ケルベロス
うるさいうるさいうるさいうるさい 。あなた達はもういないのよ。ミキとマキ、あなた達はもういないのよ。どうして私に構うの? どうして私に話しかけてくるの?
五月蝿い。
数ヶ月前に私の三つあった頭は、ひとつを残して切り取られた。人間を信じて亡命を決めたのは間違いだった。
番犬ケルベロスは何日だろうと何年だろうと、眠ることなく三つの頭で活動が出来る。頭をひとつにされても私は変わらない。
左右の頭には、ミキとマキという名前があった。ふたつは私の意識を宿した小脳のようなもので、ただの補佐役だと思っていた。一般的に思われてるように。
大事なことは全部私が決めたけど、感情的な決めごとはミキ、事務的なことはマキに任せていた。
番犬の仕事は門番と、ちょっとした害獣を追い払うこと。たまに花壇を手入れしたり、農作業を手伝うこともあった。
ミキとマキは食事もオス犬の好みもバラバラでよく揉めていた。私はいつも仲介役だった。
『だめよ、あんな男。鼻は潰れてるしお腹も出てるじゃない』
『ミキは黙っていて。彼は狩りが上手いし体力があるわ。ミキにはそういう魅力が分からないのよ。ベスもそう思うでしょ』
「もう黙って。大事なことは私が決めるわ。いちいち揉めてたら、いつまでも恋愛なんて出来ないわ。頼むから黙ってて」
ふたりは分かりきったことを、ずっと私に言ってきた。子供のころがらずっと。食べ残しは駄目とか、食べ過ぎれば太るとか。
不満を言うこともあった。ミキは女性らしく優しかった。マキは品があったけど、プライドも高かった。
『やってられないわ。わざとこんなくだらない仕事を私に与えているわね。難しい仕事を与えたら私の方が上手くやるから?』
「なにそれ、本気で言ってるの」
魔界はとにかく門がたくさんあって難しい手続きも数知れなくあった。そういう仕事はなるべく自分でやった。
『最近は人間が偵察にくることもあるそうよ。大事な仕事よ。シフトが嫌なのね?』
「居眠りしてるくせに」
『ベスが起きてるから寝たのよ。嫌なのは芋掘りとか雑草抜きよ』
「どうかしら。雑草以外も抜いてたくせに」
『簡単すぎる仕事が嫌なの。私を馬鹿にしてるわ。作物の仕分けなんていいわね。つまみ食いもしほうだい』
「ちゃんと出来てから言うべきよ」
『ちゃんと出来たら代わってあげる』
私は強い魔物じゃなかった。だから口数が多かったのかもしれない。門外まで狩りに出たときのこと。
『おやおや、狩りで足が震えてるわよ』
「武者震いよ」
『嘘よ、血を見るのが怖いのよ。ベスはかすり傷で失神したのよ』
「ついつい正気を失ってたわ」
ひとつの身体に三つある頭。喜びも三つ、ため息も三つ……それが当たり前だった。
「ごめん、私が頼りなくて」
『ううん、逃げる動きは良かったわ。ベスはジグザグに走るのが上手いから』
「あなた達が黙ってくれないからよ。ミキはこっち、マキはそっちって」
『人間からは真っ直ぐ逃げちゃ駄目よ。魔法を撃ってくるから。覚えておいて』
「全速力で逃げることには、ふたりとも賛成なのね」
『……ええ』
『もちろん』
他の魔物よりマシな方だと思った。腕や目を抉られるよりマシだと。
地下牢獄で、魔物たちは絶望の中にいた。そこで、同じように牢獄に捕らわれている変わった人間に出会った。
囚人スルトは言った。人間は都合の悪いことを全て魔物のせいにして、君たちを殺す。だけど魂だけは殺せないと。
そこにもう、ミキとマキは居なかった。失なったのは知識でも記憶でもない、心だった。だから私はスルトと契約を交わした。
死後の契約だった。もう死ぬのだから、どうだっていいと思った。なのに、私の枕元にはミキとマキがいつものように現れた。
『ベスが決めたんだから、文句はないけどさ。私もマキも復讐してなんて頼んでないからね』
うるさい。
『ねえ、私たちは別に死んでないのよ。ベスと一緒に生きてるの。だからベスが餓鬼界に落ちるのは賛成しないわ』
五月蝿い。
『あんな猟犬がいいの? 足が短いし頭も悪そうじゃない。でも……きっと私たちの事が好きなんだわ。ちょっと可愛いわね』
うるさいってば。
『だから言ったじゃない。あの猟犬は、優しいし強いわ。私は最初から分かってた。絶対にいい旦那さまになるわよ』
余計なお世話よ。もう私には未来なんてないのよ。この醜い身体で何を期待するの。
『私たち、彼が好きよ。ちょっと馬鹿だけど彼の……彼の独特な価値観っていうのかな。本当の強さって何だろうって気づくの』
もう……もう止めてよ。
『スルトに逆らえないんでしょ。大丈夫よ、ベス。ひとつの心を支配されても、私たちは支配出来ない。でしょ?』
あなた達はもう、いないのよ。
『いるよ。私たち、ずっとベスと一緒にいる。だから安心して。私たちが付いてるよ。心は三っつあるんだから』
もう、戻れないわ。みんな、みんな死んでいったじゃないの。
『まだ、間に合うわ。猟犬ガルを信じて。私たちを信じて』
大事なことは自分で決めるわ。
『全部、自分で決めなくていいのよ。時には相手を信じることも大切よ』
「………そうね、私はケルベロス。三つの頭を持つ魔界の番犬。門番がよそ者に支配されることなんてことは、ありえない」
私はスルトの操り人形じゃない。私にはミキとマキがついてる。私には三つの精神が宿っている。簡単に支配されない。
身体がいうことを聞かない。なんとか守護騎士も、剣闘士もギリギリで急所を外して攻撃することが出来た。
もう誰も死なせない。まだ、身体はいうことを聞かないけど、負けないわ。彼に…ガルに私を殺してもらうまで。
黒い球体。それは禁忌の魔術マグネティア。身体中の魔力が目の前の球体に吸いとられていくみたいだった。
『さよなら、ベス。ガルを信じて』
『お別れだけど、またすぐに会えるふりをしましょ。そのほうが寂しくないわ』
「ええ、ええ……また、後で会えるもの。またね、ミキ。じゃあね、マキ」
ミキもマキも、私の中から消えていくのが分かった。そして、マグネティアは半径四十キロを暗闇で包み込み、全てを無に返す。
これは魔法なんてレベルのものじゃない。中性子が高速回転し電磁波を巻きおこす。命を巡らせる信号、脳や身体を動かす電気信号がすべて消え去り、全ての生物は活動を停止する。
これに比べたら火炎や雷の魔法なんて、ただのお遊びに過ぎない。まったく次元が違う。この魔法の前では体力も魔力も、何の意味も持たない。
「ごめんね、ガル。私を殺して。そうしないと、周りにいる騎士も、剣闘士も、神父さんも、街のひとも、魔物も、子供も、貴方も……」
『言わなくていい』
「ごめんね、ガル。私が間違ってたわ。だから、貴方を愛してるから、殺して欲しいの」
『分かってる』
「ぐすっ……ありがとう……殺してくれて」
『そいつはどうかな。俺の第二形態は知ってるよな。まえ、少しだけ話したろ』
猟犬ガルの第二形態。それは強さを求め続けた彼の過去。硬質化によって、ただの塊になってしまうという間違った強さ。
「だ、駄目よ。闇は全てを無に変えるわ。どんなに硬い物質だってそれは同じ」
『信じろよ。俺の意思は硬い』
「戻れないわ。貴方は、深淵でひとりになることを何より恐れたじゃない」
『だから、頼む。俺に勇気をくれ。俺に愛を』
「ば、ばかぁ、駄目よ。絶対にだめっ」
『………あばよ、ベス』
「どうして、どうして殺してくれないの。私がいけないのよ、私が死ねば皆が助かるのよ」
『…………君は綺麗だ』
ガルは球体を飲み込んで、硬く……硬く変化していった。何よりも、世界中のどんな物質よりも、硬く変化した。
風が巻き上がり、積乱雲が雨を降らせた。まるでガルが泣いているみたいだった。ガルが苦しみ、もがいているみたいだった。
黒い雲にカミナリが鳴り響き、
ずっと、ずっと、何時間もずっと。
彼の形をした、大きな塊を見ていた。偉大な猟犬だった黒い塊を見ていた。私の愛した、何よりも強く、硬い、本物の勇者を見ていた。
愚かで醜いケルベロスは、天高く遠吠えをあげたが、それは雨と雷に打ち消された。
やがて空は静寂を取り戻し、雲間に光が差し込んだ。魔物も人々も、知っていた。彼によって、自分たちと家族の命が救われたことを。
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