第一話 『凪原ハルトの受難』 その8
くるみ先生について、オレと七瀬川はプレハブ校舎を離脱する。小さな校舎だから、すぐに逃げ出せるのはありがたいことか。くるみ先生の愛車なのだろうか?……三人で校舎の近くに止めてある軽自動車に乗り込む。
「行くわよ!!」
くるみ先生はそう言った。もちろん、改造人間が暴れている現場に向かうわけじゃない。全力でそこから退避するための心意気を言葉にしたものであった。
全力の逃亡……じつに一般人らしい選択だ。自衛隊でも瞬殺されるような戒造人間に立ち向かう……?それは、オレたちみたいなフツーの人間のすることじゃない―――フツーは、そうなんだよ。親父。
左腕を押さえる。
白川に奪われて、機械仕掛けの新しいモノに成り代わったそれと戦った?
まったく……どうかしている。うちの親父は、褒めたんだぞ?……古武術研究家だから?……バカすぎるだろ。息子が腕を失った方を心配しろ。同級生だった白川に斬りつけたことを心配しろっていうんだ。
「……ハル?腕が、痛いのか?」
「……怖いんだよ。色々と、思い出して……怖くて、ムカつくこともあるっ」
「怖いのに、怒っているのか……?」
「正義感由来のカッコいいものじゃない。これは、もっと濁ってて、イヤな気持ちだ」
「そ、そうか……すまん。私は、お前の苦しみを分かっていないようだ」
ヒトの痛みなんて、分からないものだ。分からないでくれて良かった。七瀬川には、こんなサイテーな苦しみ、知って欲しくなんてないな。いい子だもん。
「だ、大丈夫だからね!!先生、全力で改造人間の出現ポイントから、遠ざかってますからねー……って!!つ、捕まって!!」
「え!?」
「……ッ!!」
キキキキキキキキイイッッッ!!!
くるみ先生が急ブレーキをかけた。車道に渋滞が起きていたからだ。どこかの誰かがパニックになって慌てて逃げ出して、交通事故を起こした―――サイテーだ。
「……は、ハルっ」
「大丈夫だったか、七瀬川?」
左腕、ちゃんと動いていた。ブレーキがかかった瞬間、七瀬川のことを支えるために腕を伸ばせていた。
「う、うん。ありがとう」
「いいんだ。これぐらいのことしか、出来ないし」
「そ、そんなことは……ない。謙遜するな。ヒトを守ろうという意志を、形に出来ることは素晴らしいことだ」
……エアバックの方が、もっと有能な仕事をする。そんな自虐を口にすることもなく、オレは車外を見た。
混雑する車の群れ……事故はヒドイものなのだろうか。
「あううう。こ、困ったなあ……っ。どーしようっ。くるみ先生、ピンチだああっ」
「むう。先生、事故が大きなものなら動き出すまで時間がかかりすぎます。いっそのこと、車を放棄して退避するというのも選択肢です」
「さ、さすが七瀬川さん!!冴えてるわね!!……で、でも。先生の車、新車だから。放棄するのには、それなりに勇気いるんだけど!?」
「出よう。七瀬川」
「うむ!!」
「ヒドイっ!!先生、置いて逃げるなんて、生徒としてどうなのかしらあ!?」
フツーは逆な気もするが。たぶん、くるみ先生は、『オレたちの保健室の先生』をしたくてしているワケじゃない。職業倫理なんて持てないんだと思う。責める気にはなれない。強いられる苦しみと、それから逃げたくなる気持ちは誰よりも分かりますよ、くるみ先生。
オレと七瀬川は車から降りる。
くるみ先生も新車より自分の命が大切だと感じたのか、車道の脇に新車を停めた。
「ううう。盗まれたり、破壊されたりしませんよーにっ」
切実な祈りを愛車に捧げながら、くるみ先生が追いついてきた。
渋滞している車道に視線を向けつつ、オレたちは避難を続ける。
「……ヒドイんだな」
「東京は、改造人間が大規模の破壊攻撃をしてくる土地だ。皆、パニックに陥りやすい。政府や大企業は疎開を進めていないからな……」
「どうして?」
「……利益のためだろう。政治家たちはメンツを気にしてる。改造人間に負けたって示したくない。それに、東京の経済がこれ以上、疲弊すると……日本の経済が崩壊するからだ」
「命の方が、大事じゃないのかよ……っ」
「……耳が痛いな」
「……七瀬川は悪くないだろ」
「え?」
「自分の父親が何だろうと、関係ない。七瀬川シャーロットは、七瀬川シャーロットだ」
オレ自身に言い聞かせるような言葉でもあった。そうだ。親父なんて関係ない。七瀬川の父親が国防大臣で偉い政治家だろうと。オレの親父が頭のおかしい古武術研究家だろうと。関係ないはずなのに。
それでも。
何でか、そういうのって絡みつこうとしてくる。粘っこくて、すごくイヤだよな。
……否定しているのに。あんなに嫌いなのに。それでも、どうしてかオレは……今でも荷物に刀を入れたまま、持ち運んでいるんだよ。戦いたくなんてないのに。白川を斬ったときに……斬り殺したときに―――そんなこと、もう二度としたくないって考えたはずなのに。
……親父を否定しても。
それでも、自分の本質にまで染みついているのかな。刀なんか振り回す、時代錯誤の発想が。こんなことで、改造人間なんて倒せるはずがないのに……殺したくもないはずなのに。
感触を覚えているはずなのに。
ああ、パニックになりたい。
叫んで、このままどっかに走り去りたい。
走り去りたいのに……七瀬川は見つけていた。何の義務感なのか、それとも彼女の本質が持っているやさしさゆえの行動なのか。オレには区別がつかないけれどさ。
彼女はいきなり走り出していた。
どの大人たちも見捨てて逃げているのに。
聞こえないフリして、自分だけ助かろうと必死になっているのに。
日本人って本当の危機に直面すると、クソでサイテーなヤツばかりなのに。
あの子は、それでも……その耳で聞いていた。
「助けてえええええ!!助けてえええええええ!!ママがあああ、ママがああああああ!!」
事故に巻き込まれた何台かの車。その中で、いちばん酷く歪んでしまった車の中から、オレたちに全く縁のない小さな子供が、叫んでいた。誰もが無視して、逃げることを優先しているのに。
……サイテーなヤツばかりなのに。
ときどき、世の中にはいいヤツがいるんだよ。自分の安全よりも、誰かのことを考えて、衝動的に行動してしまえるヤツが。
七瀬川は走っていたんだ。悲鳴が聞こえた方に、ためらいもなく。他のヤツらは、みんな聞こえないフリしているってのにさ。
オレは……そういうヤツにはなれないんだよ。なれないけど。それでも。そういうヤツを見捨てるサイテーなヤツにも、なりたくなかった。
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