#18:第7日 (16) 淑女の決断力

「犬が逃げた、と言いながら奴は出て行った。タリアはしばらくあのままにしておいても大丈夫と思ったんだろう。だから、ここへは当分誰も来ない」

確かにそうだわシュア・イット・イズ

「だから彼女はここへ残しておく方がいいんじゃないか」

「でも真っ暗闇の中に一人なんて」

 そうは言っても、灯りはランタン一つしかないんだからどうしようもない。俺のペン・ライトはボートに乗る前に取り上げられたし。

 そういえばマルーシャはどこへ行ったのだろう。俺より先にここへ下りてきたのは間違いないが、ペネロパとカシオペアを見逃したのだろうか。あるいはターゲットとなる他の犬を探しに行ったのか。

 下りてきたところの分かれ道で、右へ行った? そっちにはコート男たちがいたんじゃないかなあ。でも彼女なら、進んで窮地に飛び込んでいく気がしないでもない。

 とはいえ、そうなるともっと大騒ぎになってもいいはずで……階段を上がってきた足音は、マルーシャの襲撃から逃げてきた連中のもの? でも走ってはいなかったはず。

 それにさっき飛び込んできた男は、何を確認しに……うむ、よく解らん。

 気が付くと、我が妻メグが俺の顔をじっと見上げていた。そんなに長く考えごとをしてたのか?

「あなたの考えている顔って、素敵だわ」

 余計なことを言うんじゃない。結局何も考えがまとまらなかったんだから。

「やはり彼女は置いていく。先に出口を探すんだ。入ってきたのとは違う出入り口があるんじゃないか」

「そうね。地下にこんなに広い空間があるなら、きっとそうだと思うわ。地震で出入り口が崩落したら、大変なことになるもの」

「それにここは……ロクルム島だと思うんだが、山の上に城塞が作られているんだ。その近くまで洞窟がつながっているかもしれない」

「ロクルム島だったの。あなたが興味を持っているなら、もっとよく調べておくべきだったわ」

 君と同じ姿をした人から聞いたんだけどね。でもどうせ洞窟のことなんて調べても判らないと思うよ。ガイドブックに載ってるわけがない。仮想世界特有の設定なんだから。

 とにかくタリアは置いていく。ついでにカシオペアも置いていく。犬2匹はさすがに制御しきれない。我が妻メグはカシオペアにクロアチア語で何か話しかけている。飼い主をちゃんと守るのよ、とかかも。彼女なら犬語もしゃべれそうな気がしてきた。

 扉をゆっくりと開けて、外の様子を窺う。人の気配はない。滑り出て、廊下を来た方とは逆へ。さらに奥を目指す。が、程なく突き当たり、廊下は右へ曲がっている。

 そして十数ヤード先にぼんやりとした灯り。目を凝らして見ても、光が弱すぎてよく判らない。足音を立てないよう、慎重に進む。犬はやけにおとなしい。我が妻メグにぴったりと寄り添い、まるで護衛ガードのようだ。

 ようやく先の様相が判ってきた。丁字路で、左右に伸びる廊下と合流しているのだ。光はその右から来る。つまりそちら側に撤収中の“広い部屋”があるということか。

 しかし音が何も聞こえないのは不思議だ。風は止んだのだろうが、誰もいないのか。怪現象が発生したので、外に避難した? そんな悠長なことしてる場合なのかね。

 ゆっくりと合流点に近付く。ランタンの光が漏れないようにしながら、右の廊下を覗く。先の方の、右側の壁から光が漏れている。そこが“広い部屋”か。中で人が動けば灯りが揺らめくと思うのだが、そんなことはなさそう。もちろん、音もしない。そっちへ行ってみてもいいのだが……

 振り向いて、左の廊下を見る。すぐ先で階段になっているじゃないか。上へ登れそう。出口を確かめに来たんだから、そちらへ先に行くべきかも。

 顔を引っ込めて、我が妻メグに状況を説明する。「左へ行くのがいいんじゃないかしら」と我が妻メグが言う。

「こういう時は、先に退路を確保するものなんでしょう?」

 そのとおりだけどさあ。君、泥棒みたいなことを言わないでくれよ。

 とにかく左へ行くのは決定。さっきも我が妻メグの勘に頼った。別に彼女に責任を押し付けるわけではなく、他の理由がないなら彼女が納得する道を採る方がいいというだけだ。

 ひときわ足音を忍ばせながら、廊下を左へ。そして階段を登る。やはり音を気にしながらゆっくりと。下りてきた階段同様、螺旋状に曲がっている。下りた深さと同じくらい登ったんじゃないか、というところまで来ると、また分かれ道に出た。

 右はすぐ先に鉄の扉がある。何となく、そちらの方が出口に近い気がする。左は先が見えにくい。

 さて、困った。洞窟の探索をするには、分かれ道に備えて香水を持っているとよい、というのは前回のステージでよく判った。しかし今は香水を用意して来ていない。我が妻メグももちろん持っていないだろう。

 そういえば最初に閉じ込められた部屋で、見張りがマルーシャに入れ替わっていることに気付いたのは、彼女の香水が匂ったためだ。近付いてきた時だが、彼女の身体からではない。おそらく彼女が、香水瓶から俺の鼻先に撒いたんだ。なんて用意のいい女。

 それはともかく、アイテムがないときには、やっぱり我が妻メグの勘に頼るしかないのか。意見を聞いてみる。

「右はたぶん、すぐ出口がありそうな気がするわ。でもそっちには……」

「連中がいる? 出たところで待ち受けてるかな」

「そんな気がするの」

「じゃあ左の方が城塞に通じていると」

 自信がないのか、我が妻メグは曖昧な笑顔を見せるだけ。しかしそういう時に決断するのが俺の役目だろう。左へ行く。

 少し先で、また丁字路になっていた。右へ行くか、左へ行くか。

 ランタンで先を照らす。右は平坦だが、左は緩やかな上り坂になっているようだ。山頂の城塞へ通じているとすれば、こちらの方か。距離はどれくらいあるだろう。地図もないので、とりあえず行ってみるしかない。

 進むごとに傾斜がきつくなってきた。どうやらボナンザのようだ。途中からは天井が低くなって、アーチ状でなくなった。狭い洞窟だったのを人が通れるように広げたのだろうが、工数を節約したのか。

 階段が現れて、登ると上り坂、その先にまた階段。200ヤードは進んだと思われるところで、鉄の扉に行き当たった。

 これはさすがに開けなければならないだろう。閂だけで、錠は掛かっていない。閂を外し、きしる鉄扉をゆっくりと開ける。石造りの狭い地下室。そして螺旋階段。空気が外のものに変わった。冬の冷気だ。

 階段を上がる。円形の広間。小さな覗き窓がある。そこから冷たい風が入ってきている。

 さらに階段を上へ。また狭い部屋だが、出ると天井がなくなった。夜空だ。満天に冬の星座の配列。城塞の上に出た。そして低い壁の向こうに……

「ドゥブロヴニクの町の灯りだわ!」

 我が妻メグがほとんど歓喜の声を上げる。暗い海の向こうに、細い帯のような町の灯り。下は光が濃く、上は薄い。帯の上はスルジ山だろう。山頂のレストランはまだ営業しているのか、灯りが点いている。あそこから誰か、こちらに気付いてくれないものか。このくらいランタンでは、無理だろうなあ。

 地下道へ戻らず、山道を下りることもできるのだが、船がないのではどうしようもない。うろうろしていると連中に見つかる可能性もある。もっともそれは、地下道へ戻っても同じくらいのリスクだが。

 それにしてもマルーシャはどこにいるのか。その他の競争者コンテスタントは。まだ誰も、ここにたどり着いていないのだろうか。来ても意味がないのかもしれないけど。

 時計を見る。間もなく12時だ。ビッティーが、ゲートが開いたことを告げてくれるだろう。我が妻メグが横にいても、特に問題はないに違いない。けど、犬はどうかな。幕が下りてきたときに、吠えたら困るなあ。



 マドモワゼル・シャイフからの電話を待つ間に、私はミセス・ナイトに会いたくなった。

 マルーシャがいなくなったことを、相談するつもりはない。彼女にまた心配を掛けるなど、とんでもない。今度こそ、私が探さなければならない。とはいえ、既にマドモワゼル・シャイフに頼ってしまっているけれど。

 お休みの挨拶のつもりで、彼女の部屋を訪れる。けれどチャイムを鳴らしても、ドアは開かなかった。こんな時間に、どこかへ出掛けているのだろうか。もうすぐ日付が変わるというのに。

 彼女の携帯端末ガジェットに電話を架ける。しかしそれも通じなかった。電源が切られていると。

 フロントレセプションへ下りて、訊いてみた。レンタカーを借りて出掛けたが、まだ戻っていないとのことだった。町の夜景を楽しんでいるのだろうか。明日は午後に帰途に就くとのことだったから、少々遅くなっても……

 そうだ、私は明日の朝、早く出るのだった。6時の飛行機に乗らなければならない。しかし、マルーシャを置いて行けるはずがないではないか。

 彼女はいつも私を支えてくれた。今回は私が彼女を支える番。たとえ演奏会コンサートをキャンセルしてでも。

 本当にそれでいいのだろうか? 演奏会コンサートを開くためには、マルーシャが多大な苦労を払ってくれた。彼女の貢献に報いるべきではないのだろうか。それが彼女への感謝の気持ちとなるのではないだろうか。彼女一人を思うあまり、他の多くの人に迷惑を掛けてもいいものだろうか。

 考えなければならない。

 まだ時間がある。少なくとも朝5時まで。もしかしたら、彼女の行方を捜し出し、連れ帰った上で、朝6時の飛行機に乗ることができるかもしれない。

 ミセス・ナイトなら、諦めようとはなさらないだろう。そしてあの方も。残された時間の中で、最大限の努力を払われるに違いない。自分と、そして協力してくれる人のことを信じて。

 私が今できることは、マドモワゼル・シャイフの電話を待つこと。その結果次第で、どのように行動すべきか? それを決めておかなければならない。

 もしマルーシャがヒルトンを訪れていたら。私もすぐに行くことにしよう。たとえ彼女が、今はそこにいないということであっても。

 もし訪れていなかったら。その時は次に打つ手が難しい。手がかりがないのだから。しかし当然私は行かなければならないだろう。そしてアルテム……コスティアンティン・チェルニアイエフに会ってみよう。マルーシャが彼を訪ねたことがあるなら、何か知っているかもしれない。

 部屋の電話が鳴った。マドモワゼル・シャイフだろうか。しかし彼女はまだバスに乗ってもいないはず。

 それともマルーシャだろうか。いいえ、彼女なら私の携帯端末ガジェットに架けてくるはず……

 受話器を取った。

ハロープリヴィト、パンナ・エステル・イヴァンチェンコ?」

 頭にあった三人の、誰でもない女性の声。しかもウクライナ語。彼女はいったい……

はいタックどちら様ですかクトー・ティ?」

「こちらはソフィア・ルスリチェンコです」

 アルテムと一緒に列車に乗っていた女性! なぜ彼女が私に電話してくるのだろう……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る