第11話 炎の奪還劇
ダリアスの領主ダイアラスはその晩、一秒も寝付けなかった。
原因は一人の傭兵剣士の行方を掴めなかった事にある。
最初はすべて計画通りだったのだ。慌てて逃げ帰った『混じりもの』の王女を首尾よく捕えて、残りもほぼ監禁した。一人使用人が逃げたのは部下の怠慢だが、それぐらいは寛大な精神で赦してやるつもりだった。
あとは素性の知れない傭兵の若造をギルドの手で始末すれば、全てが上手くいくはずだった。なのに傭兵ギルドは血の海だ。
協力者の支部長ゲドも行方知れず。ギルドがあの様子ではおそらく死んだのだろう。そして生き残りの話では剣士は金だけ奪ってどこかに消えた。金が目的の傭兵なら放置すれば十分。どうせ誰も話を聞きはしない。
そのまま金を持って街から出て行ってくれれば良いが門衛からの情報は無い。きっとまだ街に潜伏しているに違いない。
ただの傭兵の若造一人恐れる理由など無いはずなのに、奴を見た時から今もずっと首筋の寒気が消えない。どれだけ酒を飲み、温かい物を食べても寒さは止まる事が無かった。
「もうすぐ夜が明ける」
あの傭兵が王女を奪い返しに来ると予想して、館の兵には寝ずの番で警戒に当たらせたが、どうやら杞憂だったらしい。
よくよく考えなおせばただの傭兵が領主に敵対してまで王女に義理立てするはずがない。相手は命を惜しむ金目当ての傭兵だ。ほとほりを冷ましてから大金を抱えて街を出ていく。そうだ、そうに違いない。
ようやくダイアラスは晴れやかな気分になった。こんな気分はここ数年味わった事が無い。
彼はベッドから這い出て、素晴らしい夜明けを眺めるために寝室の隣のバルコニーへ出た。
外はまだ昏く、夜の冷気が身に染みる。しかしそれが心地よく、首に残る寒気を覆い隠してくれた。
清々しい勝利の余韻に浸るダイアラスは、ふと嗅覚を刺激する臭いに気付いた。下から上へと昇るそれは、嗅いだ事のある臭い。
「はて、焦げ臭いな。風向きがいつもと違うのか」
臭いは薪が燃える臭いに似ている。きっとパン屋が竈を温めているのだ、そうに違いない。
呑気に朝食のパンに思いを馳せていたダイアラスだったが、次第に臭いどころか目に染みるほどの煙が昇ってきているのに気付いて焦り、慌てて手すりから身を乗り出して周囲を見渡すと、屋敷の近くの家が派手に燃えていた。
「火事だー!!」
悲鳴に気付いた周辺では住民達が慌てて逃げ出し、中には水桶を持って必死に消火作業に当たる者もいた。
「まったく。せっかく私が良い気分になっていたというのに無粋な」
ダイアラスにとって館から離れていて延焼の心配も無い平民の家が一軒燃えた程度、少し派手な焚火でしかない。そんな些事で気分を害す平民など焼け死んだところで構わなかった。
問題は時間が経つにつれて、燃える家屋が増えている事だ。一つ、二つと増えていき、今では眼下に五軒の火事が確認出来た。こうなると区画全体が延焼する危険性を孕んでくる。
呆然とするダイアラスは、けたたましく扉を叩く音で我に返った。
扉を開けると家臣の一人が血相変えて報告した。
「お休みのところ申し訳ありません!ただいま街のあちこちで火の手が上がりました。住民から領主様の兵を救援に向かわせてほしいと嘆願が来ております!」
「―――――ええい、分かった!但し、客人の護衛にそれなりの数は残しておけ!」
「はっ!」
家臣が去った後、慌ただしくなった館。ダイアラスは脳裏に最悪の展開が思い浮かぶ。その悪夢を振り払うために、彼は急いで行動を開始した。
ダイアラスが慌ただしく駆けずり回る使用人を押し分けて向かった先は客間の一室だ。
扉の前で直立不動で守りを固める二人の兵士は主の姿を見て敬礼するが、その主は一秒でも惜しいとばかりに兵に扉を開けさせた。
「ご機嫌麗しゅうサラ王女。当家のベッドは快適でしたか?」
「ベッドは良い物ですが、館の主の品格に見合った物ではありませんね」
開口一番の挨拶に対して、サラはありったけの侮蔑をもって返答した。蔑まれた男は懐のナイフに手を掛けようとしたが、自称寛大な心で自重した。そして気を取り直してにこやかに笑う。
「元気があって結構。さて、朝食をご用意したいところですが、あいにくと今は立て込んでおります故。別の場所に移っていただくやもしれませぬ。平にご容赦を」
「まるで夜逃げような慌ただしさですね。いったい何に追い立てられているのかは存じませんが器が知れますよ」
「これは手厳しい。ですがこれも貴女様のためでございます」
「そもそもヘスティと手を組んで平穏を壊して戦乱を望むというのに、ただの火事に狼狽えるネズミ風情が何を言う」
「―――――調子乗るなよ『混じり物』。私の慈悲で生かされているのを忘れているようだな」
怒気を漲らせて一歩一歩近づくと、小生意気なメス犬は顔を強張らせて後ずさる。
その怯えに気を良くした絶対者は打って変わってにこやかな笑みを取り戻した。最初から従順にしていれば怖い思いをせずに済むのが分からない犬には鞭が一番効果的だ。
悔しそうに睨む子犬は時として愛おしくすら思えた。
こんな犬でも王の血を引く大事な駒。いざとなったらこいつだけでも連れて隠し通路から逃げねばなるまい。
「街の方が少々騒がしいですがじきに収まりましょう。あとで朝食を――――――――」
「館に煙がっ!火がこっちにもきたぞー!!」
誰かが恐怖に怯えながら叫ぶ。館内からあちこち煙が立ち込め、サラの客間にも流れ込んできて咳込んだ。煙が染みて目を開けている事すら困難だ。
誰もが本能的恐怖からパニックに陥り、我先にと逃げ出そうとした。
兵士も逃げ出したかったが、目の前の主人を放ってはおけず避難を促そうとした。しかし後ろからの強烈な衝撃で意識を失う。
代わりに煙と共に客間に入ってきたのは口を布で覆ったヤトだった。
「ヤトさん!」
「助けに来ましたよ。そっちの領主はどうします?殺します?」
ヤトはまるで朝食の卵の焼き方を尋ねるかの如く軽い調子で殺人を口にする。相変わらずの調子にサラは呆れていいのか喜ぶべきか迷った。
対してダイアラスは抜き身の赤剣を見て恐怖した。この騒動は全て自分を殺すためのお膳立て。逃げ場は完全に塞がれた。直感的に唯一の逃げ道は『混じり物』を人質にして逃げる事だと気付いた。反射的にサラの方を見ると、鼻先に剣の腹が見えた。
「鼻毛が伸びていますが、切って差し上げましょうか?それともまつ毛の方が好みですか?」
「待ってください。殺さないと約束したのを忘れたんですか!」
「分かっているから首を飛ばしていないんです。鼻や目が無くても人間は死にませんよ」
致命的に話の論点がズレているが、この場においてはそれが利をもたらした。
眼前に剣を突き出され、明らかに拷問を目的とした会話を聞いてしまったダイアラスは、昨夜一睡も出来なかった疲れと相まって恐怖で失神した。
勝手に倒れた男を前に二人に微妙な空気が漂ったが、どんどん増える煙によって我に返ったサラが、まずは逃げる事を提案した。
仕方がないのでヤトは失神したダイアラスを担いで館の兵士に紛れて逃げる事にした。
サラは顔と犬耳を隠すためにフードを被っているのですれ違っても誰も気づかない。
「もしかしてこの煙は貴方が?」
「ええ、でもただの煙玉ですから火事の心配はないですよ」
「それでも無茶です。まったくもう。―――でも、ありがとう」
口では色々と文句を言うが、それでも助けてくれたヤトに感謝と共に柔らかな笑みを向ける。
煙の中、首尾よく館を抜けた二人と担がれたダイアラスは人目を避けて、近くの家に入った。そこにはマオとフード被った盗賊ギルドのカイルが居た。
マオは思わずサラに抱き着いて涙を流す。
「ああ、姫様。ご無事でよかった」
「上手くいきましたねヤトさん」
「まだ半分ですよ。これからアルトリウスさんと他の使用人を連れてこないと。こっちの領主は適当に縛っておいてください」
無駄に重いダイアラスを無造作に床に転がしたヤトは煙が残る館へと引き返した。
そして火事の鎮火に駆り出された兵士が戻ってくる前に残りの人質を全員連れて帰った。
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