第6話 ビターのその先
末樹が來樹の疑惑で頭を悩ませていた頃、玖馬は部活を終え、足が赴くままに來樹の働くコーヒー店に来ていた。
この店はコーヒーが自慢なだけあってメニューはほとんどコーヒー関係の物だ。唯一玖馬が飲めそうなものはココアだが、頻繁に飲むには少し高い。
玖馬は、いつも通り比較的安価である苦手なコーヒーを頼み、店内で耳をそばだてていた。今日のこの時間は客もまばらで、店内が静かだったこともあり、玖馬の耳に來樹と同僚の会話が聞こえてきた。
「豊嶋君、もうすぐあがりでしょ。その前にここ片付けてもらってもいいかな」
「はい。分かりました」
「ありがとう。よろしくね」
玖馬は、胸の鼓動が早くなってくるのが分かった。同時に緊張感が高まり、指の先が冷たくなってきた。
―もうすぐ終わるのか。…どうしよう―
玖馬は、來樹と接触を図りたくなっていた。昨年家庭教師についてもらったことから知り合ったが、その後は玖馬がコーヒー店に来た際、玖馬が注文の際に声をかけるか、來樹側に余裕があるときに時々気にかけてもらったくらいしか会話は出来ていない。
來樹は玖馬の存在は把握しているが、末樹の後輩、以前の教え子という認識くらいしかないだろう。玖馬はなんとかそれ以上の存在に近づきたかった。
―待ってみるか…?―
玖馬は緊張から、未だ慣れないコーヒーを口に運んだ。味をあまり感じないが、苦みだけは残った。
―いや、でも迷惑だよな…―
玖馬は一点を見つめ、もう一度コーヒーを飲んだ。
―でもチャンスだし…―
緊張と葛藤で目が回りそうな玖馬は、顔を上げて來樹を見た。カウンターの奥で、何やら機械の付近を掃除しているようだ。
少し長くなってきた前髪を横に流し、額が見えて顔自体がすっきりして見える。末樹と同じような平行な眉毛がよく見え、穏やかな人相がはっきりと分かる。
長袖のシャツを捲った腕は、少しだけ日焼けの跡が残っていて、力を入れて掃除しているためか血管が少し浮いている。
「……」
玖馬はぼーっと來樹を見つめ、考えることを止めた。この人に近づきたいが、自分にその資格はないかもしれない。
それでも、人間として憧れを抱くことはそんなに悪いことなのだろうか。玖馬は、頼んだコーヒーを初めて全て飲み干した。
「來樹さん」
玖馬は空になったカップを返しに返却棚へ向かった。來樹はその近くで作業をしていた。來樹は玖馬に呼ばれて振り返った。
「玖馬君。あれ?全部飲んだんだね。珍しいね」
來樹は玖馬の手元にあるカップを見て頬を緩めた。
「あ…。はい!」
玖馬は一瞬戸惑ったが、すぐにいつもの明るい笑顔で返事をした。
「どうかしたの?」
來樹は玖馬のカップを直接受け取ると、優しい声色で聞いた。
「あ、あの、…えっと、いつもお疲れ様です…」
玖馬は何を言っていいのか分からず、自信のない声で答えた。
「ふふ。ありがとう。玖馬君もいつもありがとうね」
「い、いえ…!」
「部活もいつも頑張ってるんでしょう?お疲れ様」
來樹は玖馬ににっこり笑いかけた。
「いえそんな!俺なんてまだまだっすよ!」
「いや、偉いと思うよ。…そうだ、玖馬君、この後時間ある?」
「えっ」
想定外の來樹の言葉に、玖馬は不意を突かれた。
「時間あります」
「そっか。そしたらさ、友達からアイスの無料券貰ったんだけど、使いきれそうもなくて…勿体ないから、この後一緒に行かない?」
來樹はぽかんとしている玖馬をよそに、笑顔でそう言った。
「え…いいんですか…?」
玖馬は状況がよく分かっていない顔でどうにかそう返した。
「もちろんだよ?」
來樹は狐につままれたような様子の玖馬を不思議そうに見た。
「行きます…アイス、好きです」
「良かった。ありがとう。俺もうすぐあがるから、ちょっとだけ待っててもらってもいい?」
「はい…!待ってます!!」
玖馬は雲が晴れたような表情を見せた。來樹は玖馬の返事に頷くと、作業に戻った。玖馬はまた鼓動が早くなるのを感じた。
ただ、今度は嬉しさからそうなっていることを理解していた。さっきまで悩んでいたことが吹き飛ばされ、一気に花が咲いたような晴れやかな気持ちになっていた。
嬉しくて、思わず歌い出しそうだった。身体が軽くなったように感じ、今なら、部活で新記録を出せるかもしれない。
支度を終えるのを待っていた玖馬のもとに、來樹が急ぎ足で来た。
「店の中で待っててくれてよかったのに」
「いえ、もう飲み終わっていましたし!邪魔になってしまうので」
玖馬は來樹と話すとき、口角が上がりっぱなしになっていた。
「ごめんね。誘ったうえに待たせちゃって」
「全然!むしろ無料券貰っちゃっていいんですか?」
「いいよ。末樹に渡そうと思ったけど、忘れてて…期限がもう明日までだったし。むしろ助かるよ」
「へへへ。ありがたいっす」
來樹に浮足立っていることをバレないように、玖馬は慎重に歩いたが、かえって違和感のある歩き方になってしまっていた。來樹はそのことには気付いていないようだったが、いつもより元気な玖馬を微笑ましがっていた。
「玖馬君、部活も大変そうだけど、勉強の方はもう大丈夫?」
「えっと…大丈夫…と、言いたいです」
「ははは。困ったことがあったら言ってね」
「ありがとうございます。來樹さんも忙しいですよね?」
「まぁ…そうなのかな?でもそんなことないよ」
「…末樹先輩、たまーに心配してますよ」
「たまにか」
來樹は楽しそうに笑った。
「末樹は常に勉強追い込んでるからな。あいつ勉強ばっかしてるけど、これからも仲良くしてくれ」
「勿論です!先輩、努力家で頭もいいし、俺、尊敬してます!俺の方こそ見限られないように気を付けないと…」
「見限るとか、あいつはそういうことしないやつだよ。あ、でももしそうなっても、その程度の奴ってことだから、全然気にするなよ」
來樹はその場に居ない末樹のことをいじりながら笑った。
「はい!」
玖馬は來樹が何を言おうと、すべての言葉が嬉しくて、笑顔で大きく頷いた。目的地に向かう道中、他愛のない会話しかしていなかったが、玖馬にとっては最高の時間になった。
「ここだよ。玖馬君、来たことある?」
アイスクリーム店に着いた來樹は、店を指差して見せた。
「来たことないっすね」
「券くれた俺の友達が働いてるんだけど、結構おいしいよ」
來樹はそう言うと店の中に入った。
「武史」
店に入ると、中には数人、すでにアイスクリームを買って食べている客がいた。來樹はカウンターにいる人物に声をかけた。
「來樹ー。ようやく来たか」
來樹に声をかけられた人物は、嬉しそうに笑った。
「券使わないのかと思った。あれいつあげたと思ってるんだよ」
「ごめんな。でもちゃんと使うから」
「ん?そちらは?」
武史は來樹の後ろにいる玖馬に気づき、視線を移した。
「末樹の後輩の玖馬君だよ」
來樹は玖馬の方を振り返って微笑んだ。身長が玖馬と同じくらいの末樹の顔が、とても近く見えた。少し細めた來樹の桃花眼に、玖馬は思わず見とれてしまった。
「前に家庭教師したことがあって」
來樹が武史の方に視線を戻すと、武史は「そうなのか」と言って玖馬に笑いかけた。
「で、何にする?二人とも」
「どうしようかな。食べるの久しぶりだしな」
「來樹は抹茶系が好きだったよな」
「うん。でも今はさっぱりしたの食べたいし」
「じゃソルベかな」
武史と來樹は真剣な面持ちでフレーバー選びをしていた。玖馬はそんな來樹の横顔を見ていた。
「じゃあ俺これにするよ。玖馬君、決まった?」
「えっと…俺は、いちご…」
顔を上げた來樹から向けられた視線に慌てた玖馬は、目に入ったフレーバーを適当に答えた。
「じゃ、ちょっと待ってな」
武史はそう言うと二人の分のアイスクリームを準備し始めた。
「玖馬君、彼が大学の友人の武史だよ。紹介が遅れたね」
「そうなんですね」
「こう見えて彼、結構優秀なんだよ」
「聞こえてるぞ」
來樹が武史のツッコミに笑うと、武史は二人にアイスクリームを渡した。
「そういや來樹、鈴本の舞台、行くのか?」
アイスクリームを渡しながら、武史が思い出したように尋ねた。
「ああ、行くつもりだよ」
「そっか―…俺も行きたかったけど…」
「やっぱり難しそうか?」
「そうなんだよ。就活の都合がどうしてもな」
「仕方ないよ」
「悪いな。他に行ける奴いるかな」
「どうだろう。皆忙しそうだし。別に俺一人でも行くけどさ」
「でも折角の舞台なのに、なんか勿体ないな…」
來樹と武史の会話を、玖馬はアイスクリームを食べながら聞いていた。苦手なコーヒーとは違い、口の中は甘い味で満たされていた。
「あの…」
「?」
「舞台…ですか?」
玖馬は思い切って会話に入っていった。
「そう。大学の友達で、駆け出しなんだけど俳優やってるのがいて、今度割と大きめの舞台に出ることになったんだ」
來樹が玖馬に説明をしてくれた。
「凄いですね」
「だけど俺行けなくて…チケットが余っちゃいそうでさ」
武史が悔しそうな顔をした。
「勿体ないから、誰かに譲りたいんだ」
武史はため息を吐いた。來樹も残念そうな顔をしていた。
「あの、それっていつですか?」
恐る恐る、玖馬が聞いた。
「来週の日曜日だよ」
來樹が答えた。
「あ、あの、俺…い、行ってみたい…です…」
玖馬は小さく手を挙げて控えめな声で言った。
「え?本当?」
「あ、もちろん!嫌でなければなんですが…!」
玖馬は慌てて付け加えた。出しゃばったことを言って急に恥ずかしくなってきた玖馬は、耳が赤くなってきた。
「嬉しい。玖馬君がそう言ってくれるなら行こうよ」
今すぐ消えたいと思う玖馬とは対照的に、來樹は嬉しそうな顔を見せた。玖馬はその顔を見て、救われたような気がした。
「ありがとう玖馬君」
「俺からも礼を言う!助かったよ」
來樹と武史は玖馬の肩を叩いた。玖馬は照れくさくなって、力の抜けた笑顔を見せた。どさくさに紛れて來樹との約束を取り付けることができた。
少しだけ溶けたアイスクリームを食べ、玖馬は、緊張しながらも喜びをかみしめていた。やっぱり、この人のことが好きだった。
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