第87話 ある少女の独白 ―孤独な蜂― 前編

 今でこそ、あたしの家族は母と自分の2人だけしかいないけど、昔はそうじゃなかった。

 まだ真面目だった頃の「わたし」の家族は、両親と自分、弟の功太の4人だったのよね。


 堅実な性格の父は、警察官として、日々街の平和を守る仕事に奔走していた。

 寡黙だけど厳しくも優しく、それでいて真面目な父を、わたしも弟も慕っていたわ。

 そんな父が、幾度となく口癖のように言っていた言葉は、今もわたしの耳朶に残っている。


「真面目に生きていれば、最後には必ず報われる。だから、どんなに辛い事があったとしても、諦めずに真っ直ぐ進み続けるんだよ。」

「うん! わたし、お父さんみたいに真面目で立派な人になるわ! 勉強も運動も、全部頑張る!」


 父の教えを受けて、わたしは学業に真面目に取り組み続けた。

 そのかいあって、小学生の頃から、わたしは常にトップクラスの成績を維持していたわ。

 逆に、運動神経は悪くて不器用だから、体育などの成績はいまいちだったけどね。

 また、当時のわたしは常に眼鏡を掛けていた事もあり、同級生の男子達には「ガリ勉眼鏡」なんて渾名を勝手に付けられていたっけ。


「綾音は、お父さんみたいになりたいの? ふふふ、もしかして将来の夢はお父さんと同じ警察官かしら?」

「わたし、走るの遅いし、犯人を捕まえられる自信がないから、警察官になるのは無理だと思うわ。だから弁護士とかを目指そうと考えているの。」

「そう。難しい道のりになるだろうけど、あなたならきっと叶えられるわ。いつも一生懸命勉強しているし、何より、お父さんとお母さんの自慢の娘だもの。」


 穏やかで優しい母は、主婦業とパートの仕事を両立していて、日々忙しくしていた。

 それでも、わたしや弟に愛情を持って接してくれていたわ。

 だから、わたしは父だけでなく母の事も尊敬していた。

 いつかこの2人のような大人になるんだと、目標にしていたの。


「功太、迎えに来たわよ。」

「あ、おねーちゃん! あのね、ぼく、帰りに公園に行きたい! 友達に一緒に遊ぼうって誘われてるの!」

「はいはい、分かったわ。でも、夕食の支度もあるから、公園で遊ぶのは1時間だけよ?」

「いいの!? やったー!」


 歳の離れた弟の功太は、わたしが中学生になった時点で幼稚園の年長組に通っていた。

 父も母も忙しいから、幼い弟の面倒を見るのは主にわたしの役目で、幼稚園の送迎などを担当していたわ。

 功太は活発な明るい子で、たまにこちらが振り回される事もあるけど、そういうところも含めて、わたしは功太をとても可愛がっていた。


 そんな家族4人からなるわたしの家は、決して裕福とまでは言わないけど、いつも笑顔が溢れている、平凡ながら幸せな一家だった。

 わたしが大人になるまでは、ずっとこんな日々が続くんだと、漠然と思い描いていた。


 ――わたしが中学校に上がって間もない頃に起きた、あの事件に出会うまでは。


 あれは、何の変哲もない日の授業中の事だったわ。

 授業中の教室に、よその先生が血相を変えて教室に駆け込んできたのよ。

 一体何事か、と騒然とする教室で、その先生はわたしの元に駆け寄り、こう言ったの。


「蜂須さん、大変よ! あなたのお父さんが大怪我をして、今病院で手術を受けているって連絡があったわ! 今からすぐ来てもらえる!?」

「え、お父さんが手術、ですか!?」


 警察官という職業柄、仕方ない事だと思うけど、父が怪我を負うのは珍しい話じゃなかった。

 でも、手術をしなければならない程の重傷を負ったというのは、わたしが知る限り初めてだ。

 わたしは慌てて鞄を抱え、先生が学校前に呼んでくれていたタクシーに飛び乗り、病院へ向かったの。


「お父さん!」


 わたしが小走りで廊下を駆けると、集中治療室の前の廊下で母と功太の2人と合流できた。

 廊下の端に備え付けられた椅子に座っている母は、必死に笑顔を作りながら、泣きじゃくる功太を何とか宥めようとしていて、見ているこっちまで泣きそうになったわ。

 立ち尽くすわたしの存在に気付いた母は、功太の背中を擦りながら、わたしを見上げた。


「ほら、功太。お姉ちゃんが来たわよ。」

「うぅっ、お、お姉、ちゃん……」

「綾音、学校を早退してきたのね。ごめんね、急に呼び出して。」

「ううん。そんな事より、お父さんの容態はどうなの!? そもそも、お父さんに何があったの!?」

「落ち着いて、綾音。実はね――」


 母の語ってくれた話によると、父は、警察官の仕事中に飲酒運転の暴走車を追っていたらしい。

 追跡の末、逃げる車を何とか止める事に成功し、犯人を確保しようと父や同僚の警察官達がパトカーから降りた瞬間、犯人は突然アクセルを踏み込んだ。

 犯人の車の進行方向には父の同僚が丁度立っていて、走り出した車に轢かれそうになったところを父が身を挺して庇ったお陰で、その同僚はかすり傷を負うだけで済んだそうだ。

 だけど、その代わりに父は――。


「お父さんっ……!」


 わたしにも、母にも、功太にも、出来る事は何もない。

 父の無事を祈って、只々わたしは手術が終わるのを待ったわ。

 廊下の窓から覗く空は、既に真っ黒に染まっていて、僅かな月と星の灯りが瞬いているのが見えた。

 わたしは、別に神様だとか宗教だとかは信じていないけど、この時だけは、空に向かって手を合わせ続けたの。


 そうして、何時間くらい経った頃かしら。

 集中治療室の灯りが消え、手術を担当していた医者が廊下に出てきた。

 当然、わたし達は一目散に医者のところへ駆け寄り、彼に問い詰めたわ。


「あの! 夫は、手術はっ、どうなったんですか!?」

「お父さんは、助かるんですよね!?」

「すみません。車に撥ねられた際に、後頭部を強くコンクリートに打ち付けていたらしくて、どうにも……。手は尽くしましたが、残念ながら……。」

「そんな!」


 歯切れの悪い医者の言葉が、わたし達から気力も体力も奪い去っていく。

 その場に立っている事が出来なくなったわたし達は、一斉にその場に崩れ落ち、慟哭した。


「あなた、どうして、こんな……!」

「あぁぁっ! うわああああああ!」

「おとーさん! おとーさんは、もう起きないの!? おとーさん、死んじゃうの!?」


 生真面目で、少し融通が利かないところもあるけど、穏やかで優しかった父。

 霊安室で眠る亡骸の前でわたし達が幾ら泣き叫んでも、父が返事をする事はなかった。

 わたし達の大事な家族は、この日を最期に、天へと旅立っていったのだ。


 それから暫くの間、わたし達は淀んだ日々を過ごした。

 わたしも功太も、毎日学校には通っていたものの、放課後は友人達と遊ぶ気にもなれず、真っ直ぐ家に帰っては自室で塞ぎ込んでいたわ。

 しかし、母は違った。

 母は、以前にも増して外へ働きに出るようになったのよ。


 父が亡くなった今、母が働いて家計を支えなければ、我が家の収入は途絶えてしまう。

 父の遺してくれたお金は決して少ない額ではなかったけど、わたしと功太の進学や、母の老後に必要なお金を考えると、余裕は全くない。

 だからこそ、どうしても母が働かざるを得ない状況だったのだ。


 母も深い悲しみの中にいたのは間違いないだろうけど、わたしと功太の存在が、母を何とか奮い立たせていたんじゃないかしら。

 それまでは1日数時間程度のパートしかしていなかった母は、父の死から立ち直る暇もなく、週5~6日のフルタイムで働き始めた。

 日に日にやつれていきながらも、必死に働いて家計を支えようとする母の姿は、見ているこっちが辛くなる程だったわ。


 それでも今は踏ん張る時だと、わたし達は家族一丸となって必死に堪えていた。

 例えば、母が忙しくなった分、わたしと功太が家事を受け持つといった具合に、家族で力を合わせてこの難局を乗り越えようとしていたのよ。

 と言っても、功太はまだ幼かったから、洗濯物の片付けや掃除などの簡単な作業をしてもらうだけに留まっていたけどね。

 わたしは買い物や料理、その他功太にはまだ任せられない家事全般を請け負いながら、空いた時間で勉強して成績を落とさないように喰らい付いていたわ。


 あの頃のわたし達は生きるのに精一杯で、悲しみに暮れる時間なんてなかった。

 何とか地獄から這い上がろうと、もがいていたのよ。


 この出来事が、まだ地獄の序章でしかない事も知らずに、ね。

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