47.シーズンオフ



リュディアは頬杖をついて外を眺めていた。窓の外に見慣れた庭はない。

王都の北方にあるエルンスト公爵領、リュディアは家族とともに避暑に来ている。領地を眺められるよう小高い丘に建つ邸からの景色は、広々と広がり人の営みと自然が柔らかなみどりを織り成していた。涼しい風が窓から入り、リュディアの緩く波打った髪を揺らす。

ふと小さな溜め息が、そよ風に紛れる。


「リュディア様、お茶などはいかがですか?」


気遣わしげにメイドのカトリンが主人へ提案した。かかった声に振り向いたリュディアが、どうするか答えあぐねている間に、別の者から挙手があった。


「ワタシはー、お菓子が食べたいですー」


メイドのペトラが着る袖の長いお仕着せからは、挙手をしても手元が見えない。ただ余った裾が折れるだけだ。


「どうして同席できる前提なのよ」


メイドのエミーリアが、ペトラに呆れたような目線を寄越して指摘した。だが、指摘を受けたペトラは間延びした声で笑うだけだ。


「お茶だけじゃ物足りないですよー」


「だから」


「ふふっ、そうね。わたくしも、少し食べようかしら」


暢気のんきな意見を言うペトラに、リュディアは可笑しげに笑みを零す。ペトラをとがめようとしたエミーリアは主人の意見を耳にして、開きかけた口を閉ざした。

リュディアが四人分の支度をするようにカトリンに頼み、ペトラがすかさずビスキュイをどこからか持ってきた。そんなペトラに呆れつつ、エミーリアはテーブルにソーサーとティーカップを並べる。

カトリンが引いた椅子にリュディアが座したのを確認して、まずペトラが着席し、紅茶を淹れ終えたカトリンが少し躊躇ためらいぎみに着席する。そして、最後まで渋っていたエミーリアがリュディアたちの視線を受け続け、折れた。エミーリアが席についたのを見て、リュディアは満足げに微笑む。

ここは王都の邸ではないため、既存のメイドが充分におり事足りている状態だ。リュディアに追従してきた彼女たちの仕事は普段に比べると少ないため、いくらかの余裕があった。そのため、リュディアはこちらの邸にいる間だけ、と我儘を聞いてもらっている。それが、この主人と同席する、というものだ。


「おいしーのですー」


「食べすぎたら駄目よ」


「イェルクさんがいたら一番食べそうですよね」


「イェルクはどうしているのかしらね」


「どうせ彼の兄たちに挑んで完膚なきまでにやられていますよ」


エミーリアは見透かしたようにイェルクの現状を口にした。騎士を輩出するイェルクのコルヴィッツ伯爵家と軍人一家なエミーリアのペヒシュタイン侯爵家は訓練などの目的で家同士の付き合いがあり、リュディアの護衛に付く前から二人は元々顔見知りだったらしい。

領地に避暑に向かう際、カトリンや護衛の三人にそれぞれの家に帰省してはどうか、とリュディアは声をかけた。だが、カトリンはエルンスト家が帰る場所だ、とがんとして譲らなかった。家庭の事情により帰らないカトリンの意見に呼応するように、護衛の三人も帰省を拒否しようとしたのだ。

主人を護衛するために離れる訳にはいかない、とごねる護衛の三人に対して、リュディアは最低一週間は家族と過ごすよう厳命した。そうして、シーズンオフの間も基本リュディアの護衛に付く代わりに、一人ずつ順番に一週間ほどの休暇を取っている。今はイェルクが家族のもとに帰る番だ。


「まぁ、イェルクは大丈夫かしら」


「リュディア様が、あの馬鹿を心配される必要はありません」


「エミーリアったら、そんな言い方をしてはいけないわ」


注意しながらも、意気揚々と兄との稽古に挑むイェルクが想像できてしまい、リュディアは小さく喉を鳴らした。そんな主人を見て、カトリンは安堵の笑みを浮かべる。


「気が紛れたようで何よりです」


「あ……」


どうやら溜め息をいたことに気付かれていたらしい。カトリンたちを心配させてしまった事実に、リュディアは眉を下げる。


「気を遣わせて、ごめんなさい……」


「いいえ」


「ワタシはーお菓子が食べたかっただけなのですー」


言ったそばからビスキュイを栗鼠りすのように食べ出すペトラを見て、リュディアは眼を丸くする。気遣ってのことなのか、本心なのか判別がつかない。そんなペトラの美味しそうに食べる様子が微笑ましくも、可笑しくもあった。


「ありがとう」


リュディアは三人を順に見て、ふわりと感謝を込めて微笑んだ。


「理由をお伺いしても……?」


エミーリアが単刀直入に問うた。主人が僅かでも気落ちする様子を見過ごせない彼女の実直さを、リュディアは微笑ましく感じた。

リュディアは少し悩んだが、何も言わず彼女たちに心配だけをかけたままではよくないと思い、溜め息の理由を打ち明けることにする。


「……ザクと少し、ね」


庭師見習いの少年の名があがり、自分が知らないということは他の者が護衛に付いたときのことだろう、とエミーリアはペトラに視線を投げた。


「あー、ライバルって言われたことですー?」


ビスキュイを手に、ペトラは事も無げに言った。自身が直接口にできなかった単語を耳にして、リュディアは小さく唸るようにして胸を押さえた。その反応を見て、エミーリアはペトラを睨み付ける。


「どうして即座に黙らせなかったのよ」


「居合わせたのはー、ワタシじゃないですー。それに、武力行使はワタシの分野じゃないですよー」


自身が護衛していたときのことではない、とペトラは主張する。なら、どうしてイェルクが護衛していた際の様子を彼女が把握しているのか、とエミーリアは思ったが、彼女の担当分野を思い出し、それ以上言及するのを止めた。


「あの馬鹿、使えないわね」


エミーリアは、その場に自身が居合わせなかったことを悔やんだ。イェルクは女性の心の機微に疎い。判りやすい侮蔑の言葉でなければ感知できないところがある。そのため、皮肉めいた隠喩いんゆは内容ではなく直感で判断している。口喧嘩をしても語彙ごいが少ないので、幼い頃からエミーリアが毎回勝っていた。

そんな彼であるから、庭師見習いの少年が他意なく発した見当違いの言葉を主人がどう感じるかまでは、考えが及ばなかったのだろう。


「イザークさんは、言葉選びが独特ですから……」


カトリンが苦笑しつつ、主人を慰める言葉をかける。彼女の言葉を受け、リュディアはしゅん、と眉を下げた。


「……言われたときは、思い至りませんでしたわ」


リュディアも、後になって彼が違う意味であの単語をもちいたのではないか、と疑念が湧いた。彼が悪意を持って言葉を口にするところを見たことがない。確かに口は良くないが、彼がそれに近い言葉を口にするのは、リュディアの知る限り指摘するときだけだ。

あのときの言葉は、指摘するでもなくかれたので、とても驚いた。敵を意味する単語を、当たり前のように自分に当てめられて、ショックだった。庭師見習いの少年に敵視されていたのかと思うと、頭が真っ白になった。

そもそも、庭師見習いの少年が領地に帰る間会えないことを何とも思っていない様子なことに、苛立った弾みで訊いた質問の返答がそれだった。だから、余計に衝撃を受けた。彼とはカトリンの次に長い付き合いなのだ。なのに、平気なうえ、敵扱いはないではないか。そのときは、ついそう捉えてしまった。

そして、落ち着いて考えられるようになり彼に真意を確認しようと思ったときには、リュディアはもう領地に着いていた。

訊けず仕舞いになってしまったせいで確認がとれず、違うという考えと、もしかしたら、という不安とが胸中でせめぎあっていた。


「わたくしも言いすぎてしまいましたし……」


頭に血が上り、それ以上の言葉を拒絶する発言をして彼の話も聞かずに去ってしまった。


「ザクに、嫌われてしまったのではないかしら」


庭師見習いの少年は長期間会えない事実を聞いても平気そうだった。自分は、彼にとっては会えなくとも支障のない存在なのだ。そんな相手が一方的に癇癪かんしゃくを起こしたら、付き合いが長くとも流石の彼も愛想を尽かすのではないだろうか。自身の行動をかえりみると、彼の真意を確認できないゆえに、リュディアは後ろ向きな予想しか浮かばなかった。


「そんなこと……っ」


「リュディア様」


エミーリアがテーブルに手を突いて腰を浮かせたとほぼ同時に、カトリンが静かに主人の名を呼んだ。リュディアは不安に揺れる瞳のまま、彼女の方に向いた。カトリンは柔らかく微笑むと、一度席を立ち小さな宝石箱を持ちリュディアの前まで戻る。

ネックレスが一つ入る程度の小さな宝石箱をカトリンは開けて見せる。そこには白いミニバラのチャームが付いた青いリボンが収められていた。


「イザークさんがそんな方ではないと一番知ってらっしゃるのは、リュディア様でしょう?」


ね、とカトリンが微笑んで主人の眼を見つめる。その翡翠ひすいの瞳を見返してから、リュディアは白い花の咲くリボンに眼を落とす。

庭師見習いの少年からは色んなものをもらってきたが、これは彼が初めて形に残るものでリュディアにくれた贈り物だ。お守りとしてもらったこれだけは、領地にも一緒に持ってきていた。四葉の絨毯じゅうたんや消えてしまう虹、溶けてしまう雪兎など、彼がくれるものは手元に残しにくいものの方が格段に多い。だから、傍にいれない代わりに、と彼が渡してくれたこのリボンは本当に大事なお守りになった。

しばらくリボンを見つめていたリュディアは、意を決したように自身の髪を飾っていたリボンをほどいた。


「カトリン、それを付けてくれるかしら?」


「はい」


主人の命に、カトリンは表情を綻ばせ、空席になったリュディアの後ろの髪留めの場所を青いリボンにえた。リュディアの髪に小さな白いミニバラが咲いた。

それを確認して、リュディアは決然と言った。


「ザクに会うまで、もう勝手な悲観はしませんわ」


独りよがりに不安がって、カトリンたちに心配をかけるなど不本意だ。謝罪をしようにも、王都の邸に帰るまで彼に会えないのだ。保留になっている事案にいつまでも固執する訳にもいかない。再会するまでは、これまで彼からもらった気持ちを信じて、不安を拭い去ろう。

リュディアの決意を聞き、カトリンはよくできました、とでも言うように微笑んだ。エミーリアはほっと安堵の表情を見せ、ペトラはなんだか満足そうだ。


「ありがとう」


三人の顔を見て、リュディアは改めて感謝を述べたのだった。



お茶の片付けが終わった頃、リュディアの部屋を訪ねる者がいた。


「おや」


エミーリアに通されたその人物は、リュディアの顔を見て意外そうな声を零した。


「どうされたんですか、お祖父じい様?」


「いや、私の孫は本当に天使ではないかと我が眼を疑ってしまっただけだよ」


リュディアが問うと、祖父のオスヴィンはゆったりと微笑んでそう返した。こういった切り返しは、父のジェラルドと血縁でしかないとリュディアは感じる。濃い金髪のオスヴィンは外見もよく父に似ている、きっと父が歳を重ねればこのような姿になるのだろうと思われた。


「ディア、乗馬には興味ないかい?」


「乗馬、ですか?」


「ジスカが最近付き合ってくれなくてね」


祖母のフランツィスカがつれなくて寂しい、と肩を竦めてみせる祖父に、リュディアは小さく笑う。


「お祖父様が元気すぎるのですわ」


オスヴィンは四十半ばを過ぎている、妻のフランツィスカも近い歳だ。だが、彼の言う乗馬はある程度の速度のあるもので、妻に断られるということは、散歩のようなゆっくりとした速度では済まないことだろう。馬車ならともかく、相乗りとはいえ乗馬は落ち着きのある歳の女性には辛い。


「愛馬が走りたがっているんだよ。ディアも嫌かい?」


「仕方ありませんわね。お祖母ばあ様に代わって、付き合って差し上げますわ」


「ありがとう、小さなお姫様」


乗馬は王都ではできなかった体験だ。リュディアも少なからず興味があった。けれど、敢えて渋々といった様子で了承してみせる。妻の肩を持ちつつ自分に付き合ってくれる孫の手を取り、オスヴィンは感謝のキスを落とした。

リュディアの了承を得たオスヴィンは、既に支度はできている、と玄関までエスコートをした。もちろんリュディアが外出する準備を整えるのを待ってくれた。リュディアは陽射しから守るためつばの広い帽子を被り、乗馬向きのパニエを使わないプリーツスカートのドレスに着替えた。帽子は飛ばないように顎の下でリボンで留められるものだ。

玄関を出ると既にくらの装備された青毛あおげの馬が待っていた。腹も含め全身が黒い毛並みで、夏の青空が広がる景色の中で輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。


「綺麗なコですね。名前はなんと言いますの?」


「彼女はカテリーナだ」


「初めまして、カテリーナ。今日はよろしくお願いしますわ」


リュディアが祖父から教えてもらった名を呼び、カテリーナの鼻先に手をかざすと、彼女はじっとリュディアを見つめたあと、そっとてのひらに触れるように顔を近付けた。それを確認して、リュディアはそのまま鼻筋を何往復か撫でた。


「可愛らしいですね」


「ディアに美人と褒められて嬉しかったようだ」


オスヴィンはカテリーナの気持ちを代弁してくれた。身体は大きいがとても優しい眼をしたカテリーナが気を許してくれて、リュディアも嬉しかった。そして、最初に挨拶をしたことをオスヴィンに褒められた。乗馬は馬と信頼関係を築くのが肝心なので、知らずに馬に敬意を払えるのはとてもよいことだと言われ、リュディアはなんだかくすぐったい心地がした。

まずオスヴィンがカテリーナのくらまたがり、祖父の手を借り、リュディアが横向きになる形で座る。

急に高くなった視界に心許こころもとなさを感じ、リュディアは祖父の服を掴んだ。そんな孫の様子に、オスヴィンは小さく笑う。


「さて、行こうか。しっかり掴まってなさい」


リュディアが首肯し、両手で自分の服を掴んだのを確認して、オスヴィンはカテリーナの腹を蹴った。

こつこつとひづめの音がするたびに振動を感じ、リュディアは落ちないように祖父の服を掴む力を強めた。


「ディア、顔をあげなさい」


バランスばかりを気にしてカテリーナの頭と下しか見ていない孫に、オスヴィンはしばらくすれば慣れるから、と景色を見るように促した。リュディアが怖々と顔をあげると、邸のある丘の下に田園地帯の中に家がぽつぽつと広がっていた。


「わぁ」


建物の多い王都に暮らしているリュディアには、視界がここまで広く緑が多い光景が新鮮だった。妹のフローラが生まれる前にも来たことがあるらしいが、幼くてあまり記憶がない。青空が境界の山脈まで広がってとても清々しい。感じる風が爽やかに感じるのは、王都より北に位置するだけではなくこの景色のためだろう。


「この領地は素敵だろう」


「はい、とっても!」


誇らしげな祖父の言葉に、リュディアは肯定した。孫の素直な感想に、オスヴィンは満足げに微笑み、包むように一方の手でリュディアの腰を支えた。


「では、もっといい場所を見せてあげよう。しばらく口を閉じていなさい」


「え……」


言うなりオスヴィンはカテリーナの腹を蹴り、速度を上げた。ぐんと引力を感じて、リュディアは祖父の胸に頭をぶつけてしまう。指示されたから、というよりは驚いてリュディアは黙るしかなかった。

速度の乗ったカテリーナの上は、祖父の支えがなければリュディアの力では簡単に落ちてしまいそうに感じた。そして、口を開けば振動で舌を噛んでしまうだろうことが解った。増した速度の分、少し強くなった風の中、笑い声がして見上げると祖父が楽しそうに笑っていた。

その無邪気な少年のような笑顔に、リュディアの速度への恐怖心が薄れる。祖父の視線の先を追って、前方の遠くの方を見ると風とともに景色が駆け抜けていった。眼に映る風景が次々と変わり、水彩のように輪郭が溶けてゆく光景の不思議さにリュディアの胸はおどった。

高揚感を感じる乗馬は気付けば終わり、目的地へと着いていた。オスヴィンのつれてきた場所は草原だった。まだどきどきとする胸をリュディアは押さえる。草原を過ぎるそよ風が、落ち着かせるようにリュディアの頬を撫でてゆく。


「どうだった?」


「最初は怖かったですけど、楽しかったですわっ」


感想を訊くと、瞳を輝かせる孫の顔があり、オスヴィンは嬉しげに眼を細めた。


「素直でよろしい。ここは私のお気に入りの場所だから、ディアにも見せられてよかったよ」


リュディアはカテリーナに乗ったままの状態で、草原を見渡す。花が咲くでもなくただ草の緑と空の青の二色だけの世界がそこにあった。さわさわ、と風で草が鳴る音だけが耳に届く。

それだけの光景が、心の中が空っぽになるような清々しい気持ちになる。祖父が気に入っている理由がリュディアにも解るような気がした。言葉もなく、ただ風を感じて広がる光景を眼に映す。


「昔から、嫌なことがあったときにはここに来た」


おもむろにオスヴィンが呟いた。その呟きに見上げると、どうでもよくなるだろう、と訊かれリュディアは頷いた。この草原の中にいると鬱屈うっくつした心地であっても吹き飛ばしてくれそうだ。


「もう、ディアには必要なかったようだがね」


微笑む祖父の言葉に、リュディアは眼を丸くする。

少しの思案のあと、祖父が自分が気落ちしていたことに気付いていたのだと理解した。カトリンたちだけではなく、家族にまで心配をかけていたとは。リュディアは思ったより自身の思案に囚われていた事実を反省し、祖父へ微笑み返した。


「ここに来られてよかったですわ」


またつれてきてほしい、とリュディアが本心から伝えると、オスヴィンは喜んで、と頷いた。

邸に戻ると、父のジェラルドが二人きりで出かけたことに嫉妬し、次はどちらがリュディアと出かけるか祖父と言い争ったのだった。結局、祖母のフランツィスカと母のオクタヴィアの取りなしで、今度全員でピクニックに行くことが決まった。

こうして家族との予定が積み重なってリュディアの夏は過ぎていった。



気付けば、気候が落ち着き王都へ戻る時分になった。

馬車に揺られ、少しずつ邸へ近付く中、徐々にリュディアの表情が切迫したものに変わってゆく。


「おねーさま、よった?」


膝の上で固く拳を作る姉を心配して、フローラがそこに手を重ね、見上げた。馬車酔いをしてしまったのではないか、と姉の顔色を窺う。

妹を視界に入れて、リュディアはふっと吐息を吐くように微笑んだ。


「フローラ……、大丈夫ですわ」


表情の固さが完全にはとれていないのを見てとったフローラは、姉のリュディアに抱き着いた。


「ろーらげんき。だから、わけたげるっ」


「ありがとう」


自分の元気を分け与えようとする妹の優しさに、リュディアは今度こそ表情を和らげ、妹を抱き返した。

しかし、フローラを抱きながらも、リュディアの思考は解決の糸口を求め、巡っていた。

次に庭師見習いの少年に会うときまでは憂いを払うと決めていたが、彼に会ったときにどうやって謝るかを考えていなかった。そして、あの言葉の真意を確認もしなければならない。カトリンたちに励ましてもらい彼の人柄を信じてはいるものの、自身の過失が会わない間に彼の中の評価に影響してやいないだろうか。一方的に怒鳴りつけて去ってしまったことが最後である事実が悔やまれる。

謝ったときに許してもらえるだろうか。もたげた不安が、真意を質すことへの恐怖を呼ぶ。

庭師見習いの少年にどんな表情をされるか、それが一番怖かった。

どくり、と心臓が嫌な音で脈打った。

この感覚をリュディアは知っていた。不安で瞳を揺らし、リュディアは向かいに座る父を見た。ジェラルドは花が香るように甘やかに愛娘へ微笑みかけた。


「ん? そんな顔をして、どうしたんだい?」


「お父様に……謝りにいった朝を、思い出しましたわ」


そうだ。あのときも恐怖で脈打つ心臓が痛んだ。

多忙な父とほとんど最低限の会話しかできず、前日に最低な自分を見せたばかりで、謝罪をしても父から冷たい眼で見られるのではないかと足が竦んだ。

あのとき、勇気を出せたのは彼が大丈夫だと保証してくれたからだ。では、彼相手に勇気が出ないときはどうすればいいのだろう。


「わたくし……」


「ディア」


ジェラルドの声に、弱り切った眼をしたリュディアが父を見返す。その愛娘に手を伸ばし、ジェラルドは頬を撫でた。


「私の愛しいディア。私はディアを愛しているよ。勿論、ヴィアもフローラも、ディアのことが大好きだ」


父の言葉通り、腕の中には妹のフローラの温もりがある。父の隣を見れば、母が慈愛に満ちた笑みを向けてくれる。頬に触れる父の手はとても優しい。


「だから、大丈夫。この邸にディアを嫌う者などいないよ」


愛されている、という保証を言葉と言わず、態度と言わず、全てで父が与えてくれた。愛情に包まれている状態に、泣きたくなるのは何故だろう。リュディアは涙が込み上げそうになるのを堪え、父の言葉に頷いた。不安に打ち勝つだけの勇気をもらった。

そうして、エルンスト邸の正面玄関に馬車が到着した。

父の手を借りて馬車を下りようとしていたリュディアに、予期しない声がかかる。


「お嬢っ」


このタイミングで聞くと思っていなかった声に驚き、リュディアの心音が跳ねた。

心の準備ができていないのに、庭師見習いの少年が出迎えに現れた。彼は、ジェラルドたちと挨拶を交わし、自分と話したいと申し出た。会わせる顔がなくて、申し出を聞いた瞬間思わず俯いてしまう。

そのまま顔をあげられずにいるリュディアに父の声がかかる。


「ディア、どうする?」


声に促されて顔をあげると、自分と同じ色の瞳とかち合った。


「わたくし、は……」


「イザークに、言いたいことがあるんだろう」


いつからかは判らないが、父に気付かれていたのだとリュディアは知る。父にもらった勇気を思い出し、リュディアは覚悟を決めて頷いた。その覚悟を称えるように、ジェラルドは愛娘の髪を撫でた。

玄関先に庭師見習いの少年と二人で残され、沈黙が落ちる。玄関の扉が閉まる音が大きく聞こえたのは、そのせいだろう。

どうやって謝ろうかと悩み、リュディアが引き結んだ口を解くタイミングを逃している間に、庭師見習いの少年が先に口を切った。


「お嬢、こないだはごめん!」


「……っ」


何故、彼が謝るのか。謝るのは自分の方だ。

なのに、自分が謝ろうと言葉を探るうちに彼は自身の気持ちを隠さず伝えてくる。うまく言葉を紡げない自分と違い、狡くないだろうか。

彼は自身の言葉選びが誤りだったと気付いた、と詫びてきた。あの言葉の真意を説明したいと言うので、自身の謝罪が済んでいないと思いつつもリュディアは知りたかったので了承した。

彼からどんな言葉が飛び出すのか、リュディアは固唾かたずを飲んで待った。


「お嬢が綺麗だから」


「え……」


予想外すぎる言葉にリュディアは呆気にとられる。そんなリュディアの様子に気付かず、庭師見習いの少年はなおも言葉を紡ぐ。聞いているこちらが恥ずかしくなるような美辞麗句の羅列を、冗談でなく本気で言っていることに唖然としてしまう。


「そんなお嬢をすげぇって思う反面、俺も一人前になれるよう頑張らないとって思うんだ。俺が一方的に負けてられないって思ってるだけだけど、そういうのライバルって言う以外に何て言うのか……」


「な……、な……っ」


彼の言うライバルの意味を知り、理解したリュディアはじわじわとせりあがってくる羞恥に戦慄わなないた。


「お嬢は何て言うか知ってるか?」


何故そのような意味で紛らわしい表現を使うのだ。そして、何故名前を付けるのを自分に一任するのか。そんなもの解る訳がない。だから、そんな弱り切った眼で見ないでほしい。


「しっ、知りま……」


反射的に別れ際と同じ科白セリフを吐こうとしてしまい、リュディアはどうにか踏みとどまる。危うく、また同じてつを踏んでしまうところだった。

謝罪をする機会を逸してしまい、どうやって話の流れを持っていくかリュディアは葛藤する。彼のせいで頬が熱く、思考がうまくまとまらないあまり唸ってしまった。

悩み抜いた末、リュディアは意を決して訊ねた。


「~~っザクは、わ、わたくしがいなくてどうでしたの……?」


「へ?」


「その……寂しい、とか……」


領地にいる間、祖父母含む家族と過ごせ、カトリンたちとも普段より気安い付き合いができ、楽しい日々を送った。けれど、ふと庭師見習いの少年もこの場にいたらいいのにと思うこともあった。お菓子が美味しかったとき、綺麗な花を見つけたとき、そんな些細な瞬間に彼がいないことが物足りなく感じた。

そのことを思うと一ヶ月以上も会えなかったのは長かった。だから、彼も少しぐらいは物足りなく感じたりはしなかったのだろうか。


「いや、全然」


淡い期待を即座に否定され、リュディアは言葉を失った。


「だって、お嬢のことよく考えてたし」


「な……!?」


「折角の家族水入らずだから楽しんでいるといいなぁとか、香水草こうすいそう花滑はなすべりひゆがお嬢が戻るまで咲いていたらいいなぁとか。あと、お嬢いないと休憩もちゃんと取れなくて反省した」


だが、それ以上に強烈な発言をされ、リュディアは動揺する。彼は何を言っているのか解っているのだろうか。物足りなさを覚えないほどに自分を思い出していた、なんて恥ずかしすぎる。いない間、少しぐらい自分を思い出してくれていたらそれでよかったというのに。多すぎる。

彼はどうしたのか、と首を傾げる。彼から更に何かを言われては堪らない、とリュディアは後ずさる。が、彼は平然として自分だけが動揺している状況に腹立たしくなり、庭師見習いの少年を睨みつける。

自分ばかりが動揺させられるのは不公平だと不服を訴えようとして、リュディアははっとなる。彼の突飛な発言のせいで話が逸れたが、謝罪をする機会を作るために話題を振ったのだと思い出す。このままでは一向に謝罪を切り出せないことに気付き、リュディアは叱責したくなる衝動をぐっと堪えた。

深呼吸をして自身を落ち着け、一度唇を噛んだあと口を開く。顔を見れず、眼を伏せたまま。


「……ザク」


「何だ?」


「そ、の……、別れ際に言ったことですけど」


「うん」


「ザクの話を最後まで聞かずに……わたくしも、言い過ぎ、ましたわ……、だからっ」


緊張が極まって心臓が煩いが、カトリンたちに励まされたことや、父たちに勇気をもらったことを思い出し、恐怖を押しやった。そして、自身を奮い立たせて伝えたかった言葉を口にする。


「ごめんなさい」


「いいよ。俺もごめんな」


あっさりと彼は笑った。

その笑顔を見て、こんなに簡単なことだったのかと気が抜けた。

庭師見習いの少年はいつも通りだった。だから、一ヶ月以上会わなかったのが嘘のように、リュディアもいつものように気になった点を指摘して訂正を求めた。なのに、彼は可笑しげに笑い、リュディアはまた叱責しそうになる。


「おかえり、お嬢」


彼から言われるのは初めてだ。帰ってきたのだと実感するのと同時に、些かこそばゆい心地がした。


「ただいま」


気恥しさを感じつつ答えると、庭師見習いの少年が晴れやかに笑った。祖父と見た草原と空を思い出す笑顔だった。

和解を得たところで、リュディアは邸に入ろうと玄関の扉に向かう。庭師見習いの少年は、他に使用人がいないので代わりに扉を開ける役目を買って出る。

扉の取っ手に手をかけたとき、庭師見習いの少年は何かに気付いたようにふと動きを止めた。


「ザク?」


リュディアが首を傾げると、庭師見習いの少年は思案しながら口を開く。


「さっきの、だけど……」


「どれのことですの」


「俺さ、会えなくなるって言われても、お嬢がいないの想像できなくって」


会えない実感が湧かなかったのだと説明され、思慮が足りないことがある彼ならそんな鈍感さにも納得がゆく。


「帰ってくるの知ってたから会いたいとは思わなかったけど、お嬢のコトはよく考えてた気がする。これも寂しかったってコトか?」


「わ……っ、わたくしに聞かないで!!」


蒸し返されたくない話題を持ち出されて、リュディアは下がっていた頬の熱がぶり返した。あまつさえ、彼はまた自身の解らないことをリュディアに訊ねてくる。定義付けを他人任せにするのはやめてほしい。

以後、彼自身の解らない答えを自分に求めないよう、リュディアは庭師見習いの少年に固く約束させた。


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