第2話 玖馬の行きつけ

 眩しい陽の光が、開いた参考書の隅をオレンジ色に染めた。末樹は夕日に目を細めながら自習室のブラインドを下げた。

 陽の光が遮られた末樹の顔の肌が急に冷たくなったように感じる。末樹はもう一度椅子に座り、ぼーっと机の上を見つめた。

「末樹」

 自習室の扉が開くのと同時に、紺が顔を覗かせた。

「糸村、どうした?」

 末樹は首だけを動かして紺を見た。

「まだ残るのか?」

「うん。どうしようかなって」

「そっか」

 紺は末樹以外誰もいない自習室に入り、末樹の一つ隣に座った。

「糸村は?何してたんだ?」

 末樹は背もたれに思い切り倒れ込みながら身体を伸ばした。

「俺はちょっと部活に用事があって」

「あー、引退したとはいえ、まだ色々あるよね」

「お前は帰宅部だろ」

 紺はこぼれるような笑顔を見せた。

「へへへ。あんまり部活の先輩が後輩が―、とか、分からないや」

「だろうな」

「あ、でもクマがいるか」

 末樹は思い出したように嬉しそうな顔をして言った。紺は背もたれに腕を掛け、身体を末樹に向けた。

「唯一の後輩か」

「貴重だね」

「…そうだな」

「糸村、なんか元気ない?疲れてる?」

 末樹は紺の表情が少し暗いことに気づき、心配そうに見た。

「いや、平気。まぁちょっと疲れてはいるけど…」

「そっか。糸村も、あんまり無理はするなよ」

「なんだよ。お前に言われたくはないわ」

 紺は末樹をからかうように言うと、そのまま立ち上がった。

「俺は今日もう帰るわ」

  末樹は紺の動きに合わせるように紺の顔を見上げた。

「ん?俺に何か用事なかったのか?」

「なんでもないよ」

 末樹の問いかけにそう答えると、紺は手を振って自習室を後にした。

 紺が帰ってから一時間半ほど経過した頃、末樹は薄暗くなってきた外を見て帰り支度を始めた。皆予備校などに通っていることもあり、自習室は、末樹以外にあまり利用する者はいなかった。

 末樹は自習室の電気を消し、静かになった校舎を歩いた。もう部活動も終わっているところが多いようだ。末樹は、昼間とは打って変わって静寂が訪れるこの時間が好きだった。

 軽快な足取りで廊下を歩く末樹は、ある教室の前で思わず立ち止まった。二年B組。玖馬のクラスだ。

 教室の中に、机の前に座ってぼーっとしている人影が見える。少しウェーブのかかった髪の毛を、ハーフアップにしている女子生徒だ。

 末樹は電気もついていない暗がりの教室に佇むその人影に、思わず声を掛けた。

「ねぇ、もう暗くなるし、帰った方が良いよ」

 教室の扉に手をかけ、末樹は廊下からそう伝えた。末樹の声を聞いたその女子生徒は、ハッとしたように顔を上げ、末樹の方を見た。

 薄暗い中で、彼女の瞳に廊下からの光が入った。

「あ、あの、はい…」

 どもりながら彼女はそう言うと、慌てて立ち上がった。その際に、目元を拭うような仕草を見せた。

「気を付けてね」

 末樹は彼女のその仕草に不思議に思いながらもそう言った。そして数秒だけ考え、急いで帰り支度をする彼女に近づいた。

「これ」

「え?」

 末樹は自分のハンドタオルを彼女に差し出した。

「ごめん。気持ち悪いよね。でも使ってないから、良かったら」

「ありがとうございます…」

 女子生徒は驚きながらも差し出されたハンドタオルを受け取った。

「返すの面倒だよね。捨ててもいいから」

 末樹はそう言うとそのまま教室を出て行った。女子生徒は状況がよく分からないまま末樹のことをじっと見送った。その目には、まだ涙が残っていた。


 学校を出た末樹は、兄のバイト先でもあるコーヒーが自慢のカフェに立ち寄った。以前、來樹から割引券をもらったが、もうすぐ期限が切れるところだ。

 末樹は外から店の様子を少しだけ伺い、來樹がいることを確認した。

「なんだ末樹、まだこれ使ってなかったのか」

 レジでカフェオレを注文すると、ちょうど対応をしてくれた來樹が苦笑いをした。

「ごめん。なかなか…」

「いやいいんだよ」

 來樹は末樹の注文を通すと、受け渡しカウンターへ移動する末樹に優しく微笑んだ。

 來樹はあまり感情を表に出さないタイプではあるが、末樹のことを大事に想っているのは末樹も理解していた。

 物腰の柔らかな、人当たりの良い人柄の來樹は、末樹にとっても尊敬のできる大切な兄弟だった。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 カフェオレを受け取った末樹は、 少しだけ休んでいこうか、そう考えながら何気なく店内を見回した。

 すると、その途中で見覚えのある顔を見つけた気がした。

「ん?…クマ?」

 末樹は、玖馬のような人影にそっと近づいた。近寄ると、やはりその人物は玖馬だった。部活帰りのようだったが、ちゃんとシャワーを浴びて綺麗にして帰ってきているようだった。

「おい、クマ」

 末樹が何か考え込み、宙を見つめている玖馬の前に座った。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ」

 突然現れた末樹に、玖馬は悲鳴を上げた。

「ちょ、ちょっとクマ…」

「あっ、ごめんなさいぃいいぃ…」

 末樹が玖馬の予想以上の反応に慌てていると、玖馬は泣きそうな顔で謝った。

「いやいいんだけど。こっちこそ驚かせてごめん」

 末樹は思わず小声になった。

「先輩何してるんですかぁ?」

 玖馬は肩の力が抜けたように机に寄り掛かると、弱ったような顔をした。

「ちょっと寄り道だよ。クマも?」

「はいぃいぃー」

「あ、そうだクマ、ちょっと聞きたいことあるんだけどさ」

 机の上で溶けている玖馬に向かって、末樹は身を乗り出して聞いた。

「何ですか?」

 玖馬はだいぶ末樹に驚いたようだったが、ようやく落ち着きを取り戻してきた。

「クマのクラスにさ、こう、これくらいの髪の長さで髪をこうしてる女子いるよね?」

 末樹は先ほど教室にいた女子生徒の特徴を手を使って表現した。

「何人かいますよ?」

「あー、そうだよね…」

 玖馬の当然の回答に、末樹は肩を落とした。

「なんすか?なんかあったんすか?」

 玖馬は首を左右に揺らして興味深そうに聞いてきた。

「いや、まぁ、その…」

 末樹は泣いていた彼女のことを言うのは憚られると、言葉を濁した。

「怪しぃ―」

「うるさい」

「先輩から聞いてきたのにー」

「ああ、そっか…ごめん」

 末樹がばつが悪そうな顔をすると、玖馬は明るく笑った。

「いいですよ!」

 玖馬の明るい笑顔に、末樹はどこかほっとした。

「ん?クマ、コーヒーすっかり冷めてないか?」

 ふと玖馬の手元に視線を落とした末樹は、玖馬の頼んだであろうコーヒーが全然減っていないことに気づいた。

「あ、いや、俺コーヒーあんまり飲まなくて…」

「え?じゃあなんで…」

「ん?いやいやいや、猫舌で…っ!」

 末樹が眉をひそめると、玖馬は慌ててコーヒーを飲みだした。

「にがい…」

 小声でそう呟いたのを、末樹は見逃さなかった。

「クマ、コーヒー好きじゃないならなんでこの店…」

「いや、好きっすよ!コーヒー!好きです好きです!」

 玖馬は末樹の言葉を遮るように食い気味に言った。

「えぇ…?」

「本当っすよ!好きっす」

「嘘だぁ…」

「好き好き好き好き好きです!」

「コーヒーが?」

「はい」

「本当に?」

「はい!」

「好き?」

「好き!」

「…」

「…」

「じゃあ今度コーヒー買ってやるよ。学校で」

「いや、いいっす」

「好きなのに?」

「好きです!」

「本当に?」

「はい!」

「何が?」

「來樹さん!」

「ん…?」

「へ…?」

 末樹は、真っ直ぐに自分を見つめてくる玖馬を見て目を丸くした。

「あっ、えっ、俺、今なんて言った…?」

 玖馬は、少し間をおいて頭を抱えて泣きそうな声を出した。みるみるうちに、顔全体が下がっていく。

「え?…クマの好きな人って…?」

「いやいやいや、違います、違います…!そうじゃなくて…あぁ」

 玖馬は頭を抱えたまま机に突っ伏した。

「それがも…そうだって…」

 末樹は戸惑いながらも玖馬をなだめようと優しく言った。内心、動揺を隠せそうになかったが、末樹はなんとか堪えた。

「ちょ、クマ…」

 うなだれたまま顔を上げない玖馬をなんとかしようと、末樹は頭を抱え込んでいる玖馬の手をほどこうと試みた。

「クマ、大丈夫だから、ほら」

「うぅうぅうううぅうぅ」

 玖馬はうめき声をあげてそれに抵抗した。

「一番知られちゃいけない人に…俺…」

「なんだよそれ」

「ううう」

 玖馬の言葉に若干寂しさを覚えながらも、末樹は罪悪感を感じた。

「悪い、俺がしつこいから…。でもほんと、大丈夫だから」

「……俺のこと、気持ち悪いっすかね」

「なんでだよ。俺そんな器小さく見えるかよ」

 末樹の言葉に、玖馬は顔を上げた。少し泣いていたようで、目が赤くなっていた。

「先輩…」

「うん?」

 玖馬の絞り出したような声に、末樹は懸命に耳を傾けた。

「俺、來樹さんが好きなんです…」

「…うん」

 玖馬の真っ直ぐな言葉に、末樹はゆっくりと頷いた。それ以外は何も言えなかった。


 玖馬と別れ、帰宅した末樹は、珍しく日課の勉強もせずにリビングに下りてテレビを見ていた。見ているとはいっても、内容は何も頭に入ってこず、ただひたすらに酢昆布を食べながら何か音を耳に入れておきたかっただけだった。

―クマが兄貴のことを…―

 時折、玖馬との会話が頭をよぎった。

『驚かせてしまってすみませんでした』

 カフェを出た後、玖馬は頭を下げた。

『謝ることじゃないよ…俺も悪かった』

 末樹は、すっかり沈んでしまった表情の玖馬を前に、笑顔を作るよう努めた。

『でも驚いたけど…』

 当然、嘘はつきたくはなかった。嘘をつくことで玖馬の気持ちを蔑ろにはしたくはない。

『そうですよね…すみません…』

『だから謝るなって』

 消え入りそうな玖馬の声をかき消すように、末樹は玖馬の背中を叩いた。

『でもどうして兄貴なんだ?』

 うなだれる玖馬に、末樹はどうしても聞きたいことを尋ねた。

『……去年、少しだけ勉強みてもらったことがあって…』

 玖馬はぽつりぽつりと話し始めた。

『あぁ、クマが家庭教師探してるって言ってたから、兄貴が名乗り出てたな』

『はい…。部活に集中しすぎて勉強あんま出来てなかった時に、來樹さんが夏休みの間みてくれてたんですけど…それで…』

『…それでか』

 末樹は空を見上げた。すっかり夜空になった真っ暗な幕の中に、星がいくつか煌めいている。

『最初は、俺もよく分からなかったんですけど…ただの年上の人に対する憧れだと思ってて…。でも、でもやっぱり違うなって…』

 玖馬は当時のことを思い出しているかのように、苦悩の表情を見せた。玖馬のそんな苦しそうな顔を、末樹は初めて見た。どうしてか、胸が苦しくなった。

『クラスの女子とか、よく恋の話してるんですけど、それ聞いたりとか、ドラマとか映画とか見ても、なんか苦しくて……。たまに來樹さんに会うと、そんな気持ちが少し楽になるんですけど、でもやっぱり、つらいんです。でも、俺今まで同性に対してこんな気持ちになったこともないし、いや、女子に対しても、こんなのは初めてで…』

 玖馬の零れ出てくる言葉を、末樹は小さく頷きながら黙って聞いていた。

『こんな俺なりに、いろいろ考えたんですけど…やっぱり、誤魔化せないっすね』

『兄貴のこと…』

『はい。やっぱり、これは恋だって…』

 玖馬のはっきりとした言葉には、自信が宿っていた。散々葛藤して出した答えに曇りはなかった。玖馬は、自身の気持ちに確信があるのだ。少しだけ、玖馬の顔が凛々しく見えた。

 酢昆布をひたすら頬張りながら、末樹はため息をついた。

「なんだ、珍しいな」

 突然背後から、軽快な声が聞こえてきた。末樹はその声に驚き、目を丸くして勢いよく振り返った。

「あ、兄貴おかえり…」

 末樹は落としそうになったくわえている酢昆布を持ちながら、ぎこちなく言った。

「なんだどうした」

 様子のおかしい末樹を、來樹はからかうように笑った。

「ま、たまには休めよ」

 來樹は手を洗うためにリビングを出て行った。

―どうして兄貴なんだ…―

 末樹は、來樹の背中を見送りながら肩を落とした。

―俺はどうすればいいんだ…いや、どうすることもないか…でも…―

 正解のない難題に、末樹はすっかり嵌ってしまった。


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