第141話 「温泉の上ですっ転んで」

 ちょっとした軽いブーイングが収まると、温泉を前にした俺達の間には、「あんなのできるかよ」といった戸惑いと「もしかしたらやれるかも」みたいな期待感が入り混じった、気もそぞろな空気ができあがった。

 シエラは、ちょっとだけ困ったような表情を浮かべて、こちらを見ている。

「難しいかなって思うけど、空を飛ぶのって思う以上に危険だからね」と言うあたり、ハードルを下げるつもりはあまりないようだ。「とりあえず、やってみない?」と彼女が続けたのを皮切りに、みんな上着を脱ぎ始め、脱いだ服を木の枝に掛けていく。さすがに寒くて、みんな腕を胸の前で組んでは少し体を縮めている。

 あまりジロジロ見ちゃ悪いと思いつつ、視界に女の子がいるとちょっと追ってしまう自分がいた。水着はセパレートタイプのものとワンピース系のもので半々ぐらいだ。ビキニぐらいので露出させてる子はほとんどいなくて、体のラインが出る感じの水着が少ないのには、何故か安心した。

 周りの男子連中の半分ぐらいは案外遠慮なしに女の子の方を見てて、口笛を吹くような奴までいる。海水浴だったらああいうのがむしろ普通の反応なんだろうけど、残り半分の少し遠慮がちというか戸惑いがちな連中は、俺みたいに研修中という名目が頭の中に引っかかっている感じだ。


 湯に入る準備ができたところで、あらためてシエラが模範演技を行う。温泉の上を、ただスタスタ歩いているだけなんだけど、不自然な現象を自然な行為のように見せていられているだけだ。

 歩きながら彼女は、「下手すると水面で転びかねないから、浅いところでは水底で体を打たないように気をつけて」と忠告した。

 そしていよいよこちらが実践する番に。一番手に、お調子者が1人手を挙げてから意気揚々と空歩エアロステップで水面のちょっと上を歩き始めた。そこから徐々に高度を下げて水面ピッタリで空歩を再展開しようとする。

 しかし、まるで水面で足を踏み外したみたいにバランスを崩した彼は、前方に身を投げだして大きな水しぶきを上げた。そのうち自分もああなるんだろう、みんなそう思っていたに違いないけど、大きな笑い声が上がった。

 水面から顔を出したニコニコ笑顔の彼に、女の子が声をかける。


「どうだった? むずい?」

「いや、マジむずいぞコレ。足場作ってから体重動かすようにしないと。歩きながらやっていくのは無理だって」


 実践した彼の言葉が、ますますシエラの力量や研修の難度の高さを明るみにする。でも、場の雰囲気はそれに気後れする感じじゃなくて、挑戦心を煽られたみたいなワクワクする感じがある。

 そして自分も続けとばかりに、みんな次々と温泉に足を踏み入れては、盛大な水しぶきを上げていく。前に並んでいた挑戦者が、やっぱり水面でコケたのを見届けてから俺の番になった。

 まず、浅いところでやらないように、空歩でちょっと浮かして温泉の中ほどまで歩いていく。温かな湯気が足の裏に当たって気持ちがいい。

 そして、少しずつ高度を下げていく。水面で波が起こると足の裏に当たる、それぐらいの高度まで降りると、いよいよ水面ギリギリに足場を作る段階だ。おっかなびっくり足を前に出して、湯が触れたと思った瞬間に空歩を展開する。すると、なんとか水面ピッタリで踏み台を作ることができた。ただ、こうしてのろのろやっていくなら、他のみんなも大体できるようで、問題はここからだ。

 可能な限り自然な足取りになるよう意識しつつ、体重を動かして一歩踏み出し、湯に触れる瞬間に空歩を……とは思っていたものの、湯に触れて魔法陣を書き出し作り上げるより、足が歩く勢いで水没するほうが早かった。ありもしない足場を踏み抜く形になって、俺は前方に見を投げ出し、全身を湯に打ち付けた。

「こういう、妙な訓練とか得意だと思ったんだけどな~」「うんうん」と俺を湯に浸かりながら観察していた連中が話しかけてくる。


「いや、さすがにここまで難しいのは無理だって」

「だよなぁ」


 ぼやきつつ、俺も湯に浸かって他のみんなを眺める。やはり難しい訓練のようで、まともに歩けているのは今の所1人もいない。エルウィンもシルヴィアさんもアルフレッドさんも、みんな水上でずっこけて水柱を立てた。

 そして……温泉の岸辺に残るのが4人ほどになって、次はお嬢様の番だ。意外にもセパレート水着にパーカーを羽織っていて、へそが見えるのが少し悩ましい。

「上着は脱がないのですか?」とシエラが尋ねると、お嬢様は「少し寒くて。それに、濡れても大丈夫ですから」と答えた。それから、みんなと同じように一度浮いてから少しずつ高度を下げていき……見守る全員が固唾を飲んだ。

 すると、シエラほど自然な歩みではないものの、お嬢様は一歩一歩確かめるように足を前に踏み出しては、かすかな波紋を作って歩いていく。遅いけど、きちんと歩行になっている。温泉の上をちょっと歩いて行った後、みんなが一言も発せずに見守っていたことに気づいたお嬢様は、その場できちんと向き直って恥ずかしそうに頭を下げた。大きな歓声が沸き起こった。なんていうか、挑戦者代表の成功を称えるような雰囲気だ。

 お嬢様の成功にシエラは少し驚いたようで、目を丸くしながらお嬢様に歩み寄って尋ねた。


「こういった訓練は、過去にも経験を?」

「ええ、お父様に今ぐらいの季節で、落ち葉の上を歩く練習を教えていただいて」


 その練習というのは、落ち葉をかき集めて空歩でそのギリギリ上を歩いていくというものだ。こんもりした落ち葉が凹んで足跡になっていればいいけど、落ち葉が割れるくらいに地面へ体重を預けてしまうと失敗、そんな感じで練習を続けてきたらしい。

 練習法を聞くと、周りの皆がそれにすっかり感心した様子になった。才能だけじゃなくって、ずっと修練を続けてきたお嬢様に対して称賛し、また、貴族がやるという練習法同等のものを提示したシエラにも、同様の敬意が注がれている。


 ただ、やっぱり訓練は難しい。何度もトライしたものの、なかなか歩く段階にはたどりつけない。一歩踏み出して足場を作り、体重を移してまた一歩。その繰り返しは各動作が断続的なものになって、とてもじゃないけどスムーズとは言い難いものだ。それに、そんなたどたどしい歩みでも、そのうちバランスを崩して湯にダイブする羽目になる。

 せっかくだから競争しようということで、まともな成功者がいない男連中では、誰が一番温泉の上を遠くまで歩けたか競い合うことになった。それぞれが転んだ地点で湯に浸り、次のチャレンジャーを囃しながら待つ感じだ。

 すると、趣旨を勘違いした――まぁ、意図的にやってるんだろうけど――お調子者が、走り幅跳びを敢行しようとした。どうせ他の客はいないし、まぁいいだろということで、ちょっと脇によってみんなで彼の挑戦を見届けることに。

 空歩で温泉の縁まで走ってきた彼は、そこで跳躍し、温泉の上に身を投げだした。こんなことをやるだけあってかなりの飛距離だ。そして、湯に着水するかどうかといったところで、水面に空歩の魔法陣が現れ……まわりの「おおっ」という歓声も虚しく、彼は飛び込みの勢いそのままに前方へ盛大にずっこけた。それを見てみんなで大爆笑した。


 練習を続けていくと、集団が何グループかに別れた。未だに練習を続けるグループが男女で1つずつ。普通に湯に浸かってるグループも男女で1つずつ。男女混合で会話しながら湯に浸かっているのが1つ。細かい人員の入れ替わりはあるものの、だいたいそんな感じだ。

 まぁ、研修といってもレクリエーションみたいなものだったそうだし、楽しめているならアリなのかもしれない。練習を放って温泉にどっぷりな連中に対して、特にシエラはとやかく言う感じではないし、逆に一緒に会話してみせるぐらいだった。自分だけ水着じゃないからか、会話の方は少し恥ずかしそうな感じだったけど。

 俺は愚直に練習を重ねるグループにいた。エルウィンもこのグループにいる。湯に身を晒しては温泉から上がってまた飛び込んで、その繰り返しにちょっと体の前面がヒリヒリしてきたところだ。

 やがて、女の子側の練習組がやってきて、情報交換を行うことになった。この頃になると恥ずかしさは消え失せて、きちんと歩いてみせようという気力に突き動かされている感じだ。他の皆もそういう様子に見える。

 この訓練の一番の肝は、水面に足の裏が触れる、その瞬間に空歩の魔法陣を作れるかどうか。つまりは魔法陣作成の瞬発力にある。結局は使い慣れないといけないわけで、この場でうまくやるためのコツとかアイデアは、みんなで頭を突き合わせて議論したものの、なかなか出てこなかった。

「自分たちで」というのを諦めてシエラに頼ったものの、彼女の答えも俺達の結論と同様で、ただ練習あるのみだった。


「空歩って、使いたい時に使う魔法であって、いきなり使わされる魔法じゃないでしょ? だから、よっぽど使い慣れてないと、緊急時に反応できないと思う。それで、ほうきで飛んでる時に必要になるとすれば、まさに緊急時の利用なの」


 湯の上でしゃがみながらそういうシエラに、練習組は熱い視線を投げかけた。すると彼女は顔を赤らめて少したじろいだ。

 俺含め、みんながここまで熱視線を送るのは自然なことだと思う。誰もが安全に飛べるようにと考えて、そのために必要な備えや訓練を考えて、人に教えられるくらいに練習を続けてきたんだろうから。

 そうやって視線を浴び、ちょっと照れくさそうなシエラは頬を掻きながら、「この訓練、ちょっと難しすぎる?」と問うと、1人の女の子が「うん」と即問してみんな苦笑いした。


「うーん、これぐらいできないと、空は危ないかなって思ったんだけど……」

「これ、うまく空歩を使えるかの確認用なんじゃない? うまく使えるようにするための訓練は、他にもあると思うけど」

「それはそうだけど。毎回温泉に行くわけにもね」


 シエラが言うとみんなで笑った。実際、温泉でやることにしたのは、レクリエーションというか親善的な意味合いが強いようで、普段用の訓練はまた別に考えてあるらしい。


「まぁ、普段用のもそんなに変わらないけど。不安定な地面の表面ギリギリを空歩で歩く感じだから」

「そっちでも良かったんじゃ?」

「工廠内の実験室に間借りしてる感じだから、こんなには呼べないの。それにまだ訓練法として検証不足だし」

「はぁ、なるほどね~」


 訓練法に関して論じているシエラを見て、本当に色々考えているんだと思わされた。宰相様を前にして安全な普及をと言い切るだけのことはある。


 そうやって各自思い思いに訓練なり談笑なり楽しみ、やがて日も暮れてきた。

 終わりの挨拶をという流れになり、せっかくなのでみんな湯に浸かりながら、温泉の中ほどにある岩に腰掛けたシエラの言葉に耳を傾ける。


「この調子だど、合格者は……」

「お嬢様は?」

「まぁ……オッケーですね」


 推挙にシエラが応じると、場が拍手喝采で湧いた。お嬢様は照れくさそうに笑っている。

 彼女は、今日一日の訓練でかなりスムーズに歩けるようになっていた。もともとの下積みとかセンスもあるだろうし、いちいちコケないおかげで練習効率が高かったからというのもありそうだ。そのあたりは訓練法として要改善かもしれない。

「アイリス様がこんなにも早くに上達されたんじゃ、シエラもうかうかしてられないね~」と女の子がちょっと挑戦的なことを言うと、シエラは腕を組んで考えだした。

 やがて、淡々とした口調で話し出す。


「もう少し、キッツいのもあるんだけど」

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