第16話 霧中の想い

 「げっ」

 濁った声を出して、玖馬は近くの看板の陰に隠れた。看板の後ろからそっと目を向けたその先にいたのは、濃いグレーのスーツに身を包んだ伊鶴だった。

 綺麗に整えられたスーツを、持ち前のスタイルで着こなし、すらっと伸びた脚の先に履いている靴も、綺麗に磨かれていて輝きを帯びていた。

 今日は眼鏡をかけているようで、その端正な顔立ちは隠されていた。

「なんでこんなとこに…」

 玖馬は不機嫌そうな顔をして伊鶴の動きをじっと見ていた。仕事中だろうか。時折腕時計を見て、手に持った資料を確認していた。

「通れないじゃん…早くいなくなってよ…」

 玖馬はその先の道へ進みたかったが、どうしても伊鶴を越えなければ進めなかった。

「あぁー!もう…!」

 玖馬は天を仰ぎ見て唸った。

「何してるんだ?」

「わっ!?」

 玖馬が目を逸らしたほんの一瞬の隙に、伊鶴が玖馬の真横に来ていた。

 玖馬は驚きのあまりバランスを崩し、思わず転びそうになったが、持ち前の体幹でどうにか堪えた。

「な、なんですか急に!?」

 玖馬は責め立てるように言った。

「何ですかも何も、見てたのはクマ君だろ?」

 伊鶴は冷静にそう答えた。

「なっ…気づいて…!」

「そりゃ気づくでしょ…」

 慌てる玖馬を、伊鶴はきょとんとした顔で見た。

「…そし、そしたら、俺の通行の邪魔しないでください」

 玖馬は返せる言葉が見つからず、適当なことを言った。

「邪魔してた?それはごめんね」

 伊鶴は玖馬の様子を面白がっているようだった。

「しょうがないね。僕も仕事だからね」

「…伊鶴さんって、何してるんすか?」

 玖馬は余裕のある表情をしている伊鶴を不満そうに見た。

「MRだよ」

「えむあーる?」

 玖馬のぽかんとした顔に、伊鶴は思わず吹き出した。

「ははっ。まぁ薬の営業担当ってところだよ」

「へぇー」

 玖馬は伊鶴が笑ったことは気にしていないようだった。

「あれ、意外と素直だね」

「何が?」

「もっと突っかかって来るかと…。クマ君、僕のこと嫌いでしょ?」

「いや、嫌いって言うか…苦手、ですけど…」

 玖馬は腕を組んで考えるかのような仕草を見せた。

「ははは、ほんと素直なんだね」

「…伊鶴さんこそ、俺のこと好きじゃないんじゃないですか?」

 玖馬はむっとして言った。

「好きも嫌いも何も、僕はクマ君のこと、まだあまり知らないからね。どちらでもないけど、興味はあるかな」

「は?興味?」

 玖馬は眉をひそめた。

「クマ君、來樹のこと好きなんでしょ」

 伊鶴は眼鏡の奥から玖馬のことをじっと見た。その瞳は、蔑むわけでもなく奇異に満ちているわけでもなかった。

 しかし、なぜかその瞳は剣のように玖馬の心を刺してきた。

「え…何?」

 玖馬は思わず一歩下がったが、伊鶴の瞳からは目が離せなかった。

「別にそれをどうこう言うつもりはないよ。君の想いは君の自由だしね。止めるつもりも邪魔をするつもりもない」

 伊鶴は眼鏡をかけ直すと、小さく息を吐いた。

「でもね、君の知らない來樹のことも知っている僕から一言だけ言わせてもらうとね…」

 玖馬は、ごくりと唾を飲み込んだ。

「生半可な気持ちで近づこうとしないでね」

 伊鶴は玖馬をじっと見ると、ゆっくりと目を細めて微笑んだ。

「…」

 玖馬はゾクッと全身が震えた。返す言葉が探せなかった。

「來樹は、優しいから、その優しさで自分も他人も傷つけているのに、それを止めることが出来ないんだ。優しさにもいろんな方向があるから、それをうまく使って欲しいけど、來樹はそれができない。いつまでも自滅してしまうんだ。その優しさを利用してくるやつもいる。結局のところ、その優しさの剣は自分に向けられ、一番自分がボロボロになってしまう。僕はそれを見過ごすことは出来ない」

 伊鶴は呆気に取られている玖馬をしばらく見つめてから、その目を離した。

「…伊鶴さんは」

 玖馬は小さな声を出した。

「伊鶴さんは、來樹さんのこと…その、どういう…」

 玖馬の声は震えていた。弱々しく、ぎゅっと鞄を握りしめた。

「…どう思う?」

 伊鶴は意地悪な顔で笑った。

「…わかりません」

 玖馬は伊鶴の顔を見上げて元気なくそう答えた。夕日の逆光で、伊鶴の顔に影が下りてきて表情が見えづらくなっていた。

「俺には伊鶴さんの気持ちは何も見えません…。來樹さんの気持ちも…。それに、俺はまだ高校生だし、頼りないし、來樹さんにとってはただの弟みたいな存在です。伊鶴さんみたいに格好良くないし、頼もしくもない。そんな俺が、來樹さんに好意を持つなんて、滑稽かもしれません。いや、たぶん滑稽なんでしょうね。冗談だって、笑われて当然です。でも…だけど…!俺だって!來樹さんのこと傷つけたくないです。俺の気持ちが迷惑なら、…ちゃんと折り合い付けます。だけど、まだそこまで決着はついてないから…何も、何も見えないけど、來樹さんのこと大切だからこそ、俺は、まだ、ここから離れたくありません」

 玖馬は地面を見て息を詰まらせながら声を上げた。伊鶴の顔を見ると何も言えなくなる。

 伊鶴の真の想いは知らないが、來樹に対して特別な感情を持っていることは確かだろう。玖馬にとって、伊鶴は切っても切れない存在になりつつある。

 玖馬はそんな伊鶴に対して、ただただ悔しい想いを抱いていた。

 伊鶴のようには自分はなれないこと。伊鶴のように來樹との信頼関係を築けないこと。そして何より、玖馬自身の想いが、伊鶴にとっては真剣なものに見えていなかったことだ。

 玖馬なりにたくさん悩んで、苦しんだ結果の今の來樹への気持ちも、他人にとってはただのちっぽけな感情に見えてしまうことが悔しかった。

 どんなに募らせた想いも、届かなければ意味がない。

 來樹は、一体玖馬のことをどう思っているのだろうか。玖馬の気持ちに気づいてしまっているのだろうか。それを玖馬自身は喜べるのだろうか。

 來樹が信頼を寄せている伊鶴という存在は、玖馬にとっては大きすぎるほどの影響力があった。

 人の想いなんて、所詮は他人事。本質など、簡単に見出すことは出来ないのだろう。宝の分からない宝探しなんて、その価値がないのと同じだ。

「クマ君」

 俯いたままの玖馬に、伊鶴が優しい声色で声をかけた。

「こんなこと言っといてなんだけど、僕なんてどうでもいいんだ。大事なのは、君自身だろう?」

 玖馬が顔を上げると、伊鶴はもう既に歩き出そうとしていた。

「またねクマ君」

 そう言って手を振ると、伊鶴は穏やかな表情をして去って行った。

「…なんだよ…あの人は…」

 玖馬はそうつぶやくと、とぼとぼと歩き出した。背中に夕日が差し込み、少し暖かかったが、足が鉛のように重かった。


 伊鶴と街中で偶然出会ってから二日後、玖馬は相変わらず足に錘がついているような感覚だった。部活動でも調子が出ず、玖馬は珍しく部活を休むことにした。

 部活動のない放課後、特にやることもなく、ただ頭を空っぽにしているのも嫌で、玖馬は普段は気の向かない自習をすることにした。

 数学の勉強をしていれば、頭の中を記号で埋めることが出来る。何も考えたくない玖馬は、自習室で集中して課題を解いていた。

 他の教科よりも数学が得意な玖馬は、一通りの問題を解き終え、身体を思い切り伸ばした。数人の生徒が自習室にはいたが、周りは知らない顔ばかりだった。

 ふと窓の方を見ると、見慣れた背中が見えた。

「末樹先輩」

 玖馬は嬉しくなって思わずそう声が出た。しかし末樹は聞こえていないようで、黙々と机に向かっていた。

「…」

 末樹の背中を見ていた玖馬は、どこか懐かしさを覚え胸が暖かくなっていった。

「先輩…」

 もう一度、蚊のなくような声がこぼれた。少し震えていて、とても弱々しい、消え入りそうな声だった。

「…?」

 それにも関わらず、玖馬のその声に応えるかのように末樹が振り返った。

「クマ?珍しいね、ここに居るなんて」

 末樹はそう言うと嬉しそうに微笑んだ。先輩として、玖馬が勉強しているということが嬉しかったのだ。

「末樹先輩…」

 一方の玖馬は、タイミングよく振り返った末樹に放心状態だった。玖馬の声が聞こえていたのかは分からないが、玖馬にとっては、奇跡的な出来事だった。

 玖馬はどうしても、末樹に救いを求めてしまっていた。

「ん?どうかした?」

 末樹は固まったままの玖馬に控えめな声を出した。ここは自習室。基本的に私語厳禁だ。

「あ、いや…」

 玖馬は勉強道具を机に広げたまま末樹の隣の席まで歩いて行った。

「その、たまには勉強しなきゃなって」

 玖馬は誤魔化すように笑って椅子を引いた。

「そっか。それはいいね。…あれ?でも部活は?」

「えっと―…なんか調子でなくて」

「そうなんだ。珍しいね。でもまぁ、そんな時もあるよね」

 隣の席に身一つで座った玖馬に、末樹は明るく笑いかけた。

「部活を休むって言うのも、部活に入っていなきゃ出来ないことだよね」

 末樹はそう言いながら、うんうんと小さく頷いた。

「…ですね」

 玖馬は心の重しが少しだけ軽くなったような気がした。

「勉強も気分転換になるだろ?」

「はい。意外でした」

 得意気な末樹に、玖馬は笑顔で答えた。本心だった。

「俺って結構集中力あるみたいっす」

「ははは。本当かなー?」

「あ、信じてないですね?俺も結構やるときゃやるんですよ」

 玖馬はニヤリと笑った。

「信じてなくはないけどね」

 末樹は玖馬の表情に釣られて、ははは、と笑うと鞄の中を探った。

「あれ?」

「どうかしました?」

 鞄の中をごそごそと探る末樹に、玖馬が首を傾げた。

「おかしいなぁ…。参考書一冊教室に忘れてきたみたい…」

 末樹はそう呟くと鞄を置いた。

「ごめんクマ。ちょっと取ってくる」

 末樹がそう言って立ち上がろうとすると、玖馬は急いで立ち上がりそれを制した。

「俺取ってきますよ」

「え?でも…」

「先輩は引き続き勉強していてください。俺、少し体動かしたいので」

「いいの?」

「はい!」

「ごめん。ありがとうクマ」

 末樹は、元気良く頷いた玖馬に申し訳なさそうな顔をした。

「お安い御用ですよ!」

 玖馬はそう言い残すと自習室を出て行った。残された末樹は、危なっかしい玖馬を見送ると、心配そうにため息を吐いた。玖馬が強がっていることには気付いていた。

 もう、自分の前では明るさを取り繕うとなんてしなくてもいいのに。

 末樹はそう思い、自らに無理を強いる玖馬に、なかなか甘えてもらえないことを寂しがっていた。


 末樹の教室の前まで来た玖馬は、そっと教室の中を覗いた。あまり入ることのない上級生の教室は、たとえ自分と親しい先輩の所属しているクラスの教室だとしても、異世界に来た感覚になる。

「失礼します…」

 もう人もまばらな教室に入ろうとした玖馬だったが、ふと机に向って何かを熱心に書いている人物が目に入ってきた。

 勉強しているのだろうか。その人物の放つ、近づくな、と言わんばかりの雰囲気に、玖馬は思わず息を呑んだ。

 しかしよく見ると、その人物は玖馬にとってはおなじみの、紺だった。

―紺先輩、何を一体そんなに集中しているんだろう…―

 玖馬は気付かれないように、そーっと紺のことを観察した。

―先輩、集中して作業してるとなんかカッコよく見えるっすね…―

 玖馬は観察しながらそんなことを考えていた。

―…先輩って軟派そうに見えるけど実際は硬派で、普通にモテそうだなぁ…俺には到底無理だな―

 玖馬は勝手に肩を落とすと、そのまま末樹の席まで歩いて行った。ちらっと斜め後ろを見ると、紺の姿が見えた。どうやら、紺は勉強をしているわけではなさそうだった。

 手帳のようなものに、何かを書き記しているようだった。

―……全然俺に気づかない―

 玖馬は末樹の参考書を手に取り、もう一度紺を見た。相変わらず、玖馬には気付いていないようだ。

―話しかけない方が良さそうっすね―

 そう結論を出した玖馬は、参考書片手に自習室まで戻って行った。


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