第20話 親愛なる友よ
放課後、末樹は紺に呼ばれ、あまり人の来ない、旧体育館の傍に来た。
もうじき取り壊される予定の旧体育館は、今は立ち入り禁止になっている。
末樹もあまり来ない場所だが、一部の生徒たちは部活動の自主練時にこの辺りに集まったりしているようだ。
末樹がその場に着くと、玖馬が辺りをきょろきょろしながら何かを探していた。
「クマ!」
玖馬の姿を見た末樹は嬉しくなって駆け寄った。末樹の声に、玖馬は目を丸くした。
「え?先輩?なんで?」
玖馬は困ったように眉を下げながら、また辺りを見回した。
「なんでって、ここに来るように呼ばれて」
「先輩も?…え?誰に?」
状況が飲み込めず焦る玖馬は、末樹の顔を見ると、目を白黒させた。
「悪いな、クマ」
そこに、末樹の背後から紺の声が聞こえてきた。末樹が振り返ると、紺が真っ直ぐこちらに歩いてきていた。
「ちょっと陸上部の友達に頼んで、クマをここに呼び出してもらったんだ」
「……えっ」
紺の言葉に、玖馬はぽかんと口を開けた。
「先輩、なんでそんなこと…」
「…末樹がお前と話したいって言うからさ」
紺は、含みを持たせた声のトーンでそう答えた。
「え…?末樹先輩が?」
「そうだよ」
玖馬が丸い目を末樹に向けると、紺はそれに静かに同意した。
「クマ!俺、話したいことあるのに、…俺のこと避けてるよな?」
末樹は放心状態の玖馬に思わず近寄った。
「え…でも、メールとかくれれば、読みますよ」
「メールじゃダメなんだよ!直接言いたいんだよ」
末樹としては、莉々と紺のことを文章として残るような形で話したくはなかった。だから玖馬と直接会話が出来ないことに、若干の苛立ちを感じていた。
「…そう、ですよね。…すみません。俺、ちょっと動揺して…」
玖馬は、末樹を避けていたことを反省したのか、暗い表情をして俯いた。
「あ、ごめん、そんな責めるつもりはなくて…、ただ、クマにはちゃんと伝えた方が良いかなって思ってて…」
「…?…え、もしかして末樹先輩…」
玖馬はハッとしたように顔を上げたが、末樹にその意図は届かなかったようだ。
「ん?」
「あ、いや、なんでもないです」
慌ててまた顔を下げた。
「本当にすみません。避けるつもりはなくて、でも、ただ、ちょっと、色々…落ち着かなくて…」
「とにかく、クマとちゃんと話せそうで良かった。心配したよ」
落ち着いて謝ろうとする玖馬に、末樹は、ほっとしたような和やかな笑顔を見せた。
「…………はい」
その笑顔が來樹と重なった玖馬は、ぼうっとして少し照れたように唇を噛んだ。
「…じゃ、あとはお二人で。……よかったな、末樹」
そんな玖馬を、紺の言葉が現実世界へ呼び戻した。紺は二人の和やかな雰囲気を見ると、微かに口角を上げて踵を返そうとしていた。
「ち、ちょっと、ちょっと待ってください…!」
玖馬は慌てて紺を呼び止めた。紺は玖馬の方を静かに振り返った。
「あああの!これは、そういうんじゃないですから!」
「?」
玖馬は必死な顔をして紺に何かを伝えようとしていた。末樹と紺は、玖馬が何を言おうとしているのか分からず、ただ玖馬のことを見ていた。
「お、俺、俺は、先輩の邪魔しませんから!」
「何言ってるの?クマ?」
末樹は、目の前で切羽詰まった顔をしている玖馬に思わず疑問を投げかけた。
「へっ!?いや、あの…」
玖馬は口をパクパクとさせて末樹の目を見た。
「おいクマ、お前どうした…?」
紺は顔をしかめて玖馬を軽く睨みつけた。
「あっ…いや、その…。なんというか…どうしてもこれだけは言っておきたくて」
玖馬はしゅんとして俯いた。もどかしそうな表情をしている。
「なんだよ?」
「末樹先輩には、個人的に相談に乗ってもらっているだけで、…それだけなので」
玖馬の不自然な言動に、紺は玖馬の言いたいことが何かを察した。それと同時に、心に風が吹いたような気がした。
「…クマ、いいから、それ以上は言うな」
紺が玖馬をなだめるようにそう言うと、玖馬はぐっと拳を握り、瞳に力を入れた。
「先輩、…一人じゃ、ないんですよ…」
玖馬の言葉は、声こそ大きくはなかったが、これまでよりも強い力が入っていた。紺に何かを訴えかけるような玖馬の眼差しは、末樹にもはっきりと見えていた。
末樹はゆっくりと紺の方を振り返った。紺は、半分身体をこちら側に向けたまま、斜め下を見ていた。しかしその目には、何も映っていないように見えた。
「…糸村」
末樹の小さな呼びかけに、紺の瞳がちらりと末樹を捉えた。その愁いを帯びた紺の瞳と目が合った末樹は、思わず息を呑んだ。その瞳の訴える意味が、今の末樹にはよく理解できた。
―あぁ、結局俺は、気づけなかったんだ…―
紺は、末樹の揺れる瞳から逃げるように、そのままその場を後にした。その姿を追いかけるように、末樹の横を、玖馬が風のように駆け抜けていった。
玖馬の呼び起こした静かな風が、そこに佇んだままの末樹の髪の毛を揺らした。
「紺先輩!」
玖馬の大きな声が、空まで響いた。屋上まで紺を追いかけてきた玖馬は、息を切らしながらベンチに座る紺を捉えた。
「なんだよ、お前エースだろ、そんなんでへばるなよ」
紺は玖馬の様子を見ると、からかうように笑った。しかしその表情は、元気がなさそうだった。
「先輩が、速いんですよ…!」
玖馬は情けなさそうに笑った。そして真っ直ぐに紺の座っているベンチまで歩き、隣に腰を掛けた。
この屋上は、小さな庭園のようになっていて、高い柵に囲まれた屋上には、緑の芝生が広がっていた。
二人は、その緑を囲むようにして並べられたベンチの一つに、並んで座っていた。
「あの、先輩…本当に、ごめんなさい」
玖馬は、芝生をじっと見ている紺に向かって、絞り出すような声で言った。
「…何が?」
紺は、視線を真っ直ぐ芝生に向けたまま言った。
「先輩の手帳、見ちゃいました…。あの…」
「末樹のことが書いてあるやつだろ?」
紺は、バツが悪そうな玖馬にふっと視線を向けた。その目は、とても優しかった。
「…はい、そうです」
玖馬は両手を膝の上に置いて、まるで武士のような凛とした体勢で答えた。
「いいんだよ。そもそも墓穴を掘ったのは俺だし」
紺はそう言って笑った。
「びっくりしただろ?」
「…はい。少し。…日記かと思ったんですけど、末樹先輩について、色々書いてあって…。ネタ帳かな?とも思ったんですけど、どう見ても末樹先輩のことだったから…」
玖馬は正直に答えた。
「気色悪いよな。大人しく日記にしておけばよかった」
紺はまた芝生を見て遠い目をした。玖馬に最大の秘密を見られてしまったことについては、もう諦めて観念しているかのようだった。
「ほんと、悪かった」
紺は玖馬に頭を下げた。
「紺先輩が謝る必要ないですよ…」
「でも元はと言えば俺がクマに当たったのが悪かった。本当。俺、焦ってたんだな」
紺は空を見上げた。その瞳の中を、雲が流れていく。
「…俺に、嫉妬、してたんですか?」
玖馬は恐る恐る聞いてみた。
「……そうだよ。なんか、我儘だよな」
「そんなことないと俺は思います!」
玖馬は前のめりになって言った。
「しかも先輩、ずっとずっと我慢してるんじゃないですか」
「…でもまぁ、それは覚悟してたことだし…」
紺は玖馬を見て、その必死な表情に、緊張が解けたような気がした。
「だって先輩、ずっと末樹先輩のこと…」
「ああ、好きだよ。…もちろん、末樹が俺に向ける“好き”とは意味が違うんだけど…」
紺の表情が、切なく歪んだ。
「クマには感謝してるよ。俺、結構もう限界にきてたみたいで、気持ちを封じ込めようとしても、どうにもこうにもならなかった。
クマのおかげで、いっそ表に出すことが出来た。末樹がどう思ってるかは分からないし、今、知りたくはないけど、自分としては…成仏できそう」
「先輩まだ死んじゃダメっすよ」
玖馬は慌ててその部分を否定した。
「ははは。そうだな。身勝手にも程があるな」
紺は、自分と同じくらい元気がない様子の玖馬を見て、その表情を伺った。
「クマさ、俺のこと、気持ち悪くないの?」
自分に向けられた真っ直ぐな眼差しを、玖馬はしっかりと受け止めた。
「気持ち悪くありません。全然、普通のことです」
玖馬ははっきりと答えた。
「それに、…俺も、隠してたんですけど…」
「?」
玖馬は一度だけ下を向くと、勢いよく顔を上げた。
「俺、來樹さんのことが好きなんです」
「え?」
玖馬の告白に、紺は狐につままれたような顔をした。
「…同じ顔だ」
玖馬は紺の顔を見て思わず笑った。
「末樹先輩だけには話してるんですけど、その時の末樹先輩と同じ顔してます」
「…末樹に相談してたのって…?」
「そうです。このことです」
「お前凄いな」
紺は玖馬を感心したような眼差しで見た。
「まぁ、ほんと、成り行きでなんですけど」
「いや、それでもだよ」
「だから、末樹先輩はそういうの、偏見とかは、ないと思うんですけど…」
玖馬はちらっと紺の顔を見上げた。
「いや、人の相談を聞くのと当事者になるのとでは、全く次元が違うからな」
紺は玖馬の視線を避けるように、情けない笑顔を作った。
「…そう、ですよね」
玖馬はその回答に、少し凹んでいるようだった。
「分かってるんですけどね。そういうことは…。簡単そうに見えるけど、複雑な問題だし…」
「なんだよ、お前まで落ち込むな」
紺は玖馬を元気づけようと小突いた。
「…はい。…でも、なんだろう、なんだか、俺は嬉しいです」
「は?」
「紺先輩ともこういう話が出来て…なんか、俺ずっと怖かったので。紺先輩にバレた時、突き放されたらどうしようって。普通に、普通の会話すらできないかもしれないって、思ってたので」
「俺のイメージどうなってるんだよ」
紺は苦笑した。
「すみません」
玖馬は控えめに笑った。
「あー、でも、もうこれで末樹にもバレたのか…。ってかクマ、あからさまに挙動不審になりすぎなんだよ」
「へへへ、すみません。でも、なんかどうしていいかわかんなくなっちゃって。ただ…黙ってることも出来なかったんです」
「しょうがないな…」
紺は大きく伸びをすると、そのまま立ち上がった。
「ま、これからは俺にも相談してくれていいんだからな」
「先輩こそですよ」
ニヤリと笑った紺に、玖馬は同じように笑い返した。
末樹は、帰宅してすぐに、制服を着たまま思い切りベッドに倒れ込んだ。鞄もドアの前に置いたまま。ベッドの上にうつぶせになっていた。
紺と玖馬が立ち去り、その場に取り残された末樹は、放心状態のまま何も考えずに帰ってきた。帰り道の景色すらよく覚えていない。
しばらく微動だにしなかった末樹は、息苦しくなって枕にうずめていた顔を上げた。
―…糸村が、あんな顔をするとは…―
虚ろな目に浮かんでくるのは、紺のあの愁いに満ちた表情だった。
―クマは知っていたのか…―
末樹は、いつの間にか紺の気持ちを知っていたであろう玖馬のことを考えた。末樹のことを避け始めたのも、このことがあったからきっと動揺していたのだろう。
「…はぁ」
末樹は溜め込んだ息を吐き出して脱力した。まさか、ずっと探っていた紺の好きな人が自分だったなんて、全く気づけなかった。
灯台下暗しとは、このことだ。
玖馬と來樹のことがあったから、そういう選択肢ももちろん視野に入れていたが、それにしても相手は急激に親しくなっていた武史か、または末樹の知らない人物かと考えていた。
こんな気の利かない自分のどこが良いのだろうか。末樹は、もう一度ため息をついた。
―これから、どうなるんだろう―
末樹の心に、靄がかかってきた。紺のことは、友人として大切な存在であることに変わりはない。そこが、今回のことで揺らぐことは決してないだろう。
できることなら、これまで通りの関係を続けていきたい。
しかし、想いを表に出すことになってしまった紺にとって、それは酷なことなのかもしれない。紺の気持ちが見えないふりをしても、友人関係が続くとも思えない。
末樹は、身体を横に転がして仰向けになった。
―糸村、ちゃんと聞かせてくれよ―
何より、紺の気持ちをはっきりと、紺の言葉で聞きたかった。聞いたところで、紺の気持ちに応えられるかは分からなかった。
そんなところまでは考えられなかった。
末樹自身も、どうしたいのかはよく分かっていなかった。ただ、それでも知りたかった。“好き”とは何なのだろうか。
そんな時、ふと莉々の顔が浮かんできた。
―待てよ…―
末樹はハッとして身体を起こした。莉々が告白した時に紺が答えた相手は、他でもない、末樹自身だった。
―糸村のこと、莉々ちゃんに伝えるのか…?―
紺の好きな人が判明した今、莉々にこの真実を伝えるべきなのだろうか。
「いや…できない…」
末樹はそのまま後ろに倒れた。
「なんて言えばいいんだよ」
末樹の小さな呟きは、空気の中に消えていった。そもそも、勝手に広げていい話でもない。気持ちの整理がつかない今、莉々にこのことを伝える気力は末樹にはなかった。
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