#18:第7日 (13) 共感覚

 体感では1時間くらい経ったと思うが、何事も起こらない。後ろの見張りは身動きもしない。

 寒さをそれほど感じないのはありがたい。洞窟の中というのは、気温が年中安定しているからだろう。尻の下の石もだいぶ温まってきた。

 我が妻メグは今頃どこでどうしているだろう。俺が横にいなくて寂しくても、じっと我慢をしてくれているだろうか。それとも例によって薬で眠らされているのか。

 ミリヤナとガキブラット二人はどうなっただろう。まだダンチェ・ビーチの辺りにいるのか、それともボートがもう一往復して連れて来られたのか。

 連れて来るってのは、ないかもしれない。捕虜を固めておくのは、見張りやすい反面、相談の機会を与えることにもなってしまう。捕虜を一部屋に一人、見張り一人ということにするなら、場所はどこだって同じことだ。長期に渡って閉じ込めるつもりもないだろうし。

 そういうわけだから、そろそろ相手から動きがあってもいい頃だ。俺の素性を把握している、とコート男は言っていたが、実際のところあの時点で詳しいことは判っていなくて、肩書き以外は後で大慌てで調べたに違いない。それももう終わったんじゃないか。

 などと考えていると、どこからか足音が聞こえてきた。鉄扉に軽くノック。開く音がした。

「これから君にこの中を見せよう。だが目隠しを取る代わりに口を塞がせてもらう。君の小うるさい意見は聞きたくないのでね」

 コート男の声だった。

「それはいいな。俺は部屋の内装の評価が苦手でね。絵画や花瓶や絨毯の価値も判らないんだ」

「ここにはそんな装飾物はないよ。やれ」

 足音が近付いてきて、粘着テープを剥がす音。そしてそれが口元に押し付けられた感覚。これ、剥がす時にものすごく痛いやつじゃねえの?

 それから目隠しが取られた。狭い部屋で、俺は壁の方を向いているのが判っただけだ。背後からさほど強くないライトで照らされて、俺の影が床と壁に伸びている。

「立て。付いて来い」

 言われたのだが、やはり男に腕を引っ張り上げられて、無理矢理立たされた。振り返ると戸口が見えたが、コート男の姿はなかった。廊下にぼやっと灯りが見えるばかり。

 俺を立たせた作業服男が先に行き、後から付いて行く。見張りも俺の後から付いて来る。前後を押さえられている。どっちも銃を持っていた。

 廊下に出ると、コート男がいた。顔は見えず、背が高くて痩せているというくらいしか判らない。俺に背を向けて歩き出す。

 廊下は、やはり鍾乳洞を思わせる造り。天井からぶら下がっていたであろう鍾乳石がきれいに薙ぎ払われ、ところどころ高さを確保するためにアーチ状に削って広げてある。床は石が敷き詰めてあるのだが、平坦ではない。幅も一定しない。

 しばらく歩いて、コート男が隣の部屋の扉を開ける。俺も入る。さっきまで俺がいたところよりだいぶ広そう。暗くて詳細が判らないな、と思っていると、コート男がライトを動かして隅から隅まで照らす。20ヤード四方くらいの広い部屋だが、何もない。

 コート男が部屋を出る。後から付いて行く。今度は廊下の反対の部屋。扉は錆び付いていて建て付けが悪そう。入るとさっきと同じくらいの広さだったが、やはり何もない。

 廊下へ出る。すぐ先で直角に曲がった。また扉がある。開ける。さっきよりももっと広い部屋だったが、何もない。

 さらに四つも五つも部屋を回って見せられる。しかしどこにも何もないのだった。

「以上だ」

 最後の部屋で、コート男は俺の前に背中を向けて立ったまま言った。いったい何を見せたかったのか。ゆっくりとコート男が振り返る。だがライトを足元に向けてしまったので、奴の顔が見えない。反射光で薄ぼんやりと判るのは、顔が削ったように細長くて、サングラスをかけていることくらい。それでちゃんと前が見えてるのかね。

「つまりここには何もないということだよ。君が想像しているようなものは、何もだ」

 つまり何もないのを見せたかったと。何だよ、それは。口を塞がれてるので、感想も言えない。

「ただしそれは、今から24時間後に来た場合の話だ。もう一つ、広い部屋がある。そこは今、撤収作業中だ。何も残さないようにするためには時間がかかる。それに昼間は作業もできんのでね」

 ああ、そういうこと。じゃあ俺の口をあと24時間塞げばいいと思ってるんだ。そうすれば警察や財団の研究者を連れて来て徹底的に調べたって「軍の研究施設なんてありませんよ」ってことになるという仕掛けか。

 それは逆に考えると、今夜よりも前にここに来て調べていたら、捕まって、もっと長く拘束されてしまう、ってことだよな。じゃあちょうどよかったんだ。

 でも24時間どころか、13時間くらい後にはこの世界はクローズだぜ。調べ直しに来るどころか、それまで俺がここにいたら失格だよ。

「君のことは調べ直した。生体チップのことはやはりブラフだな。もっとも、君が行方不明になったら財団の誰かが調べに来るかもしれん。だが明日の夜12時以前に来ることはないだろう。撤収が完了すれば、君は我々を追うことはできない。財団だろうが、合衆国軍だろうが、CIAだろうが同じだ。我々はどこの国の者でもないのだよ」

 どこの国にも属さない軍隊か。テンプル騎士団のようなものだな。そうすると目的はエルサレムの奪回? 犬はイスラエルあるいはパレスチナの国境を突破するのに使うのか。

「24時間、ここでおとなしくしていることだ。命の保証はする。君も、君の配偶者パートナーも、仲間もだ。その後は自由にしたまえ。ただ、我々のことを追うなどという、無駄なことをしないようにするべきだ」

 いいや、少なくとも夜明けまでにここから脱出してやるよ。もちろん、我が妻メグとターゲットと一緒にな。しかし他の競争者コンテスタンツの邪魔が入ったらどうしようか。そのうち一人だけ、俺に協力してくれそうなのもいるけど。

「最後に一つ。ここにいる間、飲み物以外の要求は受け付けない。連れて行け」

 いや、便所ラヴァトリーには行かせてくれるんじゃないのかよ。しかしそれを訊くことはできず、作業服男に銃で脅されて振り返る。部屋を出て、廊下を延々と歩く。さっきまで閉じ込められていたところに戻ってきた。

 中に入る。見張り一人を残し、作業服男は出て行く。

座れシラン向こうを向いてターナウェイ

 見張りが米語アメリカンの発音で言う。ハスキーないい声だ。座ると、背後で薄暗い灯りが点いた。見張りが近付いてきて、口元の粘着テープを剥がす。痛い痛い痛い!

「肌は強いが、唇の皮膚は切れやすいんだ。もっと優しくしてくれよ」

 見張りは「黙れシャラップ」とも言わず、ドアの方へ戻って行った。まだ話しかけちゃいけなかったかね。しかし、早く訊きたいこともある。

我が妻マイ・ワイフの居場所を知ってる?」

「後で教えるわ」

 やっぱり。見張りのは、扉の近くに座ったようだ。ずっと前のステージでもこういう状況があったなあ。

「どうやって潜り込んだ」

「後で教えるわ」

 そうかい。しかし、彼女は俺の思いも付かないことを軽々とやってのけるねえ。シェラトンから、いつの間に抜け出してきたんだろう。ティーラは心配してないんだろうか。

「後ってどれくらい後?」

「さあ。でも待っているのはあなたと同じものよ」

 俺の頭の中を覗いたようなことを言うんじゃない。

「脱出するのに協力する?」

「いいえ。共謀になるから、それはないわ」

 そうか。俺は第一に我が妻メグを助けないといけないから、ターゲットの獲得に出遅れるかもしれないな。他の競争者コンテスタンツも同じものを待って、「レディー・ゴー」ってことになるだろうから、彼女が有利とも限らない。

 それまで仮眠でもするか? いやいや、あと1時間ほどだろう。ターゲットを獲得できる状況は、終了12時間前のゲート・オープン案内よりも前に発生するに違いないんだから、寝てる暇なんてない。

 我が妻メグよ、約1時間後に助け出してやるから、それまで我慢して待っててくれ。



 ホテルのロビーに置かれたピアノの前で、私とマドモワゼル・シャイフは曲作りに没頭した。

 数式に基づく楽曲、あるいは模様を音に変換する、という作業は初めてだったので、最初は二人の意識を合わせるのにも苦労をした。つまり、図形上の点や線を、どの音に変換するのか?

 私には全くアイデアがなかった。そこで逆にしてみた。ピアノで一音ずつ鳴らし、マドモワゼル・シャイフがそれをXY座標の位置に対応させる。音の長さと線の長さ、色は何に変換すべきなどを、相談して決めていく。それは私にとっても彼女にとっても初めての作業であり、意外にも楽しかった。

 途中でマドモワゼル・シャイフは、慨嘆しながら言った。

「共感覚をご存じですか。音を聞くと色が見えたり、数字が風景に見えたりする人がいるのです」

「はい、そういうお話を伺ったことがありますわ」

「この作業を始めてから、私はそれに近い感覚を得ています。音に色と数字を感じることが判ったのです」

「そうお感じになったのは初めてなのですか?」

「初めてとは言えません。以前から、音を聞くとそこに別の何かがある、とは感じていました。しかし“何か”を具体的に考えたことはなかったのです。私は音楽を聴くことがほとんどありませんから」

「そうでしたか」

「あなたのお姉さまの歌にも私は美しさを感じ、それは数学的な美であると思ったのですが、今はそれが、視覚的な美であったとも理解したのです。つまり歌を聴いて風景を思い浮かべるような……」

「ですがそれはあなたが過去に見た風景ではなく、数式による図形的な美だということなのですね」

「そうなのです! もしかしたらこれは、心理学的な論文にするべき対象なのかもしれません。ですが今は、楽曲を作る作業を続けましょう。あなたのおかげで私の共感覚が、どんどん具体化されていく気がするのです」

 もちろん、私に彼女と同じ映像ヴィジョンが見えることはないだろう。しかし音が何かに変換されていく作業は、確かに興味深いものだった。

 時折、他の宿泊客がピアノの近くで立ち止まり、私とマドモワゼル・シャイフの作業を見守っている。やはり興味を引かれたのだろうか。

 気が付くと、11時半を回っていた。ほんの少しだけ、美しい旋律ができあがっただけだが、マドモワゼル・シャイフは「今はこれで十分です」と満足げに言った。

「あなたが弾いてくださった音は、憶えました。頭の中で完全に再現できます。これからは私一人でできそうです。しかしもしこれを楽曲として発表するとしたら、私とあなたの共作ということにさせてくださいますか」

「私はコンセプトも持たず、ただ音を鳴らしていただけですのに、恐縮ですわ。ですが、ぜひそうさせていただきたいです」

「間もなくバスが来ます。兄は一晩中出掛けていますが、私はホテルに戻っていなくてはなりません。それでは……おや?」

「……地震でしょうか?」

 眩暈がしたかと感じたのは、建物が揺れたからだったようだ。小さな揺れがずっと続いている。これが“地震”だろうか。私は経験がない。しかしどこからともなく、不気味な音が……

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