第29話 門出の候

 「末樹先輩!合格おめでとうございます!」

 久しぶりに登校した末樹に、玖馬が勢いよく駆け寄ってきた。

 満面の笑みで、その勢いのまま末樹に抱き着いた。

「クマ、ありがとう」

 末樹は玖馬の背中を軽く叩くと、照れ臭そうに笑った。

「先輩なら絶対大丈夫だって、思ってましたけどね」

 末樹から離れながら、玖馬は自分のことのように得意気に言った。

「でも何が起きるか分からないのが怖いところだし、無事に終わって良かったよ」

「そうっスね!そういうところも先輩らしいっス」

「…これで一段落ってところかな」

「へへ、これでもっと先輩と遊べますね!」

「何言ってるんだよ。次はクマが受験だろ」

 末樹は玖馬を軽く小突くと、それでも嬉しそうに笑った。

「あの、受験が落ち着いたらって思ってたんですけど…」

 玖馬はそわそわとした様子で斜め下に視線を向けた。

「ん?」

「俺、その、來樹さんに言ったんです」

「……」

 玖馬は少しだけ顔を赤らめながら頭を掻いた。

「好きですって…」

「…クマ」

 玖馬の蚊の鳴くような声に、末樹は神妙な声を返した。

「先輩、俺…!」

 観念したように勢いよく顔を上げた玖馬は、目に入ってきた末樹の表情に、思わず口をぽかんと開けた。

「おめでとう、クマ。良かったな」

 にやりと笑う末樹は、玖馬の頭を鷲掴みにして髪を乱した。

「え?末樹先輩…え?」

 玖馬は末樹の反応が飲み込み切れず、目を白黒させた。

「兄貴からそれとなく聞いたよ。俺が相談受けてたことも、話したんだってな」

「えっ!?來樹さんから!?」

 玖馬の声が廊下中に響いた。

「意外だったか?」

「はい…」

「はは、兄貴なりの気遣いだったんだろうけど」

「…そうですか…」

 玖馬の顔がだんだん晴れやかになってきた。

「なんだよ、ニヤニヤするなよ」

 末樹は眉間にしわを寄せた。

「すみませんです。…へへ、でも、なんか、嬉しくて」

 玖馬は緩んだ頬を戻そうと自らの顔を叩いたが、効果はあまりなさそうだった。

「でも良かったよ。ほんと」

 末樹はそんな玖馬を見て、しょうがないなと言った顔で笑った。

「先輩のおかげですよ」

「俺は何もしてないだろ」

「先輩に自覚がなくても、俺は先輩の存在があったからこそ、少しずつ強くなれたんです」

 玖馬はきりっとした表情で末樹を真っ直ぐ見た。

「先輩、本当にありがとうございます」

 しっかりとしたその玖馬の言葉に、末樹はハッとした。危なっかしくて人懐っこい子犬のような玖馬が、その瞬間だけ目の前から消えた。凛とした精悍なその姿は、末樹には少しだけ眩しく見えた。

 自分もそろそろ、踏み出す時だ。


 進学校も決まり、受験を本格的に終えた末樹は、卒業までの数少ない日々を、できる限り普通に過ごそうと決めていた。

 もうすぐ、生徒として守られてきた立場が終わる。末樹は大学に進学するが、中には働きに出るものも出てくるであろう。これまでよりも一層の責任感を持って、社会に一歩ずつ出て行く時だ。

 立派な人間になろうとは思っていない。それでも、ここから先は少なからず自分らしく、誠実に生きていきたいと思っていた。

この先には、一体どんな世界が待っているだろうか。自分の目で見て、しっかりと前に進んで行けるように、その時その時を大切にしていきたい。

 末樹はそう思いながら、今だけの時を楽しんでいた。

「糸村」

 帰りの支度をしている紺に、末樹はそっと近づいた。

「一緒に帰ろうよ」

 末樹の誘いに、紺は鞄を手にして頷いた。

「糸村も志望校受かったんだよな。おめでとう」

「ああ、ありがとう。…末樹もな」

 歩くことがもう残り数少ない帰り道を、二人はゆっくりと歩いた。

「高校生活も終わりか…」

 紺が名残惜しそうにつぶやいた。

「…そうだね。早かった」

「早かった、か。そうだな。入学した時は、そんなこと思わなかったのにな」

「ははは。永遠に学生でいられる気がした?」

「ま、そうとは言わないけど」

 紺は末樹を見てニヤリと笑った。

「でも、まぁ、何にせよ、楽しかったことが終わるのは、さみしいよな」

「楽しかったな。でも、まだ終わりじゃないだろ」

「?」

「まだこの先も、進学や就職があって…楽しいことは、そこにもあるだろ」

 末樹は、横を歩く紺の顔を見上げるようにして見た。

「…そうだな」

 紺は少しだけ暗い顔をした。末樹はその表情を見て、ぐっと鞄を持つ手に力を入れた。

「糸村、俺さ、糸村から言われたこと、考えたんだ」

「……」

「糸村ってさ、気が付いたら俺のそばに居てくれて、さり気なく俺のこと支えてくれてたんだよな。俺が、ちょっと抜けてる時も、糸村がフォローしてくれて、勉強ばっかりしてつまんない俺のこと、見捨てずにいつも近くで笑ってくれてた」

 末樹の言葉を、紺は黙って聞いていた。

「俺、ずっと糸村に頼りっきりで、情けないなって思うこともあるんだけど、本当に糸村のことは尊敬してる。だから糸村と話すことに少し怖気づいた自分が嫌だったし、糸村と話せなくなるのも凄く嫌だった」

 末樹の歩幅が、少しずつ小さくなっていった。

「糸村がいないと、こんなにもつまらないんだなって、思った」

「…………」

「糸村は俺にとって、大切な存在なんだって、思い知らされたよ」

 末樹のゆっくりとした足取りに、少し前を歩いていた紺は足を止めた。

「だから、俺は糸村を傷つけたくない」

 末樹も足を止め、紺を真っ直ぐに見つめ、すぐに視線を下ろした。

「俺は今、糸村と同じ気持ちにはなれない」

 絞り出したような声は、それでもしっかりとした熱を持って紺まで届いた。

「…そんなので、糸村の気持ちに応えるのは、俺はしたくない」

「…………」

 つかの間の沈黙だった。しかし末樹にとっては、とてつもなく長い時間のように感じた。顔を上げたら、紺は一体どんな表情をしているのだろうか。大切な人の顔を見るのが、とても怖く感じた。

「ありがとう末樹」

 優しい声が、俯く末樹の耳に届いた。

「お前は本当優しいんだな」

 恐る恐る顔を上げると、末樹のことを呆れたような笑顔で見る紺がいた。その表情には、末樹への愛情が見て取れた。末樹がいつも見ていた笑顔だ。

 末樹は、思わず全身の力が抜けそうになった。思えば、紺はいつだって末樹に愛おしさ溢れる視線を向けてくれていた。その眼差しに、何度救われたことか。それに、ようやく気づけただなんて、自分はどんなに鈍感なのだろう。

 紺は、末樹への思いを隠しきることなんてできていなかった。末樹が知らないだけだった。

「はぁー!…よし!」

 紺は気を取り直しように深呼吸をした。

「もうすぐ卒業だ。末樹は優秀だからな。お前の将来が楽しみだな」

 紺はにっこりと笑った。少しやんちゃなその笑顔は、夕陽の逆光でちらちらと見え隠れした。心なしか、すっきりとして爽やかにも見える。

「糸村こそ…」

 末樹は、夕陽に照らされて微笑んだ。

「…卒業か」

 そう呟きながら再びゆっくりと歩を歩み始めた末樹に、紺も続いた。

「ああ、卒業だ」

 いつもよりも遅い末樹の歩くペースに合わせて、紺は小さな歩幅で隣を歩いた。三年間歩いたこの道を一緒に歩くのは、これが最後だ。


 卒業式当日。末樹は式が終わると、同級生と別れを惜しんだ後、お気に入りだった校舎裏まで一人で向かった。卒業式という大イベントを終えた生徒たちは、そんなところには来るはずもなく、そこには末樹だけがいた。

 末樹は、心のオアシスであったこの場所との別れを惜しみ、既に懐かしさでいっぱいのベンチに目を向けた。一体、どれだけこの場所にお世話になったのだろう。

 末樹は目を細め、込み上げてくる切なさと感謝の想いと、同時にこの先への希望の狭間に、思わず微笑んだ。

「末樹先輩」

 するとそこに、聞き覚えのある柔らかい声が聞こえてきた。振り返ると、莉々が寂しそうな顔で立っていた。ちょうど風が吹いて、髪の毛で莉々の顔が少し隠れた。

「莉々ちゃん…」

 末樹は、何と言っていいか分からず、卒業証書の筒を握りしめた。

「やっぱり会いに来ちゃいました」

 莉々が照れくさそうにはにかむので、末樹もつられてはにかんだ。

「先輩、色々と、ありがとうございました」

 莉々は深々とお辞儀をすると、どこかスッキリした表情で顔を上げた。

「こちらこそ…」

 末樹は莉々のその表情を見て安心したように笑った。

「私、また先輩たちに胸張って会えるように、頑張ろうって、思います」

「莉々ちゃんなら、必ず叶えられるよ。すぐに俺たちからは届かない存在になっちゃうだろうね」

 末樹の言葉に、莉々は嬉しそうな笑顔を見せた。そして末樹まであと数歩の距離を一気に縮めた。

「…末樹先輩」

 小さくそう呟くと、そのまま顔を近づけて、末樹の唇のすぐ横に軽いキスをした。

「卒業、おめでとうございます」

 そう言って、末樹の顔を名残惜しそうに見て微笑んだ。

「……ありがとう」

 末樹は呆然としながら莉々の顔を見ていた。その表情に、莉々はくすくすと笑った。つられて、末樹もすぐに照れたように笑った。

末樹の、平凡で怒涛の高校生活は、無事に幕を閉じた。


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