#18:第8日 (7) 決断

 5時まで待ったが、マルーシャは戻って来なかった。

 けれど、私はウィーンへ行く。そう決めていた。

 演奏会コンサートの舞台に立ち、演奏を終えた私の前に、マルーシャが現れて、いつもの優しい笑顔で祝福してくれる。そう信じて。

 それを、マドモワゼル・シャイフも賛成してくださるだろう。ミセス・ナイトも、そしてあの方も。

 私は新たな旅に出るべきなのだ。新たな出会いを求めて。

 時にはトラブルに遭うこともあるけれど、私はそれを解決できるようにならなくてはいけない。私一人で。

 きっとできるだろう。あるいは親切な方が現れて、助けてくれるかもしれない。私がどうしても事態を解決したいと思い、力を尽くすならば。

 私の行いを見ているのは、神だけではない。周りの人も見ている。そして自分自身も。

 真摯に、精一杯の力で取り組めば、目の前の道は必ず開ける。

 今回に限れば、私はマルーシャを見つけることができなかった。けれど彼女は、私に見つからないように行動しているのだろう。彼女が心に秘めている、特別な理由によって。

 その時に私が取るべき行動は?

 私が彼女を追うのではない。彼女が私に姿を見せたくなるように振る舞うことだ。

 世界のどこに私がいても、彼女はきっと私のことを見てくれている。そして私が努力し、成功を掴むのを待ってくれている。

 さあ、行こう。次の舞台ステージへ。

 私は荷物をまとめて部屋を出た。マルーシャの分は、またロジスティクス・センターに送っておこう。

 フロントレセプションでチェックアウトの手続きをする。飛行機の状況も確認する。全て予定どおりだと。

 ミセス・ナイトとあの方は、見送りに現れてくださらなかった。でも寂しくはない。私が予定を変更してここへ来て、お会いすることができた。その喜びは、この寂しさを補って余りある大きさだから。

 お別れのメッセージを残して行こうか? それもやめておこう。メッセージは次に出会う時まで取っておけばいい。

 どうしても……もしどうしても彼らに聞いていただきたいことがあるなら。その時は、マイアミへ連絡することにしよう。私が次に彼らに会うのは、そこになるだろうから。

 マドモワゼル・シャイフとは、次にどこでお会いできるだろうか。それはきっと、彼女の曲が完成した時だろう。楽譜を私に送ってくださるに違いない。私がそれを演奏会コンサートで披露する時、彼女も聴いてくださるだろう。客席に座ることはなくても、密かに会いに来てくださるに違いない。私はそれが、今から楽しみでならない。

 タクシーに乗り、空港へ向かう。ドゥブロヴニクの町は、ほとんど見ることができなかったけれど、またいつか来ればいい。

 私が信じている限り、その日はきっと来るのだから。



 船は旧市街横の波止場に無事到着。時間が時間だけに、人気ひとけは全くない。観光船を待っていたら、この季節の第1便は10時ということなので、ずいぶん助かった。船乗りセイラーに礼を言ったが、本来はマルーシャから言われたかったろう。

 そのマルーシャは、まだ意識が戻らない。シェラトンまでタクシーで送り返してやってもいいが、それだと彼女はゲートから退出しようとしないかもしれないので、どうしようかな。

「ヘイ、船乗りセイラーシンドバッド。その淑女を連れて行ってやりたいところがあるんだが、頼まれてくれるかい」

「どこへ?」

 彼はきっと自宅へ連れ込みたかったろうが、それは期待するだけ無駄というものだ。

「俺とマイ・ワイフはシェラトンに泊まっているんだが、そこへ彼女を連れて行ってやろうと思う。しかし俺はこれから寄り道しないといけない。だから彼女だけ一足先に、船で運んで欲しいんだ」

 シェラトンの南の船着き場へ。船乗りセイラーは場所を知っていたので、駄賃を払って、後は任せる。不埒な考えを起こさないことを望む。

 俺と我が妻メグは、ペネロパを連れて船を降り、夜明け前のストラドゥンを通り抜ける。波止場と違って、意外に人通りがある。クロアチアは朝7時くらいから仕事を始めるところも多いからだそうだ。我が妻メグはなぜかそんなことまで知っている。

 ピレ門をくぐり、ブラニテリャ・ドゥブロヴニカ通りから折れて、グラダツ公園の方へ向かう。もちろん、その近くの廃墟教会にミリヤナたちが監禁されていると考えているから。

 坂を登り、公園を通り抜け、教会へ至る。さて、連中の見張りはいるか。

「誰もいないみたいだわ」

 我が妻メグが俺に身体を寄せながら言う。君、この廃墟は怖くないのか。人間より嗅覚が鋭いペネロパも、特に反応なし。ただし、探すべき匂いを嗅がせて「追いかけろ」とでも言わない限り、何もしてくれないと思う。

 とりあえず、教会へ入ってみよう。廃墟と思っていたが、意外にもしっかりした木の扉が付いていて、錠まで掛けてある。ウォード錠なんていう古くさい代物だけれど。

 こんなの開けたって、嬉しくもない。ピック1本で5秒で片付けた。扉を開けると人の気配。そしてペネロパが一吠え。ランタンで照らす。狭い内部の、祭壇の前に人影が座り込んでいる。

「ヘイ、ミリヤナ!」

 返事がない。が、ペネロパが駆けて行く。サーニャたちの匂いを嗅ぎつけたのか。急いで祭壇まで行くと、3人が座り込んでいた。ミリヤナがようやく気が付いたようだ。まさか、寝てたのか。

「アーティー! 助けに来てくださったのですね。嬉しいですわ」

「見つけられてよかったが、外に誰もいなかったぞ。どうなってるんだ」

「私にも解りませんわ。悪者たちは“地獄の犬の咆哮”を聞いて逃げたのかもしれません」

「何だい、それは」

 この時期の季節風で、例のホテルの廃墟から咆哮のような気味の悪い音がするらしい。もちろん共鳴のせい。風向きによっては、この辺りまで聞こえるそうだ。情けない連中だな。頭目を失ったから、というのもあるから解らないでもないが。

 手枷を切ってやりながら、あの後のことを聞く。ボートが出るのを見送った後、ここへ連れて来られて……そのままほったらかし? まあ無事でよかった。

「アーティー!」

 今頃になってサーニャが気が付いて、俺に飛び付いてきた。「無事でよかった」と言って……どうすればいいんだ。犬みたいに頭を撫でてやるのか? ヨシップは、我が妻メグが抱きしめている。

「二人とも泣きながら眠ってしまったんですが、サーニャは寝言でときどきあなたの名前を呼んでいましたわ」

 ミリヤナが耳打ちしてくれたが、俺は君も寝言で俺の名前を呼んだと思うね。

「全員動くな!」

 せっかく無事を喜び合っているのに、場違いな声。しかも聞き憶えのある、癖の強い英語。シャイフ氏。また来たのか。ゆっくり振り返ると、戸口にシュマーグを被った人影が立っていた。

 ミリヤナたちに座っているように言い、俺一人が立つ。「動くな」という言葉を無視しているが、どうせ撃ちやしないだろう。

「今度は何の用だ」

「その犬をこちらによこせ」

 またかよ。

「それは犬に直接言ってくれ、と言ったはずだぜ」

「では犬だけ残して、ここから出て行ってもらおうか」

 動くなと言ったり、出て行けと言ったり、ずいぶんと身勝手な要求を出す奴だ。だが、銃を突き付けられているのでは抵抗しない方がいい。俺はともかく、他の誰かが傷付けられるのは困る。それでも奴にはペナルティーがないんだから、やるかもしれない。

「ヘイ、サーニャ、ペネロパは『待てステイ』や『伏せライ・ダウン』はできるのかい」

「できるわ。でも……」

「ここはおとなしく言うことを聞いておくんだ。奴はペネロパに危害を加える気はないよ」

 単にターゲットかどうか確かめたいってだけだろ。カシオペアが外れだったから。でも、ペネロパも違うと思うんだけどね。もう一頭いると思ってたんだ、俺は。それが真のターゲットだよ。

 サーニャが「伏せレチ」と「待てチェカティ」でペネロパに言うことを聞かせる。それから皆を立たせて教会の外に出る。入れ替わりにシャイフ氏が入ってきた。サーニャは何度も振り返って、ペネロパに「待てチェカティ!」と言っている。ペネロパは低く唸りながらじっと我慢。

 出たら、扉を閉めてやった。シャイフ氏は獲得の宣言をするつもりだろうが、たぶん失敗するだろう。案の定、1分も経たないうちに出てきた。そのまま立ち去るのかと思ったら、俺に銃を向けて「他の犬はどこだ」と訊いてくる。

「知らんね。自分で探せよ。犬笛を吹きながら、町の中を走ってみたら?」

 ハーメルンの笛吹き男みたいにさ。もうやった後かもしれないけどな。シャイフ氏は「ふん」と鼻を鳴らしただけで、立ち去った。俺に探させるより、自分で探す方が効率がいいと思ったのだろう。あるいは心当たりでもあるのか。

「サーニャ、もうペネロパを呼んでいいぞ」

「ペネロパ、来いドチ!」

 サーニャが言うと、ペネロパはすっ飛んできて、サーニャとヨシップに抱きしめられている。

「他の犬はどうなったのです? 本当に判らなかったのですか?」

 ミリヤナが訊いてきた。さて、どこまで説明したものやら。

 犬の訓練と実験をしている連中は確かにいた。島にその本拠があった。しかし俺の他にも調査をしている者がいて、連中は後始末を最後までできず、やむなく島を去った。実験を終えた犬はどこかへ連れて行かれた後だった。

 こんなところかな。

「ではやはり正義は私たちの側にあったのですね」

「そういうことだ」

「他にも調査していた者とは、先ほどの男ですか」

「そういうことだ」

「他の犬はともかくとして、ペネロパが無事に戻ったのは大変幸運でしたね」

「君たちに怖い思いをさせて申し訳なかったと思ってるよ」

「とんでもない。恐怖のために正義が行われず、科学がないがしろにされるなどということがあってはならないのです。私は当然のことをしたまでですし、危険を受け容れる覚悟もありましたから」

「私だって同じよ。ヨシップも……」

 サーニャが偉そうに言うが、君、泣いたんじゃないのかね。頬に涙の跡がたくさん付いてるぜ。

 ともかく冒険は終了、退却だ。我が妻メグが運転する車に乗って、シェラトンへ向かう。途中でミリヤナの家に寄り、彼女を降ろして別れの挨拶。

「シミュレイターの保守要員を確認する件、よろしくお願いしますわ」

 心得た、と答えるが、連絡ができるとは到底思えない。続いてサーニャたちのヴィラへ。今回のことを、あまり両親には吹聴しないように、と二人に言い聞かせたのだが。

「言っても平気だと思うけど、一応、明日以降にするわ。その代わり、この後、ホテルであなたの研究のお話を聞かせてくれる?」

 サーニャがまた無茶な要求を出してきた。いろんな意味で貪欲だなあ。

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