第38話 変わり始めたカンケイ

 蟻塚の部屋で、彼女の独白を僕は無言で聞いていた。

 そして、内心思わず引いてしまっていた。

 独白を聞いて、僕の頭に真っ先に思い浮かんだ感想はただ1つ。


 ――この子、滅茶苦茶重くね?


 いや、だってそう思うのも仕方ないだろ。

 どんな話をされるのかと思ったら、やたらと陰鬱な過去話を聞かされたんだぞ?

 これ、普通は親友以上の関係の相手にしか話せないレベルの重さじゃないのか?


 単に図書委員の仕事が同じ、というだけの関係性の僕に、蟻塚はどうして洗いざらい全てを話したんだろうな。

 何やら嫌な予感がするんだが……。


「ふぅ。柄にもなく、長々とお話してしまってすみません。でも、これで私の事、理解してもらえましたよね?」


 ニッコリと微笑みを添えて、追撃で圧を掛けてくるのはやめろぉ!

 心臓の辺りがキリキリしてくるんだよ、本当に。

 蟻塚の目的が未だに見えない辺りが、余計に怖い。


「話は分かったよ。ところで、もう結構時間が経ってるんだけど、そろそろ帰ってもいいか?」


 不安のあまり、蟻塚の真意を直接問い質そうかとも思ったが、藪蛇になる可能性もある。

 事なかれ主義を半ば放棄しつつある僕だけど、今回は背筋にだらだらと汗が流れる感触を覚えたため、この場では危機回避を優先する事にした。


 それに、荷物持ちのお礼の飲み物とお菓子を頂いたら帰る、という話だったからな。

 幸い、長話の間に僕は一通りの飲食を既に終えている。

 だから、これでようやく帰れるはず……!


「待ってください。と言いたいところではありますが、最初に約束してしまいましたし、仕方ありませんね。約束を反故にして嫌われるのは本意ではありませんし、そこまでする必要もないでしょうから。」


 ふぅ、助かった。

 蟻塚は口こそ悪いものの基本的に真面目な性格なので、一度約束した事を軽々しく反故にはしないだろうと予想していたが、僕の読みは当たっていたみたいだ。

 先に言質を取っておいて良かった。

 言質を取っていなかったら即死だったな。


「じゃあ、帰らせてもらうぞ。」

「はい。でも、帰る前に1つだけ、いいですか? すぐ終わりますので。」

「まだ何かあるのか?」


 立ち上がって部屋を出ようとしたタイミングで呼び止められ、僕は止む無く足を止めて後ろを振り返った。


 これ以上引っ張るのは勘弁して欲しいところだが、「すぐ終わる」と本人も言っているしな。

 万が一、話が長引きそうなら、理由を付けて無理やり帰宅する事も出来る。


 有無を言わせず帰るという手もあるにはあるけど、微妙に悍ましい雰囲気を纏っている今の蟻塚を相手に強行する勇気は、僕にはない。

 さて、蟻塚は何を言い出すつもりなのやらと、僕は戦々恐々として身構えると――。


「先輩。今後、私の事は苗字ではなく、名前で呼んでもらえませんか?」

「……はい?」


 今の言葉は、僕の聞き間違いだろうか。

 思わず「え、なんだって?」と叫びたくなる衝動を堪え、僕は努めて平静を装った。

 僕の反応がお気に召さなかったのか、蟻塚の顔つきがややムッとした物へ変わる。


「名前で呼んでください、と言ったんです。先輩の耳は飾りですか?」

「いや、ちゃんと聞こえてる。何で急に名前呼びを、って驚いたんだ。」

「親しくなった相手の呼び方が変わるのは、自然な事だと思いますが。」

「確かにそういう風潮はあるけど、いきなり名前呼びはハードルが高いだろ。男子相手ならまだしも、女子に対してなんて、猶更だ。」

「先輩は、やっぱりヘタレですね。ですが、私も退くつもりはありません。私は、先輩と仲良くなりたいだけなんですよ?」


 うっ、そういう事を言わないでくれ……。

 さっき重い話を聞かされた直後だから、実感が籠もり過ぎていて、無碍に出来なくなるだろ。


 ただ、やっぱり女子の名前呼びはなぁ。

 今まで地味な陰キャを貫いてきた僕にとっては、やはりハードルが高過ぎる。

 親しくなるにしても、もう少し段階を踏んで欲しいところだ。


「名前呼びにこだわる必要もないんじゃないか? 僕達は充分に仲が良いだろ? 連絡先だって、さっき交換したばかりだしな。」

「連絡先の交換なら、蜂須先輩や生徒会長ともしていますよね? 私も同列の扱いなんて、納得いきません。」

「あのー、妙なところで負けず嫌いを発揮しないでくれる?」

「先輩。これからは、『美波』と呼んでくださいね。約束してくれるまで、帰しませんよ?」

「えええ!?」


 幾ら何でも脅しが過ぎるだろ。

 この子、どうしてそんなに必死になってるの?


「いいですね、先輩。約束ですからね!」

「僕に拒否権はないのかよ……。」

「当然です。私は、先輩を簡単に逃がすつもりはありませんよ。やっと、私の事をちゃんと見てくれる人を見つけたのですから。」


 そう言って微笑む蟻塚からは、妙な圧を感じる。

 だからこそ、余計にこの場から逃げたい気持ちが強くなっていく。

 何となくだが、言われるがままに名前呼びを容認してしまうと、そのまま全てを絡め取られてしまいそうな予感があるのだ。


 ――うん、やっぱり無理だな。

 ここは、逃げるが勝ちだ!


「悪い、名前呼びの話は今度にしてくれ。じゃあ、もう時間だし僕は帰るから。」

「……このタイミングで強気に出ても駄目でしたか。勝負を仕掛けるのが少し早すぎたようですね。あまりしつこくし過ぎて好感度を下げてしまっては逆効果ですし、このくらいにしておきますよ。」


 よかった、蟻塚もようやく矛を収めてくれる気になったみたいだ。

 嫌な予感がしたからと、事なかれ主義を一時的に翻して立ち向かった事が功を奏したか。

 まあ、相手が蟻塚なので僕も自分の考えを主張しやすかった、というのも大きいのだが。


「先輩。あとで電話やメッセージを飛ばしたら、ちゃんと出てくれますか?」

「まあ……多少なら、な。」

「ありがとうございます。先輩以外に親しい人がいないので、少しだけでも相手になって頂けると嬉しいです。」

「お、おう……!」


 仄かに頬を赤く染めて、穏やかな笑顔を浮かべる蟻塚からは、さっき僕が感じた圧が消え失せている。

 そのお陰か、清楚な美少女の側面が強調された笑顔の破壊力が半端じゃない。


 普段の言動はひどいけど、こいつ、外見は普通に滅茶苦茶可愛いんだよな。

 未だに口の悪さは健在とはいえ、僕に対して懐いてくれているのは事実だろう。

 年頃の男子として、これって普通に嬉しい状況ではあるんだよな。

 ただ、僕がそういう状況に慣れていないのが問題なだけで。


 蟻塚は、果たして僕の事をどう思っているのだろうか。

 頼れる先輩として僕を見ているのか、はたまた――。


 いや、僕は何を考えているんだか。

 陰キャの僕が、こんな美少女に好かれるはずがない。

 あくまでも、唯一頼れる相手として慕われているだけだ。


 一瞬だけ脳裏を過った都合の良い妄想を即座に否定し、僕は帰路に就いた。


 ……。


「ふふ。先輩、私はあなたを絶対に逃がしませんよ?」

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