっては困るっ!」


 高笑いは続く。


 足と腕を動かしクラーケンの攻撃をしのぎ続けるリュートだったが、次第に躱しきれなくなる。少しでも走る速度を落とせばそれだけで水の中に沈んでしまう。


 一度足が沈めば二の足はさらに重くなるのだ。


「しまっ……っ!!」


 リュートの足を止めたのは真下から飛び出してきた一本だった。


 絡みついた触手は勢いよくその身体ごと水中へ引きづり込む。


 即座に剣を振るい絡みついていたそれを切り落とす。リュートが水面を見上げると、すでに幾重もの触手が進路を塞いでいる。


 水中では風の精霊の力はほとんど作用しない。水中に空気は無く、風も吹くはずが無いのだ。


 出来る事と言えば多少長く呼吸を止めていられることくらいだろう。


「……」


 内心で舌打ちをするリュートは、僅かな魔石の明かりで見える正面に目を向けた。胴体の体長はそれほど大きくない、せいぜい数mくらいだ。イカのように見えるその姿は本の知識と大差なかったが、その口元には、触手とは呼べない量の触手が水中を埋め尽くす程に伸びていた。


「どうする、リュート……ここらで諦めるか? 『ごめんなさい。天才のベンジャミン様にはかないません。どうか私に貴方様の宝剣を使う栄誉をお与えください』とかいえば、試練は合格にして仕方ないから我輩の剣を使わせてあげてもいいんだぞ」


「……」


 音ではない別の何かでもって聞こえる声の方角を睨みつける。するとリュートとクラーケンの本体の丁度中間程の位置に青い影が浮かび上がった。


 軽い口調で話す影の言う通りリュートは追い詰められている。多量の触手が邪魔で水上に出る事は叶わない。さらに水中では動くことも剣を振る事も遅くなってしまう。


 もって数分の酸素でこの状況を抜け出す事は難しい。


「ふん。まだ諦めませんって顔してるな。ならばクラちゃん、もう少し痛めつけてやりなさい」


 声と同時に触手が動く。水中は相手の領域、影もクラーケンも、リュートが何も出来ないと思っているのだろう。


 攻撃は単調だったが、リュートは振るわれる触手の軌道から動かない。


 そのまま水の中を切るようにして襲い掛かる触手がその身体に叩きつけられた。


 

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