第28話 冷静さを欠いた方の負け

 少しだけ、痛いと感じるかもしれない表現があります。

 ――――――――――――――――――――


 地が抉れる。


 枝が折れる。


 葉が舞い落ちる。


 クラウンは、月光に照らされる白の糸をかわし続けていた。


「もー、逃げないで欲しいなぁ」


 両の指を動かして糸をしならせるリオリス。


 少年は微笑みながら、枝葉に糸を張り巡らせた。


 クラウンは身をひるがえして糸を躱し、木の幹に足の裏を着く。


 少年の背後をとった道化。黄金の瞳はすぐさま振り返るが、その一瞬があればクラウンは良かった。


 膝を曲げ、道化師は勢いよく幹を蹴る。幹からは今にも折れそうな軋みが聞こえ、葉が雨のように降り注いだ。


 リオリスは糸を飛ばし、クラウンはクラブで受け止める。糸が絡まったクラブを捨てたクラウンは、別のクラブをリオリスに向かって叩きつけた。


 しかし、感じたのは固い殴打の感覚ではなく、柔らかく受け止められる感覚。


 両掌に糸を纏わせたリオリスは、笑いながらクラブを受け止めていた。


 クラウンは瞬時にクラブを手放し、リオリスは口から糸を吐き出す。それは道化の黒髪を掠め、重たく絡みついた。


「鬱陶しい」


 クラウンは仮面を外し、リオリスに投げつける。少年は笑顔で仮面を受け止め、開けた視界に道化師は息を吐いた。


「折角買ってあげたのに」


「返却するわ」


「受け付けないよ」


 リオリスは両手でクラウンの仮面を撫でる。月夜に覗いた深海の青は美しく、宝石の左目は凍てつく殺気を孕んでいた。緑髪の少年は、和やかに黄金の瞳を細めているのに。


 クラウンは両手にクラブを抜き、勢いよく回す。ホルスターに入れられていたのは計四本。道化師の両手にあるのが残りの二本だ。


「お前には聞きたいことが山程ある」


「良いよ、なんでも答えてあげる」


 リオリスは仮面を背後に投げ捨てる。クラウンはその動作を見ながら、クラブを甲高く打ち鳴らした。


「リオリス、お前がイセルブルーの事件を起こした奴で、間違いないな」


「うん、そうだよ」


 あまりにも。


 あっさりと。


 悪びれなく。


 リオリスは小首を傾げて笑っている。


 クラウンは、怒鳴り声を飲み込む為に奥歯を噛み締めた。今までのリオリスの態度を思い出す道化師は、未だに半信半疑だったと言うのに。


 少年はあっけらかんと自分の行いだと肯定した。


 温室でロシュラニオンとクラウンを抱き締めた少年が。


 クラウンに共に背負おうと言った団員が。


 一緒に王子の傍に居続けた付き人が。


 凍り付く城から戻った踊り子に、喜んでいた友達が。


 クラウンの頭に血が上り、額が熱くなり、青い左目は殺意に凍る。


 リオリスは目を細め、周囲の木々にゆっくりと糸を張り巡らせていった。


「なんで事件を起こしたかって? それを話すには俺の種族についても教えないといけないから、嫌なんだけどなぁ」


「お前に話さないなんて言う選択はねぇよ」


 クラウンはクラブの持ち手を握り締める。リオリスは困ったような顔をして糸を指先から飛ばし、道化師はクラブを振り抜いた。


 芝に落ちたのはクラブの持ち手から先。その中身は不自然に空洞があり、クラウンの目の前で白い糸が切り裂かれた。


 クラブの持ち手の先に付いているのは、鋭利な刃。両刃のそれは月光を反射し、クラウンの両手で煌めいた。


「わぁ、暗器か」


「只の商売道具持って、犯人追求なんざしねぇだろ」


「それもそうか」


「さっさと話せ、リオリス。お前の種族について、なんで事件を起こしたか、どうしてラニの記憶を奪ったか、今まで何考えて過ごしてたか、全部吐け」


 リオリスは緑の頭を掻く素振りをし、片手は腰に当てる。


 暫しの沈黙が流れ、その間クラウンが気を緩めることなどなかった。


「……仕方ない」


 諦めたように息をついた少年は、やはり笑顔を少女に向ける。いつもと変わらない彼らしい笑顔を。


「俺の種族はパラメルって言ってね――記憶を食べるんだ」


 クラウンの左目が見開かれる。彼女の指先は痙攣し、頬を冷や汗が流れていった。


「聞いたことないでしょ? どの図鑑にだって載ってない筈だ。だって載せられたら、俺達は食事をするのに往生するからね」


 リオリスは微笑み続け、自分の腹部を摩る。クラウンは口を結び、頭の中では今まで見てきた図鑑を素早く思い出していた。


 そこには記憶と言う単語は載っていなかった。関連する語句も無ければ、記憶を食べる種族などクラウンは知らない。


 リオリスはクラウンを見て、やはり笑い続けた。


「だから俺達は自分の種族を名乗らない。教えない。そうして広めないようにひっそり生きて来たんだ」


「……お前が記憶を食べてる所なんて、見たことねぇけどな。食事は団長や私と同じものだったろ」


「普通の物も食べようと思えば食べられるんだ。栄養は足りてないけど」


 リオリスは目を伏せて両腕を脱力させる。


 クラウンの脳裏には自分と同じ食事をしていたリオリスが浮かび、「でもね」と言う少年の声に呼び戻された。


「やっぱり俺達は記憶を食べなきゃいけない。その中でも、楽しい記憶が良い。キラキラして、温かくして、思わず笑っちゃうような記憶」


「悲しい記憶や嫌な記憶は、マズそうだもんな」


「ご名答。舌が痺れて味も独特。進んであんなの食べたくないね」


 リオリスは舌を出して笑う。微かに覗いた犬歯は尖っており、クラウンは短剣を握り直していた。


 今の発言からすれば、リオリスは嫌な記憶を食べたことがあるのだ。同時に思い浮かぶのは、入団当初の痩せた兄弟の姿。


 クラウンは目を伏せかけて、奥歯を噛んでそれを止める。目で、耳で、リオリスの全てを聞く為に。


「でも、悲しい記憶や嫌な記憶は体力向上、楽しい記憶は心の安定、嬉しい記憶は治癒の促進……記憶の種類によって、色々と作用してくれるんだ」


 クラウンは眉間に皺を寄せ、リオリスは微笑み続ける。彼の周囲の木々は白く糸で巻かれ、月光に照らされていた。


「その中でも、俺達はね――恋した記憶が好きなんだ」


 恍惚こうこつとリオリスが笑う。目元を染めて、楽しそうに。


 対してクラウンの目は見開かれ、唇が固く結ばれた。


「誰かを想う優しい記憶。相手に夢中な甘い記憶。嫉妬や不満も少し混ざった苦い記憶。全てが輝くような愛しい記憶ッ」


 リオリスが口角を吊り上げる。彼の金色の目は見開かれ、嘲笑あざわらうようにクラウンを見下ろしていた。


「恋の記憶は万能薬さ! 俺達パラメルのどんな病気だって治してくれる、どんな不調も正してくれる、どんな苦痛も和らげてくれる!」


 至極幸福そうに顔を覆ったリオリスを見て、クラウンの肩が微かに震える。心酔するように頬を染めたリオリスの目は、固まるクラウンを指の間から射抜いていた。


「だからロシュの記憶を貰ったんだ。君に――アスライトに恋してた、ロシュラニオンの記憶をね」


「お、前ッ!!」


 クラウンの全身が怒りに震える。筋肉が燃えるように熱くなり、笑う彼に向かって地面を蹴る。地は深く抉れて土が飛び、クラウンは容赦なく短剣を振り下ろした。


 リオリスは楽しそうに跳躍し、糸を巻いた枝に飛び移る。


 クラウンはそれを追い掛け、白い幹を蹴り上げた。


 だが、彼女の体は上へ行かない。


 粘着性を持った糸が靴の裏に張り付き、道化の自由を奪うから。


 リオリスはクラウンに向かってすぐさま糸を投げ、道化は靴を脱ぎ捨てる。


 幹に張り付いた靴は捨て、もう片方の靴は少年に向かって蹴り飛ばして。


 弾丸のように飛ばされた靴の爪先からは刃が飛び出し、リオリスの頬を切り裂いた。


 赤い血液が飛び散り、白い木に滴り落ちる。頬を拭ったリオリスは、黄金の瞳を輝かせた。


 薄い靴下で芝を踏んだクラウン。彼女の頭は熱く沸騰し、同時に知ってしまう。


 リオリスが――誰の為に記憶を奪ったのか。


「レキナリスの為かッ」


 クラウンの脳裏に浮かんだ、心臓に病を持った団員。最近では少し走るだけでうずくまってしまう彼は、薄幸的に笑うのだ。


 リオリスは、レキナリスを慕っている。


 仲が良い兄弟だとサーカス内でも有名であり、兄が体調を崩せば弟はその傍から離れたがらない程に。


 それを知っているからこそ、クラウンは事件の日の行動に違和感を覚えてリオリスを疑ったのだ。


「あぁ、そうだよ」


 リオリスは答え、けれどもクラウンには疑問が残る。


 レキナリスの体調は――良くなっていないのだから。


「……お前、レキに黙ってラニの記憶を盗ったな」


 クラウンはリオリスをきつく睨み上げる。


 そうすれば、緑髪の少年は笑みを消した。仮面が剥がれるように無表情になったリオリスは、両手をいびつに脱力させる。


「俺はただ、兄さんに、元気になってもらいたかっただけだ」


 リオリスの瞳孔が開き、食い入るようにクラウンを見つめる。顔から表情は失せ、まるで人形のように冷たく、生気すらも感じさせない。


 クラウンの全身には鳥肌が立ち、彼女は瞬時に後ろに跳んだ。距離を取った道化の頬を冷や汗が流れ、リオリスは首を傾けている。


「兄さんの病気は恋の記憶さえあれば治る筈だった。なのに、俺が記憶を届けたら、兄さんはいらないって言ったんだ。そんな記憶いらないって泣いて、食べてくれなくて、元気になって、くれなくて」


 黄金の瞳に影が落ちる。黒い淀みは黄金を濁し、周囲の木々は糸に覆われていく。幹も、枝も、葉も、芝さえも。


「これでもさぁ、苦労したんだよ。糸にくるんだイセルブルーが検問で見つからないかとか、埋める所を誰かに見られないかとか。まぁ、見られたら記憶を食べればいいんだけど」


「リオ、」


「事件なんて起こさずロシュの記憶を奪ってもよかったけど、それだと犯人が特定される危険性が大きそうだよね。だからイセルブルーを隠れみのにしたんだ。あぁ、ニアさんとかには悪いと思ってるよ。不便な思いさせてるしね」


「お前、ッ」


「だから、兄さんが記憶を食べてくれない時はショックだったよ。レットモルに永住するって言うし、俺がしたことなのに兄さんが責任感じてるし」


 深呼吸するクラウンは、頭を掻き毟るリオリスを見つめる。彼が話すごとに、道化の頭の中は乱されるから。


「だから、今日までの行動は再挑戦なんだ」


 道化師に向かって白い糸がしなる。クラウンは地面を蹴って糸を躱し、リオリスの隙を探していた。


「兄さんの病気は悪化してる。このままだと、あの人は長くない」


 リオリスは俯き、指先から白い糸を垂れ流す。


「でも、記憶の鮮度だって永遠には保たれない。切り離したものだもん」


 クラウンの頭に血が上る。リオリスの言葉一つ一つに、道化の怒りは煮えていく。


「だからさ、真っ白なロシュには、もう一回君を好きになってもらおうと思ったんだ」


 クラウンの足が止まりかける。


 思い出したのは、緑髪の少年に、息抜きとして連れ出された青空の下。


 二人で誓った確かな約束。


 顔を上げたリオリスは、濁った黄金の瞳を細めて――笑っていた。


「君に、ロシュの傍にいて欲しいって言ったの、だーれだ」


 その、言葉で。


 クラウンの理性が――焼き切れた。


「――リオリスッ!!」


 道化の頭は煮え切り、顔が熱い。指先は震えて冷静さなど捨てられた。見開かれた目は殺意に濡れ、笑うリオリスを許すなと、少女の全てが叫び散らす。


 クラウンは、持てる脚力全てを使って地面を蹴った。


 リオリスに向かってクラウンは飛ぶ。踊り子のような優雅さはなく。道化師のような陽気さもなく。


 ただ、殺意を持って剣を振り抜く。


 リオリスは濁る瞳でクラウンを見下ろし、枝を後ろに蹴っていた。


 クラウンの短剣は少年の毛先を切るだけで、殺意は届かない。


 奥歯を噛み締めた道化師は、自分に伸びた白い糸を躱せなかった。


「ッ、!」


 枝に宙づりにされたクラウンは剣に絡まった糸を睨み、渾身の力で暴れ、それでも解けない拘束に唇を噛み締める。


 リオリスは楽しそうに青い少女を糸で巻いていき、口も、腕も、足も包んでしまうのだ。


「良かったよ、君がアスライトを殺してくれて。恋の記憶を奪うのは初めてだったから俺も知らなかったんだ。まさか恋した相手を見る度に、体や頭が無い記憶を探して意識を飛ばすだなんてね」


 クラウンの心臓が破裂しそうな鼓動を繰り返す。真っ赤に染まった目元は彼女の髪や瞳には不釣り合いであり、殺意は増長されていた。


「記憶が無くなってもロシュはロシュだね。やっぱり君に恋してくれた。温室で泣いてる君と倒れた彼を見た時、俺は諸手を挙げて笑いたかったんだ。でも我慢したよ。不謹慎だって流石に分かるし。君達を慰めるフリして、抱き締めて、俺って優秀な役者でしょ?」


 青い少女の目が充血していく。無くした右目が疼くように痛みを覚え、頭がひりつき、それでも彼女はリオリスから視線を外さない。


 自分の目の前で、楽しそうに笑う少年から。


「あぁ、奪う相手は正直言えば誰でも良かったんだ。ナル姉さんやベレス兄さんとかも視野には入れたけど、やっぱり大人より子どもの方が良さそうだと思ったんだぁ。だって純粋だから」


 リオリスがクラウンの青い髪を撫でる。その手から離れようとした青い少女に、それでも自由はないのだ。


 彼女の怒りがどれだけ熱くとも、白い糸は焼き切れない。


 少年は目を細めて、両手の指から今までで一番多くの糸を流し始めた。


「本当は、クラウンには俺を好きになってほしかったんだけどね」


 クラウンの顔を糸が這っていく。それは少女の眼帯を外し、両の瞼を無理矢理開き、右目の空洞が月夜に晒される。


「俺を好きになってくれたら、後腐れなく恋の記憶を貰えると思ったんだ。ロシュは君に恋をして、君は俺に恋をする。これで恋の記憶が二つも貰える! でも君はずっとロシュ一筋で、俺の行動には応えてくれない。俺達はやっぱり家族の域にいたんだろうねー、残念残念」


 クラウンの右目の空洞に糸が入り込んでいく。


 左目の眼球の奥にも糸が入り込み、額からも白が溶け込んでいく。


 クラウンの頭には激痛が走り、叫び声は口を塞ぐ糸に吸い込まれた。


 全身から脂汗が零れ、体が急激に冷え、呼吸は早まり眩暈がする。


 右目を抜き出されたあの時とは違う。無痛のまじないはかけられず、リオリスは目を細めていた。


「あぁ、俺がこんなにべらべら喋ったのはね、元から今夜の記憶は奪う予定だったからなんだ。怒った記憶はからくて嫌いなんだけど」


 クラウンの足先が痙攣する。左目からは自然と涙が流れ、リオリスは優しく頭を撫でてやった。


「我慢してね。この痛みに、君が大好きな王子様も、あの怖がりのロマだって耐えたんだ。大丈夫、死んだりしない」


 クラウンの意識に影が差していく。痛みは徐々に引いていき、頭の中には霧がかかっていく。


 それは微睡むような心地よさを与え始め、彼女の四肢から力が抜けた。


 忘れたくないと、どれだけ足掻いても。


 忘れてなるものかと、リオリスの姿を網膜に焼き付けようとしても。


 クラウンの瞼が解放され、重たく閉じられていく。


「おやすみクラウン――また、明日ね」


 クラウンが最期に見たのは、眉を下げて笑ったリオリスの顔。


 彼女の全身から力が抜け、青い少女は完全に意識を飛ばした。


 目の淵や額から、燃えるような赤に染まった糸が抜かれていく。


 それはリオリスの前で赤い繭玉として生成され、少年はクラウンの頭を撫で続けた。


「……ごめんね」


 リオリスは目を伏せる。


 彼は口を開け、赤い記憶を噛み締めた。

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