第六章 第三話「山道我慢紀行」
登山大会の開会式はつつがなく終わり、選手は一列になって歩き始めていた。
男子隊は前方、女子隊は後方にまとまっている。
女子隊と言っても二チームしかないので、私たち八重垣高校は松江国引高校の後に続き、列の最後尾を歩いていた。
前を見ると、選手の間に先生が何人か混ざっている。
あの先生たちも審査員だろうか。
あまちゃん先生は先に山に入ったらしく、どこにも姿が見えない。
ほとんど傾斜のない整った遊歩道を、まるでお散歩のような気分で歩いている。
あたりはブナの木が生い茂り、まさに林の中といった感じだ。
なんで『ブナ』だと分かったかというと、私が樹に詳しいわけではなく、樹に『ブナ』と書かれたプレートがくくりつけてあったからだ。
腕時計を見ると、時刻はすでに午前十時を過ぎている。
朝の空気は涼しくて、気持ちがいい。
気分よくあたりを見回していると、道の脇の木陰にあまちゃん先生が隠れていた。
「あ。あまちゃん先生だ! やっほー」
小さく手を振ると、先生は口に指をあてて「しー」っと言っている。
バインダーらしきものに何かを書いているので、審査しているところのようだ。
緑色の長袖シャツを着てるけど、迷彩模様の雨カッパではないので、見つけやすい。
「あ、お花だ~。こういう時にカメラがあれば撮れるのに、残念ですね~」
道の脇には白い花が点在している。
蝶も舞っているので、せっかくだから写真を撮りたくなってきた。
大会はイヤだイヤだと毛嫌いしてたけど、登山大会はとても気楽でいいかもしれない。
「記録をつけるのも、審査。……カメラやスマホは、使えない」
「そうなんですよね~。普通の合宿の時には撮りまくっちゃおうかな!」
私が写真を撮る真似をしていると、前を歩く千景さんは微笑んでくれた。
「ましろさん、楽しそう」
「えへへっ。なんか、ハイキングみたいですもんね」
「よかった」
「登山道っていうから緊張してましたけど、これなら、どれだけでも歩けますよ~」
私が笑っていると、すぐ後ろから
「ましろ~。あんまりハイキング気分のままだと、泣いても知らないぞ~」
「えっへっへ~。そんなに簡単に泣かないよぉ~」
私はそう言って、笑顔で歩き続ける。
まさか自分にあんな災難が降りかかってくるなんて、この時は思いもよらなかった――。
△ ▲ △ ▲ △
女三瓶とは、
今日はこの『女三瓶』に登り、お昼ごはんを食べる。そして開会式のあった『三瓶セントラルロッジ』まで、来た道をひき返す予定だ。
厳密に言うと、下山の時はさっきの分岐点の立札を『姫逃ルート』のほうに進むらしいけど、今の私にはそんな細かいこと、どうでもよかった。
本当にどうでもいい。
私は周りを気にしてる場合じゃないんだ。
(あぅぅ……。だ、大ピンチだぁぁ……)
さっきからおしっこが漏れそう。
そういえば出発前に緊張していて、トイレに行くのを忘れていた……。
「ましろさん、大丈夫? ……さっきから、静か」
「ははぁ……。余裕ぶってたから、疲れても言えないんだな」
「うん。登りが……きつくなってきた」
千景さんと美嶺が私の前後でしゃべってるけど、会話する余裕がないっ!
やばい。
確かにもうハイキング気分じゃない。
しかも傾斜がきつくなってきて、遊歩道だなんて言っていられない。
まるでお散歩だなんて、誰が言ったんだよぉ。
もぉ~。
ザックの重さがだんだん辛くなってくるし、こんな時に限って審査員が隠れて見張ってる。
おしっこを我慢しすぎて、変な歩き方になってないかな?
そういえば、トイレがない場所でこうなった時、どうするんだろう。
まさか、草むらで?
まさか、まさか!
でも、確かにどうするの?
……っていうか、私が今、どうするの?
みんなと一緒に歩いてるのに「ちょっとお花摘みに行ってきます」なんて言うつもり?
前と何メートルか開くだけで減点なのに?
……いや、そういう問題でもないか。
仮に休憩の時だとしても、こんな青空の下で、山の中で、壁もないのに?
無理!
絶対に無理だよぉ~!
で……でも。でもでも、でも~~。
いざとなったら、覚悟を……決めるべき?
思考がぐるぐる回る。
千景さんの前を歩いてる五竜さんは、さすがに落ち着いた足運びだ。
私のように内股歩きになってない。
そう言えば、国引高校の先頭は双子の子だ。
つくしさんは二番目。三番目が双子のもう一人で、一番後ろを五竜さんが歩いてる。
確か先頭はサブリーダーで、最後尾がリーダーだったはず。
つくしさんは三年生のはずだけど、そのどちらでもないんだろうか?
なんだか気になって、私はつくしさんに注目した。
すると、彼女の歩き方に違和感を覚える。
(あ……! つくしさんの歩き方……今の私とそっくり!)
すっごく内股で歩いてる。
歩幅もすごく狭いし、余裕がない感じに見える。
(もしや……私と同じ?)
私は謎の連帯感を感じ、不思議と落ち着いてきた。
(あれ? これ……何だろう?)
気持ちが落ち着いたと同時に、周りの景色が見えてくる。
急傾斜の登山道の脇に、白い三角柱の袋のようなものがぶら下がっていた。
見たところ、二十センチ四方ぐらいの大きさに見える。
(……なにかの目印? Aって書いてあるけど……)
これが何を示しているのか分からない。
オリエンテーリングの目印のポストのようにも見える。
道の何かを示しているのかと思って周りを見たけど、道はまっすぐなままだし、登りが終わったぐらいしか特徴のない場所だった。
ぼんやりしていると、再び下半身にアレの波が襲ってきた。
「あうぅ……っ」
つい、うめき声が漏れてしまった。
ヤバい。
つくしさんを見て安心してたのに、もう効果が切れた。
地形を観察してる場合じゃない。
目がまわって、暴走してしまいそう。
草むらに、駆け込もうかな。
さようなら、私の高校生活……。
あれ?
……なんか、目の前に白い四角い建物が見える。
公衆トイレにしか見えないんだけど、こんな山の中にあるはずがない。
幻覚が見えているなんて末期症状だ。
もう、私は終わるんだ……
「ふええぇぇぇ……」
本当に泣けてきた。
すると、千景さんが驚いたように私を振り返る。
「ましろさん? 何?」
「あぅぅ……。千景さん。ごめんなさい。私、もう無理です……」
「ましろ、ひょっとしてトイレを我慢してるのか?」
美嶺も心配そうに声をかけてくれる。
でも、もうどうしようもない。
「千景さん、美嶺……。もし笑われても、友達のままでいてね……」
私があきらめきって微笑むと、千景さんは前のほうを必死に指さした。
千景さんの指の向こうには、さっきから見えている白い建物がある。
「だ……大丈夫! ……あれ、トイレ」
「あぅ? ……あれって、現実の……トイレ?」
私が聞くと、千景さんは何度も何度もうなづいている。
ああ……トイレの神様、ありがとうございます……。
こんな山の中にトイレを用意してくれるなんて。
私は心の底から救われた気持ちになるのだった……。
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