第4話 不穏な休日

 すぐにでも雨が降り出しそうなくらい厚い雲に覆われた空の下、末樹は足早に電車を降り、改札口へと急いだ。

 映画を観るために、紺と映画館の最寄り駅で待ち合わせをしていたが、一本乗る電車を間違えていた末樹は、既に遅刻していた。

 紺と出掛けることはこれまでもあったが、時間通りに着いたときでもいつも紺が先に着いていて、末樹が紺を待つことは一度もなかった。それ故に、次こそは、と末樹も気合を入れるが、どうしても支度に時間がかかってしまっていた。

 紺から苦情が来たことはないが、末樹としてはどうにかしたい課題でもあった。

「糸村!ごめん!遅くなった…」

 軽く息を切らしながら、駅の出口付近にいる紺に末樹が遠くから駆け寄った。

「なんだ大丈夫か?」

 既に疲れた様子の末樹を見て、紺が微かに笑った。

「大丈夫。ごめん」

「こっちも平気だよ。まだ全然時間あるしな」

「いやでも遅刻…」

「気にすんな」

 紺は末樹を肘で小突いた。末樹は弱々しく笑うと、もう一度謝った。

「映画まで時間あるし、何か見る?」

「うーん。なんか食べる?」

「それでもいいよ」

「あ、でもちょっと見たいものあったんだった」

 末樹は思い出したように紺の方を見た。

「何?参考書とかか?」

「なんでだよ」

「いやなんでだよ」

「ははは。今日はそうじゃなくて、ヘッドホン見たくて」

「ヘッドホン?」

 末樹の答えに、紺は気が抜けた顔をした。

「そう。勉強中にさ、集中するために使ってるんだけど、今使ってるやつもう壊れててさ、音出ないからもはやただの耳栓なんだよね」

「ふーん」

「見てもいい?…なんだよその顔」

「いや、結局勉強関係なんだなって…」

「なんだよ」

「いや、末樹らしいというか…」

 紺の感心したような呆れたような表情に、末樹はむっと顔をしかめた。

「俺らしいか?」

「あ、ああごめん。ヘッドホン、見に行こうぜ」

 紺は慌てて爽やかな表情で笑って見せた。末樹は若干腑に落ちない表情をしつつも、ショッピングセンターへと足を向けた。

「映画まであと一時間くらい?」

 電気店のフロアに行くためのエスカレーターに乗りながら、末樹は腕時計を確認した。

「そう」

 紺はスマートフォンで時間を確認すると、小さく頷いた。

「了解」

 末樹はそう答えるとエスカレーターを降り、店の中へと入っていった。紺もそれに続いた。

「そういやさ、末樹は今日見る映画の話は知ってるんだっけ?」

 ヘッドホンを探す末樹に、紺が聞いた。

「いや、詳しくは見てないよ。雑誌で特集されてた俳優が出るって書いてあったところを見たくらい」

「ふーん」

「原作ちゃんと読んだ方が良かったかな?」

「いや、内容知らなくてもいいと思う」

「糸村は内容知ったうえで演出とかも楽しむタイプだからな」

「うん」

 末樹の言葉に、紺は照れくさそうに同意した。

「でもいいよな。そういう、なんていうの?趣味みたいなものがあってさ」

「…末樹は?」

 ヘッドホンを次々に物色する末樹を見ながら、紺は少し控えめに聞いた。

「それがないんだよな」

 末樹はけらけらと笑った。

「なんかあるといいんだけど…」

「無理に見つけなくても向こうから勝手に見つかるよ。趣味なんてものはさ」

「そうかな」

「いつの間にか嵌っちゃうもんだよ」

 紺は末樹に優しく諭すように言うと、目についたヘッドホンを手に取った。

「これとか良さそう」

「おっ、値段も安いな」

 紺に渡されたヘッドホンを見て末樹は嬉しそうに言った。

「まぁ、今は勉強が俺の趣味かな」

 自虐的な笑みを浮かべて末樹はヘッドホンを装着してみた。

「いい感じ。これにしようかな」

 末樹の言葉に、紺はほっとしたような穏やかな表情を浮かべた。

 末樹はそのままヘッドホンを買うためにレジに向かい、会計を終えて紺のところへ戻ろうとした。その時、末樹の視界の端に二人の人影が入ってきた。

 特に見るつもりもなかった末樹だったが、何も考えずにその二人の人影に自然とピントが合った。

「…ん?」

 ぼやけていた人物が、次第にはっきりと輪郭を帯びてきた。

「あれ?」

 思わず声が出た。あまりにも見覚えのある姿。

「兄貴…?」

 末樹は少し遠くに見える來樹のような姿を、目を細めて捉えた。その横には、女性の姿がある。

「ん?…誰…?」

 独り言にもためらわないほど、末樹は來樹とその横の見慣れない女性のことしか目に入っていなかった。

「え?誰だ?」

 他の人陰に隠れて見えにくくなった二人の姿を、末樹は背伸びをしたり身体を屈めたりしながら目で追った。傍から見ると少し挙動不審だったが、末樹はそのことには気付いていなかった。

「んんんん?」

 色素の薄い茶色のショートボブの髪をしたその女性は、來樹と楽しそうに何かを話しながら、時折來樹の腕に触れ、親しそうに笑顔を見せていた。來樹も穏やかな笑顔を見せていて、リラックスしたような様子だった。

「ん?あれ?…えっ!もしかして…?」

 末樹は人の波に消えていく二人を見送りながら、独り言にしては大きな声を出して目を丸くしていた。

「兄貴の…彼女か…?」

 末樹は勢いよく口で息を吸いながら手で顔を覆った。

「クマ………」

 脳裏には玖馬の無邪気な笑顔が浮かんだ。

「どど、どうしよう…いや、どうしようっておかしいな…」

 末樹は右手で額を押さえ、そのまま頭に持っていった。

「うん?え?」

 衝撃が落ち着いてきた末樹は、次第に冷静さを取り戻し、首を傾げた。

―とりあえず落ち着いて、まずは映画だ―

 一旦頭を整理した末樹は、待たせている紺のところへ向かった。冷静を取り戻したと思っていたが、実際まだ気が動転していた。それを証明するかのように、末樹の髪の毛は少し乱れていた。

 あの女性が來樹の彼女なのであれば、玖馬にそれは伝えてあげるべきなのだろうか。末樹はぐるぐると思考を巡らせた。

 本来なら、言うべきであろうと思っていたが、玖馬の苦しそうな様子を思い出すと、自信をもって肯定は出来なかった。玖馬はただでさえ同性を好きになったことへの戸惑いを隠せていない。

 本人の中では、末樹も想像が出来ないくらいの葛藤に苦しめられているはずだ。きっとまだ自分でも消化しきれていないだろう。それでも、若干強引だったとはいえ末樹に打ち明けてくれた。玖馬はそんな様子を見せることはないが、末樹の知らない所では、とてつもない覚悟と後悔があったかもしれない。

 そんな玖馬に、今軽率なことは言いたくなかった。少しでも玖馬の力になりたいが、今はどうしてあげたらいいのか末樹には答えが出せなかった。

―そもそも、彼女と決まったわけじゃない―

 末樹は、自分を励ますように背筋を伸ばした。

―まずは確認しないと―

 末樹の視線の先に、紺が見えてきた。紺は、末樹の隠した複雑な感情に気付いているのかいないのか、変わらない表情で手を挙げた。

「ごめん。待たせて。…さ、映画に行こ」

 平然を装う末樹の声は、いつもより強張っていた。


 同じ建物の中にある映画館に向かった末樹だったが、座席に座ってもなお、末樹の心は地に足つかない状態だった。本編前の予告が始まると、次に公開される映画をチェックしたい紺はスクリーンに集中し、末樹との会話も途切れた。

 末樹もスクリーンの映像に集中しようとしたが、集中しようと思う度に思考が騒ぎ出した。先ほど見た二人の姿が脳裏をよぎる。考えるのは後にしようと気を引き締めても、次は玖馬の姿が浮かんでくる。その度に末樹はもやもやした気持ちが拭えなかった。

 玖馬から來樹が好きだと聞いたときは単純に驚き、來樹のどこが良かったのだろうかと考えてしまっていたが、もっと単純に考えると、玖馬は自身の気持ちに大きな壁を感じていることだろう。そもそも玖馬は同性を好きになったのは初めてだったと言っていた。

 以前からそういう憧れを抱いていたことは無意識のうちにあったりしたのだろうか。

 あの様子だと、それも無かったのだろう。末樹は、映画の本編が始まっても思考を止められなかった。玖馬は今、孤独を感じているかもしれない。

 世間体ほどには実際には簡単に受け入れられることのないであろう感情を、どのように共有してあげれば良いのだろうか。

 末樹は、玖馬の気持ちがどう転ぼうと、玖馬の味方でいたかった。末樹に出来ることは何もないかもしれない。それでも玖馬に何かしてあげたい。自分に出来ることがあるのであれば、今、それは玖馬のこと自身を尊重することだ。

 それを踏まえて、やはりしっかりと來樹のことを確認しなければ。

 スクリーンの中で、物語が進んで行く。順調に解決していく主人公を取り巻く謎とは対照的に、末樹の悩みは深まるばかりであった。

 気づけば、エンドロールが流れ終わり、場内が明るくなってきた。周りの観客が立ち上がり、映画の感想を口々に述べていた。末樹の隣で立ち上がった紺も、映画を楽しんだようで、充足感に満ちた顔をしていた。

「末樹?どうかしたか?」

 なかなか立ち上がらない末樹に気づいた紺が身体を屈めた。

「ごめん。なんでもないよ」

 末樹は気が付いたかのように顔を上げてゆっくり立ち上がると、紺を見て笑った。

「なんか顔色悪くないか?」

「そんなことないよ」

「…?」

 紺は疑問に思いながらも劇場を出た。末樹はぼーっとしながらもそれに続いた。

「映画どうだった?あの俳優、なかなか良い演技だったな」

「あっ、うん。そうだね。良い表情してたよね」

 末樹は紺の話に合わせるように答えた。

「スタッフの解釈も結構ストレートで良かったな」

「そうなんだ」

 映画の興奮冷めやらぬ様子の紺を横目に、末樹はこの後探りを入れるための手段を考えていた。映画の話題を振ってもどこか上の空な末樹の様子に気づいた紺は、申し訳なさそうな顔をした。

「悪い、もしかして映画、つまらなかったか?」

 ばつが悪そうな紺に、末樹ははっとして慌てて身を乗り出した。

「そんなことないよ!映画はすごく良かったよ!」

「そうだったのか…?なら、いいけど…」

 末樹の勢いに押された紺は、小さな声で言った。

「そうだよ!」

 自分の中の納まりが悪い感情を抑えつけるように、末樹は元気良く言った。

「映画、良かったか…」

 紺は繰り返すようにそう呟いた。少しだけ元気がないようだったが、末樹はそのことには気付かなかった。

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