3-2 すぐに来ることになるとは思いませんでした
ビラを見た私は、仮眠を取るのも忘れてマティアスの執務室へ突貫していた。
まだ夜が明けたばかりで普通なら軍にいるはずもないのだが、そこは自分の執務室が生活場所となっている王子様准将殿である。予想通りソファをベッドにして、のんきにすやすや寝息を立ててやがった。
そこを叩き起こし、文句を言われる前にビラを叩きつけてやる。すると、
「ああ、実は私のところにも昨日になって初めて情報が上がってきてな」
目を擦りながらマティアスはそんなことをぬかしてくれた。
「どういうことだ? おそらくこのビラは奥方が作ったものだろう。ということはすでに行方不明になって数日は経っているはずだ。だというのになぜ昨日聞いたなどというのんきな状況になっている?」
「研究所長曰く、研究に行き詰まった研究員がしばらく行方をくらますのは珍しいことじゃないんだと。それどころか、お前がマンシュタイン主席に難題を突きつけたせいで他の仕事が進まなくて困っていると抗議が届いたよ」
「……研究所の人間は馬鹿なのか?」
行方をくらますのは珍しいことじゃない、だ? あのマンシュタイン殿がご家族を放って消えるなど考えられようはずもないだろうが。そうでなくっても機密情報を持った人間が消えただけでも大問題だぞ。
「私もその言い草にカチンと来てな。あまりにも危機意識が薄いから調べてみたんだが、所長は実力というより政治と運で出世した人間らしい。だからどうやら彼は研究員としても管理者としても能力が十分ではないようだ」
だろうな。行方不明者を報告もせずのんびりしてたのもそうだが、よりによってマティアスに苦情を言うとはな。表向きは王子としても軍人としても実権のないお飾りだが、実際のところは出世したければ絶対逆らってはならない人間だ。だというのに、まあ……そんなお花畑の頭でよくそこまで成り上がれたな。
「というわけで、所長には退任してもらうことにしたよ。ついでに、彼を所長に据えた准将殿にも隠居して頂くことになった。いや、まったく。長年国防に身を削って頂いた老将をこのような形で失うのは悲しいことだ」
わざとらしくマティアスが涙を拭うフリをするが、実際は使いものにならない准将だったんだろうな。意見や思想に違いはあっても実力がある者をマティアスは排除しない。逆に国にとって毒にしかならんような人種は軍と王子両方の権力を駆使して容赦なく叩き出すが。
「それはスッキリする良い話だな。で、どうする? 装備開発はお前の管轄だろう? お前の命令下ということで私は動いていいのか?」
「頼む。先日のアスペルマイヤーの話もある。もし誘拐されて他国に情報が漏れていたら一大事だからな。マンシュタイン主席ならそうやすやすと口を割らないとは思うが……家族をダシに使われたら拒否できないだろう」
了解だ。であればそれを前提にこちらも準備を進めておこう。
そう返答して他の細々とした確認を済ませていき、最終的にマティアスから正式な命令書、それと捜査権限を午前中に準備してもらう旨の言質をもらうとすぐに詰所に戻った。
詰所ではすでにニーナを始めとして隊員たちが私の帰還を待ちわびていた。
「どうでしたか?」
「やはり事実のようだ。もう三日ほど出勤もしてなければ連絡もないらしい」
みな半信半疑だったようだが、私の報告を聞いて同様に沈痛な面持ちになった。実に同感だよ、クソ。特にニーナは先日激論を交わしたからか、顔色が一段と悪い。
それにしても……三日は長いな。他国の連中が情報欲しさに誘拐したのだとしたら国外に脱出するには十分過ぎる時間だ。だが怨恨や金目当ての犯行なら、まだこの首都内のどこかにいるはずだ。
「……マジで仕事が嫌になって家出した、なんて理由であってほしいところだぜ」
カミルが唇を噛み締めながらそう漏らした。その時はみんなでせいぜいマンシュタイン殿をどつき回す程度で許してやろうじゃないか。
「見つかった暁にはマンシュタイン殿と奥方にぜひ手料理をご馳走してもらうとしよう。マリエンヌ殿の料理は絶品だからな。ついでに彼の秘蔵の酒を全部空にしてやる。そのために、我々で絶対に見つけ出すぞ。いいなっ!」
「はっ!」
頼むから無事でいろよ、マンシュタイン殿。
それがずいぶんと希望的な願いであると分かっていても、今はそう願うしか無かった。
そうして正式な命令を待つ間、我々は為すべきことを片付けていった。
捜査する場所の洗い出しに人員の割り振り、それと本来の警備隊業務のローテーション再編などなどをやっているとあっという間に昼前になっていた。
そうした下準備が終わる頃、マティアスの秘書であるレベッカから正式な書類が届き、私たちは本格的に動き出した。本来なら相当に時間が掛かるものなんだが……よほどマティアスも危機感を持っているらしい。先日のアスペルマイヤーの件が上層部の尾を引いてるだろうし、それをダシに焚き付けたのかもな。
ともかくも準備が整ったのなら後は動くのみだ。何が起こるか分からないためツー・マン・セルでの行動を基本として各々行動を開始した。
「まさかこんなすぐに来ることになるとは思いませんでした……」
私とペアを組むことにしたニーナが、先日訪れたばかりのマンシュタイン殿の自宅を見上げながらつぶやいた。
「私もだ。しばらくは誘われても断ろうと思ってたんだがな」
「どうせならまた、あの暖かい場所に戻りたかったな……」
どうやらニーナは、あの家庭の雰囲気が何より良かったらしい。そういえばコイツも戦災孤児だったな。家族というものに特別な思い入れがあるのかもしれん。
「マリエンヌ殿たちの前ではそんな顔を絶対に見せるな。いいな?」
「は、はい」
暗い顔をしたニーナのケツを叩き、私はマンシュタイン家のドアをノックした。
ノッカーが響く。だが無音。もう一度叩く。それでもやはり反応は無い。
「出かけてるんでしょうか……?」
かもな。またマンシュタイン殿を探してどこかでビラを配ってるのかもしれん。
辺りを見回すとちょうど隣の家から初老の女性が出てきた。ちょっと捕まえて話を聞いてみるか。
「マンシュタインさんの奥さん? さあ、どこだろうねぇ……? ちょっと前までは昼間でもちょこちょこと庭越しに挨拶してたけど、そういえばここ数日見かけないわね」
「……夜に出直しますか?」
そうだな。それまでこの近辺の聞き込みでもして奥方の帰りを待つか。
ニーナとそう話をしていると、話を聞いた女性が首を横に振った。
「それも無駄足かもしんないよ? ひょっとするとお子さんと一緒にご実家に帰ってるかもしれないからねぇ」
「どういうことです?」
「夜にマンシュタインさんの家をウチの中から覗いてみたんだけどね、昨日一昨日って明かりが点いてる様子がなかったからさ。ま、ひょっとしたらアタシが寝た後に帰ってきてるってこともあるかもしれないけど」
マンシュタイン殿のことを諦めた? いや、先日の仲睦まじさを考えるとそれはないだろうな。となると娘のエリーを預けにご実家に戻っただけかもしれん。
何にせよ、今はここにいても無駄だろう。女性に礼を述べて念の為にとマンシュタイン家に戻り、窓からちょっと中の様子を窺ってみた。
「どうですか? やっぱりご不在ですか?」
「ちょっと待て。カーテンが邪魔でよく見えん」
あとちょっとで見えそうなんだがな、クソ。
カーテンの隙間から見ようと窓に顔を押し付けると、ふと窓枠の部分についた汚れに気づいた。
乾いた赤い絵の具のような痕。しかし絵の具の赤にしてはどす黒く、そしてそれが何の色かは私がよく知っている。匂いを嗅いでみれば、微か、本当に微かだが窓の隙間からいかにも不味そうな、善良な魂の匂いがした。
「アーシェさん?」
「武器を準備しろ、ニーナ――踏み込むぞ」
私のその一言で異常を察したらしいニーナがすぐに魔装具を構える。緊張した様子を感じ取りながらドアノブを回すと、呆気なく扉が開いた。
「開いてる……」
息を呑みながらゆっくり中へ。玄関を抜け、奥のダイニングへと入っていく。
そして。
「っ……、ひどい……!」
数日前、私たちが食事をしたその部屋はひどい有様だった。
椅子はなぎ倒され、火の消えた燭台が転がって床板を焦がしていた。砕けたグラスの破片があちこちに散らばり、食器棚のガラスが割れて中の皿が何枚も割れて転がっている。
そして白いテーブルクロスには――血の線が一筋描かれていた。
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