第30話  早朝の多摩川 感動の事件

 彼女の腕が左腕にしっかり絡んでいます。

「ねー貴方・・・このまま上流に向って少し歩こうよ・・・

こんなにいいお天気なんだもん、まっすぐ下宿に帰るのもったいなわよ・・・」

「いいよ!・・・じゃあ・・・このサイクリングロードを上流に向けて・・・」


 腕時計の針がAM7;20過ぎ

を指しています。途中、色んな人たちとすれ違います。


 1番多いのが、犬の散歩・・・2番目が初老のご夫婦でした。

50メートル先に初老のご夫婦がこちらに向って歩いてきます。


 丸子橋を渡れば、大田区田園調布・・・都内屈指の高級住宅街です。


 たぶん、瀟洒な作りの高級住宅に住む裕福なご夫婦と

思われます。するとその初老のカップルがサイクリングロードの真中で

うずくまって何かしています。そばに近寄り、「どうされましたか?具合

でも悪いのですか?」と尋ねると「あの・・・めがねのレンズがフレーム

から外れて落ちてしまったので、探しているのです。」


 旦那さんが70歳後半・・奥さんは70そこそこの感じです。

2人ともめがねをかけていましたが、奥さんの右側のレンズがありません。

フレームを見るとネジがありません。


 抑えのネジがないので、ネジが飛んだ拍子に丸いレンズが

転がった様子です。あたりには、レンズがありません。


 舗装のサイクリングロードなので、丸いレンズが斜面を転がり落ちた

可能性もあると思い「由紀子!たぶん斜面を転がった思うから、この辺

を中心に探そうと指差して指示しました。」


 旦那さんが斜面を降りようとするので、

「足元が悪いから、危ないです。僕達が探しますから・・・

下には降りないで下さい。」


 すると奥さんが「すみません・・・お手数かけます」と何度も頭を下げています。斜面の芝生は枯れているのですが、綺麗に草刈されていなので、所々深い部分もあります。


 ゴルフ場の深いラフみたいな感じのところもあります。草丈の長い

ところは、手で掻き分けてレンズを探します。なかなか、見つかりません。

旦那さんも奥さんも息をつめてこの光景を見守っています。


10分以上探しましたが、見つからないので、諦めようとした時

少し下側で探していた由紀子が「ねー貴方!あったよ・・・あった!」と

レンズを指に挟んでこちらを向いて叫んでいます。


 良かった・・・下まで降りて彼女の手を引いて、ご夫婦が待つサイクリング

ロードに上がりました。

 「はい・・・これですね・・・間違いないですね!」と旦那

さんにレンズを手渡しました。

 旦那さんは「ありがとうございます。助かり

ました。婆さんのほうが、目が悪いので、めがねがないと何もできなく

なるところでした。年金暮らしの老人には、不意の出費が心配

でした。ほんとにありがとうございます。」と由紀子の手を握り締めて

顔をくしゃくしゃにしています。


 隣にいた奥さんもただ、「ありがとうございます

・・・ありがとうございます!」と何度も、何度も頭を下げるばかりでした。


 旦那さんが別れ際に「気持のいい若夫婦に出会えてほんとに助かり

ました。これにお名前とご住所を書いてください、のち程お礼

にお伺いさせていただくので」とメモ用紙とボールペンを渡されました。


 「お爺さん、お婆さん・・・僕達は当たり前の事をしただけです。お礼

なんてとんでもありません・・・それよりレンズが見つかってほんとに

良かったですね・・・」と丁重にお断りして、その場を別れました。


 後ろを振り向くと、いつまでもこちらの姿を追って、頭を下げて

います。何とも心に残る朝のドラマでした。こうした事があるんだ・・・


 彼女の顔から笑顔がこぼれています。「ねー貴方!・・・貴方の

散歩のおかげで、私、ずいぶんいい気持させてもらい、とっても

嬉しいの・・・でもほんとにレンズが見つかって良かった・・・あれで

見つからなかったら、シャレにもならないわね・・・良かった・・・」


「由紀子が見つけてくれたから・・・助かったよ・・・見つからなければ

お互いに気持が暗くなっちゃうもんね・・・」


「ねー貴方・・・あのお爺さんさんが、別れ際に気持のいい若夫婦

で・・・と言ったでしょ・・・私ね・・・あの言葉が1番嬉しかったんだ!

他所の人から見れば、私達は若夫婦に見えるんだ・・・・」


 たぶんその話しはするだろうと思っていました。やっぱりね・・・

「ねー貴方・・・おなか空いたよ・・・駅前のパン屋さんでパン

買って帰ろう・・・」「由紀子・・・俺、財布もってないよ・・・」

「大丈夫・・・私、持っているから心配しないで・・・」

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