第165話 「人体実験①」

 12月8日。今日は昼から、瘴気を魔法でどうにかこうにかするための実験を行う予定が入っている。

 午前中はいつもどおり巡視して、小規模な魔獣の群れをいくつか掃討した。ここの空気にもなれてきたものの、昼からの実験を思ったせいか、少し身の動きが固くなっている自覚があった。

 戻ってからの食事も微妙に進みが遅かった。味もなんだか、薄ぼんやりとしか感じられない。同じ班の魔法庁・工廠の子は、そんな俺の心情をなんとなく察してくれたのか、視線が合うと安らぎを覚えるような笑みを返してくれた。それにつられるように他の皆も妙に優しくしてくれたのが、朝から俺に覆いかぶさっていた得体のしれない重さを、いくらか跳ね飛ばしてくれたように思う。

 俺はあえて音を出すように、例のエナジーバーを貪り食った。そして食事が済むと、俺達は所用があるということで班を抜け、実験場へ向かった。

 実験場は本営から盆地の内側へ少し歩いた所にあった。テントというか、モンゴルの遊牧民が使うゲルみたいな立派な天幕がこしらえてある。気持ち大股気味に中に入り込むと、既に何人か実験参加者がいた。

 実験に参加するのは、昨日の会議で最後まで残っていた、つまり殿下の考えを知るメンバー。それに被験者として、冒険者とここの監視兵の方から数名ずつ。すでにいる被験者は皆さん揃いも揃って体格がよく、その中にはハリーもいた。互いに軽く手を挙げて挨拶を交わす。

 そして実験場の中には、当然瘴気がある。それも、周辺よりハッキリと濃く見える、溜まりのようなものが。兵の方に聞くと、周辺よりは濃いもののそこまで危険じゃないそうだ。立ち止まって長居すると気分を悪くしたり具合が悪くなったりということはあるものの、そういった症状が出てから場を離れても後遺症にはならないらしい。


 それにしても……天幕の生地は白く、その中には赤紫の瘴気が立ち込めている。その背景の白と、赤紫の空気が混ざり合って、視界が一面怪しげな桃色に見える。なんだかいかがわしい空間だなと思ってしまったけど、ピンクをイヤらしい色と連想をするのは俺だけのようで、みんな少し不安げにしている。たぶん、文化の違いなんだろう。そんな感じで、1人で変なことを考えていたわけだけど、それまでの緊張がいい感じでほぐれてくれたのは確かで、そのことはラッキーだと思うことにした。


 それからもポツポツ参加者が入ってきてメンバーが揃い始め、最後に殿下が来られて全員集合となった。

 揃ったところで、まずは殿下が皆に向かって実験への参加を労われた。それから実験の説明に入る。

 最初に行うのは、素の状態で瘴気の中に入り込み、被験者に感覚を掴んでもらうことだ。つまり、いきなり人体実験に入る。現代人の感覚では、少し野蛮に感じないこともないけど、マナの色による影響の差異を調べる目的もあるので、そのへんの動物を使うってわけにもいかない。そもそも、野生動物はこんな盆地には近づかないから、調達の面倒もある。

 続いて、何かしらの対応策を取った上でまた瘴気の中に入り込み、その対応策の効果の程を判定するという実験を行う。そのため、先に行う実験は対照実験みたいなものになるようだ。抵抗力が付くんじゃないかと思ったけど、兵の方に言わせればそういう実例はないらしい。

 そして、何かしら良い方策が見つかれば、繰り返し実験して更にデータを集めたり、何か気づいた点があれば改善したりして、瘴気への対処法として洗練させていく……そういう流れだ。

 ちなみに、工廠の職員も実験には参加しているけど、今回の実験の主担当は魔法庁で、工廠は一種のアドバイザーという扱いだ。例えば、既存の魔道具で何か瘴気に対応できそうなものがあれば言及したり、あるいは彼らが知っている魔法で有望そうなものがあれば提言したり……その程度の役目ということになっている。不用意に期待させないようにしたいということで、あえて工廠を控えめな役回りにとどめているわけだ。


 実験についての説明が終わり、さっそく瘴気の中へ……とはならず、被験者となった兵の方の1人が声を上げた。


「殿下、実際に入ってから瘴気の効果が出るまで、いくらか時間がかかるものと思われますが……」

「それはそうか……どうしたものかな」


 時間がかかる実験というのは、できれば避けたい。というのも、時間がかかれば対処法による効果がわかりづらい可能性があるし、実験回数を重ねるのも難しい。それに、天幕の外で何かが起こった際に実験を切り上げねばならない可能性もある。そういった予期せぬ出来事のことも考えれば、わかりやすくてパッと終わる実験の方が好ましい。

 問いに少し考え込まれた後、殿下は珍しく歯切れの悪い話し方をなされた。


「あー……瘴気の中で腕立て伏せをする、というのはどうだろう?」

「う、腕立てですか?」

「回数を数えれば、瘴気の影響もわかりやすいだろうとは思うけど……どうかな?」


 国のてっぺんの方に立たれる方にしては、かなり及び腰になって話されている。そんな殿下の提言に対し、話していた方は一瞬静かにした後大爆笑した。ハリーも口は閉じていたけど笑っている。

「大変、興味深い試みかと思われます。やりましょう!」と代表の方が言い放ち、それに被験者一同がうなずいて肯定した。


「ありがとう……しかし、臣民に瘴気の中で腕立て伏せをさせるなんて、私はとんでもない暗君だね」

「後の世の史書に残りますな!」

「試みがうまく行けば名君ですよ!」

「そうなることを、心の底から祈るよ……一応、みなに正当な手当をつけるように言っておくから」


 殿下がそう宣言されると、みなさん口笛を吹くなりガッツポーズをするなりして、喜びをあらわにした。

 そして、みなさんが少し陽気に構えつつ、瘴気の中に入り込んでいく。それまで薄い赤紫の空気の中にいた彼らが濃い瘴気の中に入るなり、その輪郭がおぼろげになると、一瞬肝が冷える思いがした。

 被験者がそれぞれ配置に付き地に手を付けたところで、腕立て伏せが始まった。殿下の声に合わせて一回ずつ、腕を曲げて伸ばしての例の動作を繰り返していく。しかし強く違和感を覚えたのは、やっている彼らの顔だ。殿下のカウントが2桁に届かない内から、被験者の数名は苦悶の表情を浮かべている。

「絶対に、無理しないように」と殿下が大きめの声で仰ると、許しを得たとばかりに1人が地に突っ伏して手を挙げた。すかさずお嬢様が駆け寄って彼の身を起こし、肩を貸して瘴気の外に彼を救い出す。

 責任を感じておられるのか、「大丈夫かい?」とやや深刻そうな面持ちで問われた殿下に、救助された彼は少し恥ずかしそうな表情で答えた。


「体力には、自信が、ありましたが……やはり、辛いですね」


 かなり途切れ途切れに答える彼は、具合が悪くなったというよりは消耗をしているといった感じだ。そんな彼に、「よく休んで」と殿下は優しくお声を掛けられた。

 それから、まだまだ健在の被験者に向き直った殿下は、かなり心配そうな表情で「まだいけるかな?」と問われた。すると、苦しそうな表情をしている方も、何かに耐えるように無表情を崩さない方も、みんなうなずくなり片手で軽くガッツポーズするなりして、我慢比べを続ける意思表示をした。

 そんな頼もしい男たちだったけど、やっぱり瘴気の中での有酸素運動というのは本当にキツイようだ。最初の1人が契機になって、それからもポロポロと脱落者が相次いだ。

 心配なのは症状だけど、深刻な不調を訴える方はいなかった。彼らが共通して訴えたのは息苦しさだ。深く息を吸い込もうとしても浅い呼吸になってしまったり、体が呼吸を拒むかのような感覚があったり。そんな状態が続いて、腕に思うように力が入らなかったという。

 そうやって軽い聞き取りをしていると、殿下のカウントが30を超えた。残っているのは、兵の方でもひときわ体格の良い方とハリーの2人だ。殿下は、もう十分と判断されたのか2人に向けて拍手をし、そのタフネスを賞賛した。そのお褒めの言葉を受け、残った2人はかなり疲労感のにじむ表情を互いに見合わせた後、苦笑みたいな笑顔をしつつ固く握手しながら瘴気の外へ出てきた。


 最初の実験が終わって、次の介入ありの実験に向け、みなさんの疲れが取れるまで休憩することになった。しかし、何もせずに休憩するというのは、少し時間がもったいない。

 そこで、瘴気への対処法の案その1ということで、俺の打ち消しを実演する運びになった。魔法庁のみなさんの監視下なので、さすがに適当な文を合わせるわけだけど。

「他にも、実験に先立って言及したいことがあれば、是非頼むよ」と仰る殿下の表情は、少し楽しげだった。そんな殿下の態度につられてか、他の兵の方々も興味ありげに俺の方へ視線を向けている。そして馴染みの冒険者の連中は、ヘトヘトになりながらも口笛を吹いたり、教授だの博士だの呼んだりして囃してきた。

 言い出しっぺ、発案者の宿命だと自分に言い聞かせつつ、皆さんの前に立つ。人数はぜんぜん違うけど、勉強会のことを思い出した。人数こそ少ないけど、感じるプレッシャーにあまり違いがないのは、やっぱり殿下がおられるからだろうか。

 一度、気分を落ち着けるため、目を閉じて深く息を吐きだした。後で講義料でも請求しようかな、なんて思いながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る