第19話 師弟



 一国の王の城にある書庫というのは広大な情報の砂漠に等しいと思った。

 葦原は公称で建国千年を超える大陸でもかなり歴史を重ねた国家だ。無論多少盛っているか、国が邑程度の規模から数えた年数だろうが、それでも上から数えた方が余程早い歴史を重ねた自負はあろう。そのため、書籍の類は膨大な量になる。

 元々皇の一族は人が生きて行く上で絶対に欠かせない食料を生む、農耕に関わる神事と収穫した作物を管理する神官一族を始祖とする。支配者になる以前から、毎年の気候と収穫高の記録を保管して凶作や飢饉に対する備えをしたり、洪水を防ぐ工事や水分配の折衝も無数に行ってきた。

 当然己の利益のために言う事を聞かない者は出る。そういう時は縁を結んだ力のある豪族に頼んで直接武力で鎮圧して言う事を聞かせて、謀を用いて各地の影響力を強めて、長い時を得て王へと押し上げられた。

 王になってからものほほんと過ごしてはいられない。山積みの政務は自ら動いて減らさなければ、待っているのは不満を持った民や豪族の反乱だった。

 民への規範として過去の争いの判例に基づいた律法を定め、各地の豪族には支配と引き換えに治安維持と徴税権を与えた。

 豪族や民同士の争いがあれば法に基づいて仲裁を、災害が起こり現地に治める能力が無ければ近隣豪族の助力を命じ、国家としての体を成せば隣国への外交吏を派遣した。

 時に隣国とは戦争を、時には友好的になり、亡国の危機になった事も一度や二度ではない。内乱も一度経験している。それでもどうにか葦原は千年を超えて存続していた。これは王の一族が戦士ではなく、武力に頼らず可能な限り戦を避ける農耕神官的思考の影響が大きいと、他国は認識していた。

 王から皇という称号に代わったのは三百年ほど前と言われいる。その頃の大きな出来事といえば、隣国が各国を併合して≪桃≫と国号を変え、王の称号を帝に変えた事が直接的な原因とされる。

 帝とは優れた尊い王の事で、並の国の五倍の国土の上に立つ王に相応しい号でも、新興国家になめられるのを危惧した葦原の王が、同様に百の王の最も上という意味を持つ皇を名乗ったのが由来とされる。要は見栄の張り合いでしかないが、名乗るだけならタダだから、意外とお安いのかもしれない。それも建国七百年という重みが前提にあっての政策だろうが。ついでに豪族も貴族と名を変えて、変わらず存在している。

 その重みの結晶こそ、ただっ広い部屋に隙間無く並べられた書籍の群れである。

 収穫記録と農耕指南書から始まり、この国の歴史、法律書、民の戸籍、外交文書、皇と貴族の間で取り交わした条文、天文学に関する書、医学書、等々。まともに挙げればキリが無い多彩な書が納められている。この書庫こそ葦原の知識そのものと言える。

 ヤトはこの数日の間、書庫で何冊もの書を読みふけって、さながら砂漠に埋もれた財宝を探すように知識を求めていた。凶状持ちの皇子として一時的な放逐処分は受けていたが、地位の剥奪や降籍処分等されていないのが幸いして、ほぼ無制限に書を読めるのは幸いだ。

 時折書を探しに文官が書庫に出入りして、遠巻きに静観して話しかけても来ないので作業自体は捗っている。

 問題は求める知識がなかなか見つからない事だ。正確には基礎的な知識をまとめた書は多く見つかるものの、より踏み込んだ専門的な知識となると一気に量が減る。理解するのも難解な言い回しだったり、そもそも古語すぎて読めない。

 断っておくがこれでもヤトは十三歳までは皇子として様々な教育を受けているので、そこらの役人程度よりはずっと教養がある。

 言い換えればその程度の教養では到底理解出来ないぐらい、読んでいる書が難解かつ古代に記されていると思われる。一応読めない文章は書庫を管理する司書官に解読を頼み読み解いてもらっているが、時代が変わると言い回しや意味が異なっている部分もあって、微妙に信用が置けない。

 書物から知識を得て実践に用いるには、読み手が書いた著者と同等の理解力を持っている事が前提と言われる。ヤトは剣の鬼才、戦の秀才ではあるが、それ以外の才能は思ったほど恵まれていない。今読み解いている書の知識を実践するには足りないものが多かった。

 これ以上は徒労とまでは言わない。さりとて満足するには十年はかかると思われる。時間そのものはたっぷりとあるので、地道に書を読み解くのも悪くはないが、やはりここはその道の師を頼った方が労力は少なそうである。

 結論を出したヤトは読み終わって山積みにした書を司書官に渡して書庫を出て行った。

 数十はある書の表紙には様々な題名が記さているが、系統分けすると主に二つの流れに分けられる。

 『気功術』と『神仙術』だった。



 朝から籠っていた書庫から出て、固まった体を伸ばした。

 それからヤトはクシナの元に行き、一緒に昼食を食べた。今日の献立は季節の天ぷらと野菜の煮物、それに鯉汁だ。

 旅の数年間はフォークとナイフばかりで、何年かぶりに箸を使っても意外と指は使い方を覚えている。滑りやすい芋煮も取りこぼさない。

 対してクシナは箸を使わずフォークで食べていた。≪桃≫に入ってから飯屋で出されるのは決まって箸だったので、ヤト以外の二人は使いこなせず、わざわざ西国の輸入品を扱う店でフォークを手に入れて使っていた。

 禁裏では他国の外交官も迎えるので、流石に西の食器ぐらいは置いてあるから、そちらを使っている。

 箸でヤマメの天ぷらに触ると、『パチッ』と音を立てて綺麗に半分に切れた。ヤトの箸が数秒止まり、何事も無かったように天ぷらを挟んで口元へと持っていく。

 食事を終えて綺麗に片付いた二人分の膳を片付けた女官は、ふと漆塗りの皿に深い切れ込みを見つけた。傷のついた皿は貴人に使えないので、後で身分の低い使用人に下げ渡された。

 食事を済ませたヤトは嫁を残して、禁裏の北のはずれにある軍の鍛錬場に顔を出していた。

 里帰りしてからは毎朝欠かさずここで剣を振っていたが、今日は時をずらして昼過ぎにした。

 皇と≪飛鳥≫を警護する近衛軍にとって、今のヤトは微妙な存在だ。

 本来は皇の一族として命を賭けて護る対象でも、幼き頃は鍛錬場で共に汗を流し、剣を磨いた仲ではあったため、僭越ながら可愛がりもした。

 とある理由から≪禊≫を求められて葦原を去り、二度と会う事は無いと思われていたのにひょっこり戻って来た。

 其の理由に軍も僅かながら関わっていた為に、再会した時は多くの武官が謝罪をしたものの、当人はそれを受け取らず、端でただ剣を振るうのみ。

 元からそういう気質と分かっている者も多いが、謝罪を受け取らないという行為が価値の無い相手と思われているのではないのか。面子を重んじる貴族出身の武官たちの心にしこりが残り、彼等の隔意すらヤトには興味が無いと知っているからこそ、今となっては遠巻きに眺めるだけの近づき難い存在になっていた。

 そのヤトも今はある人物に頭を下げて恭しい態度を取っている。

 その人物は年の頃は五十を超えて、髷を結った黒髪の三割は白髪に、眉間に刻まれた縦皺は深く、口元から顎にかけて刃物傷が特徴的。体格はヤトより一回り以上大きく、筋肉は分厚い。他者を威圧する闘気は殊の外強いが、同時にそこらのゴロツキとは一線を画す知性的な目を持つ人族の男だった。

 彼はヤトと鏡合わせのように頭を下げて貴人への礼を尽くす。


「お久しゅうございます、大和彦皇子。あの頃より一回りも二回りも大きくなられた。この綱麻呂、殿下を一日とて忘れてはおりませんでした」


「わが師泉上綱麻呂よ、不肖の弟子を気にかけていただき、感謝に絶えませぬ」


 形式的な再会の挨拶が済み、師弟は無言で訓練用の木刀を手に取った。互いに言葉より剣で語る方が好みだった。

 対峙する師弟に開始の号と礼は無い。目が合った瞬間、既に動いていた。

 ヤトの姿がブレた瞬間、綱麻呂は真後ろに剣を薙ぎ払い、背後を取ったヤトの剣を防ぐ。

 奇襲を防がれてもヤトはそのまま剣を滑らせて、密着した状態で柄を師の背に叩き付けた――――と思われたが、綱麻呂はその場で膝を崩して、ヤトの服を掴んで左手一本で投げ飛ばす。その上ですぐに手を離して距離を置いた。そのまま服を掴んでいれば、空中で身体を捻りながら斬られていたはず。

 そこからヤトの体勢が崩れているのを見過ごさず、一気に間合いを詰めた鋭い突きを放てば、切っ先に同じ突きを当てて返されて、弾かれたのは綱麻呂の方だ。彼は弟子が竜の力を得たのを知らず、目論見が外れて力負けした。

 追撃を予想して剣を構えていたが、師が立ち上がるまで待っていた。


「そこは立たれる前に勝負を決してしまうようお教えしたはずですが」


「不出来な弟子ゆえ、師の言いつけを守らないのですよ」


 ヤトが薄く笑うと、綱麻呂は溜息を吐く。己の子弟の中で誰よりも剣の才に溢れた皇子が不出来などと、どの口が言うのか。そして天稟はあっても、誰よりも剣の理念から外れた剣鬼という不条理を嘆かずにはいられない。

 とはいえ尋常な立ち合いで隙を見せるのは剣士として相手への非礼。すぐに立ち上がり、正面から切り合う。

 力任せの鍔迫り合いと見せかけて、体を逸らし、剣を弾き、柄を当てもすれば、再び剣を打ち合い、拳の当身もあれば、服を掴んで引き倒す事もする。

 戦いに綺麗も汚いも無い。如何にして勝つかを追求するのが兵法。戦いの中で愉悦に身を委ねるのは三流のやる事。

 そう弟子を叱りつけたくとも、勝てなければ単なる敗者の戯言でしかない。

 故に勝つために綱麻呂は剣を上段に構え、一歩踏み込みながら最速で木刀を振り下ろす。

 駆け引きも何も無い速さだけの単純な唐竹割りなど、防ぐか横に避ければおしまいだが、師弟ともなれば手の内は読める。

 ヤトが横に避ければ、振り下ろされる剣の軌道が途中で中段の突きに変化して、鳩尾に喰らい付こうとする。

 この技は知っている。剣を払い除けようとしたが、さらに太刀筋が変わり、上へ跳ね上がって再び頭に振り下ろされた。ヤトの知らない三段変化の妙技、臣陰流『朧月』である。

 剣を空振ったヤトに成す術はない。

 次の瞬間、宙に舞っていたのは半ばまで切られた綱麻呂の木刀だった。

 何の事は無い、ただの反射で最後の切り下ろしを防いだだけ。


「……某の負けでございます。ですが最後の気功術は余計ではありませぬか」


「逆ですよ。気功を使う暇が無かったから剣を斬ってしまったんです」


 奇妙な言い回しに理解が及ばない。

 ヤトは話があると言って師を鍛錬場から連れ出した。


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