第86話 導き(2)

北都は


朝一番の新幹線で東京に戻り、普通に出社したので


ゆうこは驚いた。


「社長。 お疲れじゃないですか?」


「いや。 大丈夫。」



いつも言葉は少ないが


彼の顔色を見て、様子がわかるようにはなってきた。



疲れているのだろうが


心なしか


嬉しそうな表情だった。




そして


何もせず


1週間を待った。



約束どおり



1週間後の午後8時。



北都のデスクの電話に


彼から電話があった。




「今、支社長の仕事でかかっているものがあります。 7月の半ばくらいには終わるので。 それを待っていただけますか、」




やっぱり



北都はふっと微笑んだ。


「ああ。 支社長にはおれからもきちんと話をしておくから。」




もう


1週間待って欲しいと言われたときに


彼が受けてくれると確信していた。


自分なりの整理をつけて


決心をしてくれたんだろう。



「ありがとう。」


北都は自然にその言葉が出た。



「社長からそんな言葉を頂くようなことではありません。 サラリーマンですから。 この命令が受けられなかったら会社を辞めるだけです。 まだ路頭に迷いたくないので。」


素直じゃないな、



北都は彼の心の中を


見透かしたようにそう思った。




「え? 事業部の責任者の人、決まったんですか?」



真太郎は少し驚いた。



「恐らく。 7月の終わり頃に来ることになるだろう。」



「どんな、人なんですか?」



「大阪支社の。 支社長秘書をしている男だ。」



北都の言葉に真太郎は意外な顔をした。



「秘書・・?」




当然、その筋のところから連れてくるものだと思っていた。



「音大の指揮科を出ている。 いろいろあって秘書課に配属されたが。 やってくれる男だと思う、」



「大阪支社長の秘書の方はぼくも面識がなくて、」



「ああ。 ヤツは表には出ないから。 今、秘書課のチーフもしている。 30くらいになるだろうか。 自分は裏で指示をするだけで、他の秘書たちに仕事をさせたりしてるし。」



「30で・・チーフを?」



「詳しいことはまた彼が来てから。 とりあえず、決まったことだけ伝えておく。」



北都は部屋を出て行ってしまった。





「そっか。 決めたんか。」


紗枝は頬づえをついて言った。



「悲しいけどサラリーマンやしな。 社長から言われたら、断れへん。 結局。」


志藤はコーヒーにミルクだけを入れて、スプーンでかき回した。



「ま。 頑張ってな。」


紗枝は投げやりにそう言う。



「冷たいな、」


志藤はふっと笑う。



「あたしはホンマに関係ないし。 あんたがどこへ行こうと。 ああ、でも。 女の整理だけはしていった方がいいわよ。 東京まで追っかけてく子もいてるかもしれへん、」


紗枝はイジワルくそう言って笑った。



「アホなことを。 おれは別に疚しいことないし。 そんな深くつきあってる女もいてへんし。」



「あんたは本気にならへんもんな。 どっこも見てへんもん。 いっつもめっちゃ遠いトコ。 見てるし。」



小さなため息をつく彼女に



「もうたぶん。 こっちには戻ることはないやろ。 安心せえ、」



志藤もふっと笑った。




「・・ちゃんとお父さんお母さんにも言ったの?」



「言ったよ。 でも、なんも言わなかった。 『そうか。』って。 もうおれのことは諦めてるんちゃうんかな、」



「それでも。 一人っ子長男やん。 もう戻らないなんて簡単に決めてええんかって、」



「ここを離れてはいけない気持ちと。 もう出て行かなくてはいけない気持ちと。 両方やねん。 『あいつ』にも簡単には会えなくなってしまう、」




寂しそうに窓の外を見る彼に


紗枝は言いようのない虚しさを感じていた。




こうして


志藤の運命の歯車が動き出した。

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