第8話 静かな休日

 玖馬と來樹が舞台に行く週末が迫った水曜日。末樹は校舎の裏で一人本を読んでいた。末樹が莉々に相談があると言われてから、実際に連日、莉々は末樹のもとを訪れていた。

 大抵、末樹が一人でいるタイミングで話しかけられることが多く、話に来る内容と言えばどれもとても軽いもので、ほぼ雑談に過ぎなかったが、末樹は莉々の期待に応えられているか自信が持てず、その申し訳なさで莉々に会うことに少し気疲れをしていた。

 気にしすぎなのかもしれないが、末樹は莉々に対して気を遣わずにはいられなかった。どこか玖馬を彷彿とさせるあの真っ直ぐな眼差しを、末樹はどうしても真正面から受け止めてしまうのであった。後輩を持たない末樹としては、年下に慕われること自体が少し怖かった。

 英文の文章を目で追っていても、頭の中はもやもやとしていた。莉々を避けるためにここまで来たわけではないが、少し一人になりたかった。末樹は大きなため息を吐くと地面を見つめた。

 莉々は可愛らしい、まさに女子高生といった雰囲気の女の子だった。ふわふわした朗らかな雰囲気とは対照に、性格は極めて積極的で、実のところは猪突猛進型のように思えた。しかし柔らかい印象の話し方をするため、はしゃぎすぎるといったような様子もなく、末樹は莉々のことを眠れる獅子のように思っていた。

―俺を頼ってどうするんだ―

 玖馬と莉々、二人の後輩の顔を思い浮かべ、末樹は肩を落とした。気は重かったが、二人の気持ちは尊重して大事にしたかった。

 末樹は本を閉じるとベンチにもたれ掛かった。

―やっぱりクマに聞いてみるか…―

 莉々のことをまだそこまで知らない末樹は、そう覚悟して空を見上げた。玖馬のことを誰かに相談することは出来ないが、莉々の方はやましいこともないので誰かと共有しても良いだろう。

―そういえば兄貴と舞台に行くのは今週末か…―

 末樹は虚ろな目で流れる雲を追った。

―無事に終わりますように…―

 末樹は目を閉じ、心で祈った。


 日曜日、末樹は出かけていく來樹を見送るために、玄関で靴を履いている來樹に声をかけた。

「兄貴、今日クマと出掛けるんだろ」

「ああ、そうだよ。知ってたのか」

「うん」

 來樹は爽やかな笑顔を見せると鞄を手に取った。

「…いってらっしゃい」

 末樹は來樹が笑顔のまま頷くのを見ると、玄関の扉に鍵をかけた。未だに、來樹に玖馬の話題を振るのは緊張していた。変に意識するのはかえって不自然だが、末樹はそこまで器用な人間ではない。

 部屋に戻った末樹は、ベッドに腰を掛けた。参考書を読もうとしても、そわそわして落ち着かなかった。

―…だめだな―

 一時間半が経った頃、そう確信した末樹は、手につかない勉強をひとまず置いておくことにした。家に居ても落ち着かない末樹は、ひとまず外に出ることにした。何も考えないまま服を手に取り、着替えた末樹は、行き先も決めずに街を歩いた。

 どこに行っても落ち着けないのは分かり切っていた。そのため、末樹は駅の近くを気の向くままに歩き続けていた。ふと顔を上げると、前に紺と観に行った映画のポスターが目に入った。そういえば、この前は集中して見れなかったため、あまり内容の記憶がない。もう一度ちゃんと観てみたい。末樹はそう思いながらポスターを眺めていた。

「お?」

 末樹の隣に人が寄ってきた。

「え?」

 末樹が横を見ると、そこには武史がいた。スーツを着て、いつもとは違う印象に、末樹は一瞬誰だか分からなかった。

「え?武史さん?」

「なんだその顔は」

 目を丸くして驚く末樹に、武史は心外だな、と笑った。

「すみません。いつもと雰囲気が違うので…」

 末樹が正直にそう言うと、武史は声を出して笑った。

「そうだよな。俺のスーツ姿とか、笑えるよな」

「いえそんな。似合っています」

「ありがとな」

 武史は嬉しそうに笑うと、末樹の見ていたポスターに目をやった。

「この映画、末樹観たんだよな?」

「え?はい」

「面白いのか?」

「あ、えっと…実はあんまり覚えてなくて…」

「なんだ、寝てたのか?勉強のしすぎだぞ」

「違いますよ」

 末樹が武史をじとっと見ると、武史は笑いながら謝った。

「武史さんは映画よく観るんですか?」

「そうだな。人並みには観る。ほとんど洋画だけど」

「へぇー…ところで」

「あ!そうだ!ちょうどいい!忘れるところだった!」

 末樹が何かを言いかけると、武史は何かを思い出したようで、末樹の言葉を遮るように大きな声を出した。

「な、なんですか…?」

「この前、糸村君がアイス屋に来たんだよ。それで、その時にさ…これ忘れて…」

 武史は鞄から何かを取り出した。

「これは…」

 武史が手にしている物に末樹は見覚えがあった。

「糸村の手帳ですよね?」

 武史が持っているのはクリスマスカラーのストライプ模様をした手帳だった。紺にしては可愛らしい柄だと思い、末樹も紺が持っていたのは覚えている。

「そう。雑談してたら忘れたみたいで。なくしたらいけないから持ってたんだけど、末樹ちょうど良かったよ。これ糸村君に渡してくれないか?」

 武史は末樹に手帳を差し出した。

「はい。ありがとうございます。武史さん」

「悪いな」

 末樹が武史から手帳を受け取ると、武史は腕時計を確認した。

「あ、俺もう行くわ。またな末樹」

 武史は末樹に目配せをすると颯爽と駅まで歩いて行った。武史の大きな背中が、何だかいつもよりシャキッとして見えた。

「…就活か」

 末樹はそう呟くと、手元の手帳に目をやった。紺がいつも持ち歩いている手帳だ。末樹の前で手帳を開くことはなく、中身を見たことはないが、思っていたより分厚かった。手帳はしっかり閉められるタイプになっていて、中を見るのは憚られた。

「しかし可愛い手帳だな…」

 末樹は手帳をひっくり返した。

―ん?―

 裏表紙を見ると、そこにも見覚えのある物が貼ってあった。

―シール…?―

 それは、末樹が高校入学して間もなく、紺と一緒に観に行った映画のステッカーだった。来場特典としてもらったもので、デフォルメされたキャラクターのイラストが描いてある。末樹の分は紺にあげていた。手帳の裏表紙に貼ってあったのは、少し汚れて劣化しているが、確かにそのステッカーだ。

 末樹は懐かしさから笑みがこぼれた。そういえば当時から紺は映画が好きだった。エンタメ関係に疎い末樹も、紺のおかげで映画界の情報だけは知っていることが多かった。勉強ばかりしていた自分に、紺はよく付き合ってくれたものだ。末樹はふと紺の存在を有難く感じた。

 いつも末樹のことを気にかけてくれ、少し抜けたところのある自分をフォローしてくれていた。紺の優しさが当たり前になっていたことに、末樹は申し訳なく思えてきた。自分が紺にしてきたことと言えば、勉強を教えるくらいだった。

―ことごとくそれしかないな…―

 末樹は自分を情けなく思いながら、手帳を握りしめ、同時に紺の優しさに感謝していた。その間、玖馬と來樹への不安感は忘れられた。

 その日、帰宅した來樹はいつも通りで、末樹が感想を聞くと舞台がとても良かったと絶賛していた。玖馬も楽しんでいたようで、友人の楽屋にも一緒に挨拶に行ったそうだった。

 末樹に玖馬からの連絡はなかったが、來樹にはお礼の連絡と、また行きたいとのメッセージが来たそうだ。

 末樹は玖馬から連絡がないことが少し寂しかったが、玖馬もいっぱいいっぱいであることを理解し、特に末樹からも連絡を入れることはしなかった。


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