第37話 森の怒り
わかっていた事ではあるが、復活したフェンリルは本物の化物だとローザリンデは再認識する。
ホムラの放った一撃は、間違いなく人類が出せる最高クラスの攻撃だった。
それを正面から受け、さらに風の祝福を受けて信じられないほど強くなった自分の不意打ちも受けたはずなのに、その重圧は衰えるどころか増していく一方なのだ。
まともに戦えば自分など数合持つかどうか、それほどまでに力の差があった。
とはいえ、流石にノーダメージとはいかなかったのだろう。ホムラの攻撃は間違いなくその動きを鈍らせているし、ローザリンデの攻撃は僅かとはいえフェンリルに傷を付けている。
絶対に勝てないと思っていた相手に対して戦えている事。それがローザリンデの戦意をより一層高めていた。
「さあフェンリルよ! 私が死ぬまで我慢比べといこうじゃないか!」
かつて故郷を凍らせた恐ろしい魔獣は今、一人の男の炎によってその力の一部を失っている。
ただ一振りで巨大な大木を纏めて薙ぎ払う鋭い爪。かつて神すら噛み砕いたと言われる恐ろしい牙。何よりあらゆる攻撃を弾く強靭な肉体。その巨躯からは想像も出来ないほどの俊敏性。
ただシンプルに強い。それゆえに、倒すための手段が限られてくる相手だが、それでも万全でないのであれば勝機もあった。
ヒット&アウェイを繰り返し、フェンリルの爪を躱せるギリギリの距離から一撃を加え続ける。
これで氷の
「はっ! ホムラが放った炎はよほど効いているらしいな! 動きが鈍っているぞフェンリル!」
ローザリンデはこの戦いの中、フェンリルが自身の想定以上に消耗していることに気が付く。
過去の戦いで見たフェンリルの重圧はこんなものではなかったし、動きを捉える事など出来るとは思えなかったほどだ。
だが今、ローザリンデは正面から戦えている。フェンリルの爪を捌き、フェンリルに傷を付け、フェンリルに対して優位に立てている。
思わず口角がつり上がり、興奮で身体がいつも以上のキレを見せていることにボルテージが最高潮へと上がっていた。
「これなら……いける!」
ローザリンデは身体に喝を入れ、その死中へ足を踏み入れると、フェンリルの爪を避けてその喉元へ風を纏わせた紅い槍を突きだした。
瞬間、爆発的な音と共にフェンリルの上体が浮かび上がり、その足が地面から離れる。
「まだまだぁ!」
いくら巨大な体とはいえ、生物である以上その身に大地を踏みしめなければ満足な力を込められない。
そんなフェンリルが地面に落ちるよりも早く、一撃、二撃、三撃、次々と目にも止まらない超高速の刺突を繰り返してフェンリルを穿ち続ける。
「我が一族の無念を! 我らが故郷の嘆きを! そして、我らの全てを奪った貴様への怒りをォォォォォ!」
ローザリンデは深くその場に腰を落とすと、両手に力を込めて構えて落ちてくる獲物を迎え撃つ。その紅い槍には美しい深緑の風が竜巻のように纏わりつき、その回転と共に魔力の高鳴りを響かせていた。
それは森に住むあらゆる生命の息吹。この森で生きとし生ける全ての生物の思いを乗せた一撃。
「ハァァァァ! 『
翡翠色の竜巻がフェンリルを飲み込むように天へ向かって激しく伸びる。
巨大な悲鳴は竜巻の轟音にかき消され、その美しい白銀の体すら怒りの風は外に出る事を許さないように激しく世界を震撼させる。
そして――
「どうだ――っぅ!」
ローザリンデが急激な魔力の消費に地面に膝を付く。それと同時に巨大な肉体が遥か空から落下して、大地を揺らした。
美しかった毛並みは崩れ、体中に無数の傷。その姿はかつて神すら喰らったと言われる化物とは思えない、見るも無残な姿。だがしかし――
「……ばかな」
フェンリルの瞳は闘争心に溢れ、なによりその身に宿る魔力が衰えていないことに気付く。
それはつまり、ローザリンデの一撃はダメージを与えた事は間違いないが、根本的なものには至らなかったという事だ。
そのことに戦慄すると同時に、不味いと思う。ローザリンデは慌てて槍を構え直そうとして――
――ウオォォォォォォォォン。
フェンリルが吼える。ただそれだけで発生する衝撃波がローザリンデを吹き飛ばそうと襲い掛かる。
「ぐっ! うぅぅぅぅぅ!」
身動きを取れない。そのことに焦りを感じた時にはすでに遅かった。
フェンリルが大地を踏みしめ、一瞬で間合いを詰めるとその巨大な腕でローザリンデをなぎ払う。
「っ――アァァ!」
ギリギリのところで槍のガードが間に合うが、それでもその勢いは殺せず森の木に衝突してしまう。
ローザリンデの視界が一瞬落ちる。しかし今はすでに戦闘中だと脳を無理矢理覚醒させ、顔を上げるも、体がいう事を聞いてくれない。
「し――」
シズル、と言葉を紡ごうとした時にはすでに、フェンリルはシズルの方へと走り出していた。
あの化物はわかっていたのだ。本当に危険なのは誰なのか。自分にとっての脅威はどこにあるのかを!
ローザリンデは自分の短慮を後悔する。フェンリルを倒せると思い、焦りから大技を繰り出してしまった。
そのせいで本来なら耐えるべき場面で大きな隙を見せ、フェンリルの突破を許してしまった。
――不味い、不味い不味い不味い!
見ればシズルの魔力はまだ完全に溜め終わっていない。今の状態ではフェンリルを殺すには至らないだろう。
実際にシズルの表情には焦りがあり、同時に覚悟を決めた瞳をしていた。
少し離れた所ではホムラが駆け出し足止めをしようとするが、フェンリルはそれを一蹴する。すでに魔力を使い果した彼では、足止めすら出来ていなかった。
そしてついに、フェンリルがシズルの下へとたどり着く。シズルの雷がフェンリルを穿とうとするも、まるでこれまでは手を抜いていたのだと言わんばかりにフェンリルの速度はこれまでを圧倒していた。
そして――
「あ……」
フェンリルの爪が、シズルの胸を貫いた。
ローザリンデの希望は、ここに潰えたのだ。
だが――
『まったく……この月夜の下で、随分と派手なことをしているじゃない。いったい誰の許しを得てこの美しい闇を荒らしているのかしら』
そんな聞き覚えのない少女の声が、森中を包み込むように響き渡る。その声は愛らしいはずなのに、ローザリンデは心の底から恐怖していた。
『駄犬にはお仕置きが必要ね」
瞬間――恐ろしく鈍い音が響いたと思ったら、フェンリルが弾けるように遥か後方まで吹き飛ばされる。
そうしてローザリンデは広がった視界の先、美しい闇色の少女がまるで女王のように宙に浮き、全てを見下すように立っていた。
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