第六章 第二十七話「ましろはみんなで笑いたい」
もう歩けなくなった……と言って、左足を上げる五竜さん。
彼女の登山靴は壊れていた。
左の靴の靴底部分が大きく剥がれ、だらしなく口を開けたカエルの顔のようにも見える。
一見するだけで、もう使い物にならないと分かった。
「メンテナンスをしろという忠告が、現実になってしまいましたね……」
「その靴、たしか五竜のばあちゃん……うちの校長からの貰い物だったんだよな。なんで新品を使わなかった?」
「わたくしは登山を続ける気がありませんし、無駄と思ったからです。しかし……山をなめていました。今回の事は、わたくしの経験の浅さが
そうつぶやく五竜さんにいつもの威圧感はなく、
そして深いため息をつくと、つくしさんに向き合い、告げた。
「部長。申し訳ありませんが、リタイアさせてください。もう……どうしようもありません」
リタイア。
その言葉を聞くと、自分の事じゃないのに胸が締め付けられる気持ちになった。
当事者じゃないのに苦しい気持ちになるぐらいだから、つくしさんも
その表情を見たくなくて、私は視線を落とした。
こういう暗い気持ちになることも、私が競争を苦手とする理由の一つだ。
競争をすると勝ち負けが決まるし、負ける側の空気はどうしても重くなる。
たとえ自分が勝てたとしても、どうしても負ける側に感情移入してしまって耐え難かった。
私が憂鬱な気分にとらわれている間、
「あんなに勝利にこだわってたのに、あきらめが早くないか?」
「もちろん、あきらめたくはなかった。……色々と試しました。でも、ガムテープは雨ですぐ剥がれました。針金は使えそうですが、両足を直すには長さが十分ではありませんでした」
「両足? ……まさか、左右どっちの靴も壊れたっていうのか?」
美嶺が驚くと、五竜さんは両足を持ち上げて見せる。
なんと、左右の靴が同じように壊れていた。
靴底がベロンとはがれ、かかと部分でかろうじてくっついているだけだ。
こんな偶然はあるのかと思っていると、千景さんが私の背後から顔を出す。
「ソールの粘着剤の劣化は……両足で同時に、進む。きっと……無理な力が加わり、同時に剥がれた」
なるほど。
そう言われれば、たしかにあり得そうだ。
「……靴が壊れれば歩けません。素足で残り四時間以上を歩けというのも、酷でしょう?」
「それは……そうだけどさ」
「我々はリタイアとなります。二日目の体力点が零点になりますから、間違いなく
力のない声で、祝福の言葉が送られた。
私は呆然と五竜さんを見つめる。
「私たちの……勝ち?」
まだ大会の途中だというのに、こんなにあっけなく勝負が決まるなんて思いもよらなかった。
釈然としない気持ちにとらわれ、私はみんなと顔を見合わせる。
ほたかさんも千景さんも素直に喜べない様子で、困り顔になっていた。
「わたくしの敗因は山と道具への愛のなさ。……あと運の悪さですね」
「そんなの、アタシにとっては勝ち逃げだ。……アタシらのがんばりとか無関係に、勝手に負けるなよ……」
「そうは言われてもね。……普通に歩けるなら、勝っていますよ」
悔しそうな美嶺と、無表情の五竜さん。
やり場のない
「えっと、えっと……二人とも、落ち着こっ。……ま、まず笑おうよぉ」
笑う……。
ほたかさんらしい言葉に、私はハッとした。
インドア派の私が……なんだかんだ言って山登りが楽しく思えてきたのは、そこに笑いがあったからだ。
ほたかさんの「お山を楽しもう」という言葉が好きだった。
陽彩さんだって、ビデオメッセージで「無理に勝とうとしなくていい」と言ってくれた。
安全を一番大切にして、大好きなみんなと一緒に、笑って登山を楽しむ……。
それが自分にとって大事なことなんだって気づいた。
そして同時に疑問に思う。
私にとっての「大好きなみんな」って、自分のチームの仲間だけなのか?
違う。
リタイアを告げられたつくしさんや両神さんたちの暗い表情に、心が痛い。
威圧感の消えた五竜さんの表情に、心が寂しい。
怪我をしたおばあさんの、この場の空気に心を痛めているような表情を……見たくない。
私が楽しいと思えるためには、全員の笑顔が必要だと思えた。
私にとって、敵や味方なんて区別は最初からなかった。
山にいるみんなが大切な仲間だったんだ。
「ほたかさんは、みんなで楽しく登るのがお好きですよね?」
「そ、そうだけど……。ましろちゃん、どうしたの?」
「私も、同じ気持ちです」
そう言って、一歩前へ踏み出す。
もしかすると、これから私が口にする言葉は自分たちを負けに追いやってしまうかもしれない。
わざわざ強敵を
でも、それがみんなの笑顔につながると、確信があった。
ビデオメッセージに入っていた赤石さんの言葉を思い出す。
『他人なんて気にせず、やりたいことをもっと主張していいんですよ!』
その言葉に勇気をもらい、みんなの前に立った。
「わがままを言いますけど……、五竜さんの靴を直して、おばあさんも無事に下山したうえで、みんなで笑って大会に復帰したいです。……そのうえで、負けると美嶺が悔しがるので、うちが勝って終わりたいです!」
「アタシが悔しがるって……まあ、そうだけどさ。わざわざ言うなよぉ……」
美嶺は恥ずかしそうに頬を染める。
五竜さんの顔には不敵な笑みがかすかに戻った。
「何を言うかと思えば、本当にわがままですね。……敵に助けられるなんて、そんな無様な真似はできませんね。……それに、わたくしたちが復帰したら、間違いなくあなた方は負けますよ」
「いいから、つべこべ言わないの! 私がやりたいんだから、勝手に靴を直しちゃうよっ! ……それに、おばあさんの怪我は私たちだけで判断できる問題じゃないもん。五竜さんが勝手に残ろうとするのはおかしいよ。フツーに先生の指示を仰げばいいと思う」
私はフンと鼻息を吹き上げ、五竜さんを見据える。
五竜さんが怖いとか、敵だからとかなんて、どうでもいい。
たぶんこれが、みんなが笑える最高の選択肢に違いないのだ。
「いやいや、ましろ。靴の直し方なんて知ってるのか? アタシにはさっぱりなんだけど……」
「うん。わかんない!」
「おいおい……」
今はアイデアがないけど、色々試せばなんとかなると思う。
ザックにはいろんな道具が入ってるし、何かヒントぐらいは見つかるはずだ。
そんな感じでカラ元気に笑っていると、千景さんがおずおずと私を見上げてきた。
「ましろさん。ボ、ボク……」
小さな声でたどたどしくつぶやく千景さん。
その瞳には、何か確信めいたものが見えた。
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