第9話 クロワッサン・コマンド
『前進をしない人は、後退をしているのだ。
』─────── ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
─1918年 4月2日 ナルヴィンスク連邦 首都ローゼンブルグ
駆逐艦、荒波がドックに入ったのは3月24日だった。
今日に至るまで、シャナを始めとした荒波の士官は内地に戻り、軍令部などで勤務していた。
内地にいる間、シャナは戦争が始まったという事を情報で知ったと共に、人民帝国軍がミコのいる西部方面軍に攻撃を掛けたという情報に戦慄した。
シャナは、軍令部の施設のひとつである海軍省でココアを片手に、荒波の経過状況の記された資料を見ていた。
この資料を書いた技師の見るところ、荒波の損傷は生易しいものではなかった。
弾が飛んでこなかった右舷側は綺麗だったが、左舷側は酷いものだった。
「これは手荒く酷い」
とメモ書きされた写真を見たミコは、改めて先日の戦闘の過激さを知った。妙な形で空いた穴が、司令部のある前部に大きく拡がっていた。そこはどこか、底冷えのする空気の漂っている印象があった。シャナは思った。ちょ、ちょっと。なんか出てきたりしないよね?
もちろんそれは気分的なものだった。遺体の回収は十分に行った後な上に、連邦に帰ってすぐに技師たちが立ち入ったのだから残骸以外のものがあるはずがない。
だが、破壊された通路や銃座の影に、無惨な傷を受けた遺体が転がっていそうな感じがして仕方がなかった。
その時、突然背後で足音がした。人通りの慌ただしい軍関係の施設では足音が響くのは当たり前だが、席の関係上シャナの背後にまで足音が近寄ることはほとんどなかった。シャナは思わず髪を逆立て背筋を凍らせて、音の方へ振り向いた。
「ビリデルリングしょ、中尉。お呼ばれだぞ。」
「っグレゴリオ少佐…驚かさないでください。」
数日ぶりにシャナがグレゴリオと再開したのは、そうした締まらない状況においてだった。
このグレゴリオ少佐は、駆逐艦荒波でシャナと共に戦った男だ。
ふたりは施設を出て、馬車に乗った。それまでシャナは性格故に無言でいたが、どこに向かうかは知らなかった。
「グレゴリオ少佐、私達はどこに向かうのですか?」
石畳を走る車中で、どうやら軍令部本部に向かう道ではないことに気づいたシャナが口を開いた。
「中尉も聞いたことはあるだろう。
「レイン・ヒルズ…──」
「我が国の軍事研究施設ですか。」
ミコも聞いたことはあった。連邦の軍事技術の中枢のひとつであると、話には聞いていた。レイン・ヒルズはローゼンブルグの外れにあり、小高い丘の上にある。
本来であればもっと長々しい正式名称があるのだが、その丘のあたりだけはほぼ毎日雨が降っており、晴れの日が来るのは一週間にいっぺんしかないということから、
「例のワイバーンについての報告があるようだ。軍令部の参謀本部次長だか誰かも一緒に行くはずだったが───────」
グレゴリオ少佐はひとつ息を吐いた。
「待ちきれないようで先に行ってしまったらしい。」
馬車はそのまま坂道へ入った。周りには木々が生え、途中で検問と思わしきゲートを通った。窓には雨粒がポトリ、ポトリとガラスを濡らし、天蓋に水滴が跳ねる音が響いた。
雨粒と湿気で曇ったガラスから外を見ながら、シャナな目的地に着いたことを理解した。
「これが、レイン・ヒルズ。まるで──」
シャナは馬車から降りて、珍しく感情豊かな目で目の前の建物を見上げた。彼女にとっては雨に濡れるのもお構い無しだった。
「まるで、魔女の屋敷じゃないですか…」
その建物は軍の施設というよりはまさに屋敷と言うのに相応しかった。おどろおどろしく巨大な屋敷は木々に囲まれ、屋敷を囲む壁にはツルが巻きついている。
「おい!早く来い!」
グレゴリオ少佐がいつの間にか入口の前にいた。はっ、と我に返ったシャナは急いで建物へと向かう。
まったく…と呟くグレゴリオを脇にシャナは扉を開いた。
中は広く、いくつもの扉があった。無機質を装うとする白壁と模様の付いた床は、元々の家主の趣味を隠すことが出来ていなかった。元々は黒いカーペットが敷いてあったのだろう長年の汚れと、壁に打たれた絵画の後が至る所に見られた。
白衣を着た研究員と思わしき人がシャナたちを出迎えた。
「ようこそ。所長から話は聞いております。奥の部屋でお待ちください。」
さあ、どうぞとシャナたちは部屋まで案内された。軍令部の方もそこにおりますので、と一礼されて扉の前で研究員は去った。
「ちょっと!」
大量の書類を手に積んだ研究員がシャナにぶつかった。
「すいません。」
シャナは真顔でそう言い、落ちた書類を拾い上げた。それには箒の全体イラストに、メモと、箒のブラシの辺りに何か金属のようなものが付いているイラストがあった。
「見てないよな?悪いけどそれ軍機だから。」
ええ、何も。とシャナは嘘をついた。
すごすごと立ち去って言った研究員を見てから、シャナは扉を開いた。
広い部屋だ。カーペットと暖炉がある暖かな部屋だ。恐らく以前はここで食事をしていたのだろう。
それよりもシャナは、部屋の端に並べられた、見たこともない道具に興味を惹かれた。
手のひらサイズでポッ、ポッと音を立てて小さなドーナツのような雲を生み出す機械や、複雑な動きをする歯車などがある。
興味深そうにそれらを眺めるシャナを後目に、グレゴリオはあーあと言いながら、服を乾かす為に暖炉の前のソファに座った。
部屋の奥の厨房から何か割れるような物音が響く。シャナとグレゴリオは怪訝そうな顔をしてそちらに顔を向けた。
「あれ〜?また俺、なんかやっちゃいました?」
頭をかきながら男が出てきた。
流れる沈黙に、男は耐えきれなくなった。
「君達やっと来たのか!グレゴリオ少佐に〜君は。えっと。」
「シャナ・ビリデルリング中尉です。」
シャナは冷やかな目線を向けて自己紹介した。
「ロジェストヴェンスキー次長に御二方。お待たせしました。所長がお呼びです。」
研究員が部屋に入って声を掛けた。
ロジェストヴェンスキー次長と呼ばれたこの男は、本名はルドヴィック・ロジェストヴェンスキー。西部方面軍総参謀長の、グレイグ・ロジェストヴェンスキーの弟に当たる。
この男は、能力としては参謀としては優秀ではなく、平均より劣っているが、新しい発想や着眼点を見出すクリエイティブな能力と高い行動力を買われてここまで昇進している。
この男は同僚や先輩からは「バカ」や「無能」などと言われている。
実際そうであるというのは置いといて、何故軍令部参謀本部次長にいるかと言うと、戦況を現場で把握出来る方面軍参謀たちの方が、内地の参謀より優れていた方が良いとの方針があったからだ。
他にも、内地の参謀総長がかなり優秀な男であることの安心感と、ルドヴィックは雑務はそこそこ出来るから。という理由があった。
3人は部屋を出て地下室へと案内された。広い部屋だったが明かりは半分しかついておらず、少し薄暗かった。
「よく来たな、3人とも。所長のドブリだ。」
白髪でもしゃもしゃとした髪型で、瓶底メガネをかけている。足は極端に細くO脚気味だ。
ドブリは白衣のポケットからメモを取り出した。
「今回は例のワイバーンについての報告だ。軍令部には後で同じことが書かれた書類を送るよ。」
シャナが怪訝そうな顔をした。
「何故呼びだしたか?それは現場で戦った人間の顔が見たかったんだ。」
ドブリはその場で歩き出した。
俺は?と言うルドヴィックを無視して、ドブリは部屋の明かりを全てつける。
薄い青色の液体に浸されたドラゴンが、そこに佇んでいた。
「怯えることはない。こいつは既に死んでいる。」
「こいつの血液や毛から成分分析を行ったが、こいつは──」
シャナとグレゴリオを唾を飲んだ。
「ワイバーンウルフだ。完全なワイバーンじゃない。明らかに
シャナとグレゴリオは互いに顔を見合わせた。シャナが口を開いて喋ろうとしところを、ドブリを片手を上げて遮った。
「そんなことが可能なのか、連邦じゃ不可能な技術だ。人民帝国の技術は知らないが、凶暴なドラゴンと人間に懐く狼を交配させて扱いやすいキメラを生み出しているのは間違いない。」
ドブリは手を振って仕草をして見せた。
「っ…。」
シャナは声を失った。確かにそうだ。ドラゴンというのはあそこまで毛が豊富な訳がないよね…。シャナは自分で納得した。
「…連邦はそれに対抗しうることは出来るのですか?」
グレゴリオ少佐が静かに聞いた。
「我々も新技術の研究をしているが、今は戦時だ。すぐに用意出来る物も開発している。が、それがワイバーンに100パーセント対抗できるかと言われたら、分からない。」
ドブリは目を閉じて言った。
「参謀本部次長。そっちでの対策はどうなんだ?」
ようやく話を振られたルドヴィックは、いじっていた部屋にあった小物を落とした。
「…確かにワイバーンの脅威は課題です。ですがこの2人が乗る駆逐艦が撃墜に成功しています。」
えー、と言いながらルドヴィックは次の言葉に繋げた。
「軍令部としては、海軍は、駆逐艦荒波を始めとした第2水雷戦隊を、
グレゴリオとシャナは「えっ?!」と言って振り返った。初耳だったのだ。
「将来的にはそちらで開発中の物と連携して、ワイバーンの早期発見による敵識別と防空任務を行うつもりです。」
「陸軍としては、野砲の仰角改造を行っていますが、基本的にはそちらの開発したものを頼らざるを得ません。今頼れるのは魔法使いです。」
ルドヴィックが締めた。珍しく大真面目な事を言っていたが、シャナがよく見たらメモを読み上げていただけだった。大方本部で渡されたものだろう。
シャナは、国防軍が魔法使いに何をさせようとしているのか瞬時に理解した。そして、親友のミコを憂いた。
─1918年 4月4日 フランブル地方 近衛第1師団陣地
カンブルグ会戦が終わり、人民帝国軍の攻勢が止みその大軍が中央へ戻り始めた。人民帝国の「夜更けの宴」作戦は失敗に終わり、次の攻勢作戦の準備を始めている。
連邦も、臨時救援軍は解体され戦線から増援に来た第2師団は帰途に着いた。だが首都から来た近衛第1師団はそのまま第3軍に留まった。
本国では西部方面軍に8万の増援派遣と、後備部隊の動員が命じられ、同じように反転攻勢の用意がなされ始めていた。
「ミコ、ちょっといいかい。」
野営地で自分の刀と拳銃のメンテナンスに勤しんでいたミコに、同期のサーシャ参謀少尉が声をかけた。
「ん?どうしたの?」
鏡面に磨きあげられた刀越しに、ミコは訪問者に気づいた。
「ミコたちは今一応
「あー…。」
ミコはすっかり忘れていた。本来であればミコは、第13旅団の司令部付けの少尉だった。
「いや、特には言われてないけど。やっぱり戻った方がいいよね?」
「ああ、いやいや!それならそれでいいんだ。そうだ、師団長が後で司令部に来るようにって伝言があったんだ。」
その後、いくらか他愛もない会話を交わしてサーシャは帰って行った。ミコはサーシャとの会話に少し変だと思いながらメンテナンスを続けた。
夕方、ミコは部下の曹長と共に司令部を訪れた。
何やら打ち合わせをしている中で、ミコはサーシャに案内されながら師団長をさがした。
「全軍でこのラインまで昇れというのですか?足並みが───────おや、カウリバルスくん。」
師団長のエドヴァルドは上級参謀と会話をしていた。ミコは喋り終わるのを待とうとしたが、エドヴァルドは気づいた。
「まあいいわ!そっちのことはそっちのセクションに任せておきましょ。」
さあ、と言いながら師団長は3人を少し人の集まりが少ないところに誘導した。サーシャは途中、師団長に頼まれて何かを取りに行った。
「先に要件を言いますね。まずひとつめ、カウリバルスくんは中尉に昇進です。おめでとう。」
エドヴァルドはにこやかな顔をして手を叩いた。
「ふたつめ、カウリバルス中尉の騎兵部隊を中核とした、中尉の指揮する第1独立機動支隊、秘匿呼称『クレセント・コマンド』を編成。以てこれを第3軍指揮下に置く。」
ミコは状況を飲み込めなかった。
「あの、どういう。中尉昇進ありがとうございます───────私が、指揮官!?!?」
ミコはパニックになった。エドヴァルド師団長はくっくっくと笑っている。
「いやなに、この前のと同じようなものを常設させると言っているだけです。これは方面軍司令部からの命令ですが、恐らく本国の軍令部も絡んでいるでしょう。」
エドヴァルド師団長はどこか遠くを儚げに見た。
「はへ?は、はい。」
ミコはようやくひとつパニックの峠を越した。
「それからクレセント・コマンドには魔法使いを数人集めるようです。ああ、私のところから出しますよ、安心してください。」
そう言ったところで、サーシャが包みを抱えて戻ってきた。
「そう、みっつめの話がありましたね。中尉、これは私からの昇進祝いです。おめでとう。貴方のこれからの役割としてもこれは合うでしょう。」
ミコは包みから物を取り出した。新しいライフルだ。しかも支給品のそれよりもかなり軽い。長さはおよそ122cmで、普段使っているものよりもやや短かった。
「ありがとうございます!支給品のものは扱いづらかったので!」
ミコは今日司令部で初めて笑顔を見せた。
「いい銃でしょう。マイントイフェル社製のワルターM1917です。去年の暮れにリリースされたばかりで、国防軍でそれを持っているのは近衛師団くらいですよ!明日にでも使ってみなさい。普通じゃないですから。」
エドヴァルドはいたずらっぽく笑った。
「ところで、サーシャ・コンドラチェンコ少尉。」
エドヴァルド師団長はサーシャの方を向いた。
「はっ!」
「貴方はこれより第1独立機動支隊に加わります。これは命令です。」
数秒の間を置いて、サーシャは先程のミコのような状態となった。
ミコはサーシャに先程説明されたことを同じように説明した。
「───────ということで、クロワッサン・コマンドが出来たんだ。」
中尉、と曹長が口を開いた。
「クロワッサンじゃなくて
「あっ…」
ミコは赤面した。その場で笑いが広がった。
「違うんだよ!クレセントって呼び方もクロワッサンにはあって!!もう!笑い過ぎだぞ!!曹長〜!!!」
そういった経緯から、ミコは新たにクレセント・コマンドの指揮官となり、魔法使いの同僚であるサーシャ・コンドラチェンコを部下に加えた。
一昨日輝いていた三日月も、今夜は満月が照らしていた。
─1918年 4月3日 ナルヴィンスク連邦 首都ローゼンブルグ 軍令部
軍令部参謀本部では8万の増援による西部方面軍の反転攻勢を企図していた。狙いは前回のような人民帝国の集中攻勢を受けないよう、戦線を限りなく磐石にさせるためにあった。
戦線を安定させるため、フランブル地方の北部にあるエルムズ川の向こうに敵を追い落とす作戦を、軍令部では練っている。
「この反攻計画、『
男が参謀に語った。
「総長。この戦争は、いつまで続くでしょうか?」
参謀が疑問を述べた。
総長と呼ばれた男は、ゆっくりと手を口に持っていき、「年内には終わらせる」と答えた。
参謀から反論はなかった。こうして、年内には戦争を終わらせることを表看板とした戦争が、またひとつ、歴史に加えられた。
ちなみに、「年内には戦争が終わる」と言われ、その通りになった戦争は歴史上存在しない。
続く。
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