#18:第4日 (6) 海の研究
昼食はラボ・ツアーの定番、サンドウィッチとサラダ・パック。どこからか配達してもらったのか思ったが、テーナが「彼女が買ってきたのよ」と言う。ブルネットのショート・ヘアで、小柄ですばしっこそう。うむ、研究者としての評価ではないな。
君、握手はしたけど名前は憶えてないや。ミルナ、ね。憶えておこう。
で、どこで買ったって? 研究所の東側にあるスーパー・マーケットに入っているベーカリー。彼女が出勤前に寄ってきたと。
とてもたくさんあるんだけど、もしかしてここでみんなで食べながら、ランチ・タイム・ミーティングでもやろうってのか。ああ、やっぱり。
しかし6人もの女に囲まれて昼食を摂るのは、何となく居心地が悪いなあ。おい、セヴェリナ、どこへ行く。
「私、自分のデスクで食べますので……」
出て行ってしまった。どうせなら持ってきて一緒に食べればいいのに。いや、女が少ない方が、雰囲気が少しはましだな。
「実はあなたの論文の解説をお願いしたいと思って。一つだけでいいのよ」
テーナが言う。そう来たか。できるのとできないのがあるかもしれないけどね。それで?
タブレットが出て来た。論文が表示されている。『競合対象における男女比率に対するプレイヤーの
これ、モントリオールで美少女警備員を相手に説明したぜ。君らの興味レヴェルって、彼女たちと同じかい?
「この論文に興味を持つのは女性が多くて、しかも
「みんなそうだけど、何か問題があるの?」
何、テーナのこの真剣な視線。それほどまでに事情は深刻なのか? ジョークで躱すどころじゃなくなったよ。
他の4人も、笑顔がないなあ。みんな美人に見えるのに、本当に恋人がいない? 切実なのか。周りによさそうな男がいっぱいいそうだけど。研究所なんて、男余りだろ。
「もちろん解説するんだが、一つ提案がある」
「何?」
「君たち、ここに書かれている理論を実適用しようと思ってるだろうけど」
「もちろん」
「3ヶ月後に結果をマイアミ本部に報告してくれる?」
「もちろん」
即答かよ。まあ、よかった。もし理論によるシミュレイション結果と現実が乖離してたら、この論文は取り下げるわ。いや、できるのかどうか判らないけど。
昼休みを目一杯使って論文を解説したのだが、クレタの世界会議よりも活発な議論が行われたように思う。ぜひ、結果をザグレブ研究所の女性研究者全員で共有してほしいものだ。
しかしそのことを知らないセヴェリナが昼休み終了直前に現れて、「次へご案内します」と冷めた顔で言う。現実に引き戻してもらえた気分。
「ずいぶん真剣に議論されていたようですが、何だったんですか?」
階段で一つ下の階へ下りながらセヴェリナが訊いてきた。
「後でテーナか、彼女の同僚の誰かに訊いてみな。『あなたも一緒に参加すればよかったのに』って言われると思うぜ」
「は? どういうことです?」
その質問には答えてやらない。二度も同じ話をする気にならない。
ああ、そうだ。この論文を
第1研究課の会議室に来た。
代表で「
第1研究課は主に海上交通を研究する部門であり、主な対象は船そのもの、航路、港と周辺の交通、それから海上橋。
「僕らは主に航路に関する研究をしている。たぶんどこかで聞いたと思うけど、クロアチアのアドリア海岸部は元はヴェネツィア共和国の一部で、古くから海上交通が盛んで」
うん、それはセヴェリナから聞いたよ。
古い時代の航路はもちろん経験則で見つけ出すのだが、クロアチア付近の航路はいささか特殊である。それはダルマチア式海岸のせいだ。つまり細長い島が海岸と並行し、狭い海峡をたくさん形成しているところに特有の問題が発生する。
「潮汐によって、海峡に速い流れが発生する。海峡が長いので、広めの川を上り下りするところを想像すればいい。ところが時間によってこれが大きく変わる!」
「つまり海流を遡る方向に運行すると、燃料的、時間的に不経済が発生するわけだ」
「まさにそのとおり。しかし単に各地の潮汐表を参照するだけではダメでね。流れの変化が複雑なんだ」
そこで彼らが開発したのが『アドリア海流シミュレイター』。アドリア海最奥のヴェニス湾から、出入り口となるイタリア-ギリシャ間のオトラント海峡まで、全ての海域の潮流をシミュレイションできる。
過去のデータの再現もできるし、近い未来の予測については、天文潮位を元に風雨などの気象条件を加えることで可能。
特に地形が複雑なザダル付近では、実測を何度も繰り返すことで予測精度を上げてきたそうだ。
そして、海峡の海流に逆らって船を運航した場合と、それを避けて島の外を回った場合の、燃料費と時間の比較を見せてもらった。外海だと距離的に1.5倍くらい遠回りになる場合でも、明らかに経済的になる例が散見される。それが日時と天候によって、経験則では予測不能なほどの違いがあるのだった。経済的な差異は、年間にすると無視できないほどの値になるだろう。
面白いのだが、これほど大規模なダルマチア式海岸は他にないから、かなりニッチな研究だな。
「船会社に売って儲けたのかい」
「いや、国が毎年使用料を払ってくれるんで、一般に公開してるよ。開発にかかった経費にとても見合わないくらい安くしちゃったんで、上からだいぶ怒られた」
上と折衝せずに、国と直接交渉して売ったのかよ。それはさすがにダメだろう。マイアミ本部では法務部門がちゃんと管理してる“はず”だぜ。
次の会議室へ移動。途中でセヴェリナが言う。
「ここでは次が最後です。残りはドゥブロヴニク支所へ行ってからとなります」
何、もう終わりなのか。1ヶ所での説明は長々と続いて面白いのだが、午前に2ヶ所、午後に2ヶ所しか回れないとはねえ。
リオの大学では短時間でいろんなところを回って、それもそれでよかったんだがな。
「それから、明日の移動のことです」
「飛行機のチケットはちゃんと取れたかい」
「はい、2時の便が予約できました。30分前までに空港へお越しください。中央バス・ターミナルを1時に出るシャトル・バスに乗れば、おそらく間に合うでしょう。荷物は朝のうちにロジスティクス・センターへ送れば、夕方までに先方のホテルへ着くと思います」
「君も一緒の便か」
「はい、それにドクトル・ヴチュコヴィチも」
シャトル・バスではなく、研究所から空港へ車で送ってくれるサーヴィスを使う? 出張用にそんなのがあるんだな。
「それと、先方ではその日の6時から夕食会を開きますので」
向こうのラボ・ツアーは1日しかないからだな。了解。
会議室に入ると、やはり5人ほど待ち構えていた。どこもそうなんだけど、若いのばかりだなあ。まあ俺自身が30歳になってないから、10も20も年上のエクスパートに解説されるよりはいいか。向こうも遥か年下だとやりにくいだろうし。
説明員はミロスラヴ・マタチッチ。眼鏡を掛け、細い顔で、痩せて背が高く、少々猫背気味。眼光が鋭く、何となく
「我々のところでは橋梁工学を研究しています。対象は海上とは限らないのですが、建設に協力する際はたいてい海上橋になります。なぜか解りますか」
「海底の地形・地質は川に比べて複雑だからだろう」
「そのとおりです」
ミロスラヴがニヤリと笑う。そりゃ当然解るだろう。ここまでで散々「複雑な地形」について言及されたんだから。
大画面を使い、橋梁工学の基礎から、「どういう地形・地質の場合が難しいか」をいろいろな実例を挙げて説明。最も難しいのは「海底がヘドロで埋まっている」場合だが、それはクロアチアでは例が少ないそうだ。「幅の広い、流れの緩やかな川の河口」によくあるので、海岸の地形が険しいとそういうことにはならないと。それは解る。
ただし「狭い海峡でも、急激に深くなっている」という場合が多いので、それはそれで橋脚を設置するのが難しい。海底の掘削がネックになるからだ。
「さて、クロアチアでは24年前に開通したペリェシャツ橋以来の長大海上橋となる、コルチュラ橋が来年開通します。それがこれです」
建設中の橋の写真を見せられる。斜張橋で、橋桁は6本。最長スパンは300メートルほどだろう。それほど長くはない。
ところでペリェシャツ橋とは?
「クロアチア最南部のドゥブロヴニク・ネレトヴァ郡は、海岸部にボスニア・ヘルツェゴヴィナのネウムという町が挟まっていたために分断されていたのですよ」
「つまりドゥブロヴニクが飛び地だった。それを、橋を架けることで地続きにした?」
「そうです。ああ、詳しいことはたぶん支所で説明するはずです。もしかしたら『渡らせてあげましょう』なんて言って、連れてってくれるかもしれません」
それはそれとして、コルチュラ橋。コルチュラ島とペリェシャツ半島の海峡に架けた橋だ。コルチュラ島はクロアチアの島で人口が2番目に多く、地続きにすることは以前からの課題だった。ちなみにペリェシャツ半島から対岸の“本土”に架けたのがペリェシャツ橋。
海峡の最も狭いところは1キロメートル強だが、そこに架けると接続する道路を延々20キロメートル以上建設しなければならないため、現在フェリーが結んでいる両岸の近くの、1.5キロメートルの海峡に架けることになった。
そこで研究の成果を利用する。先ほど触れたとおり、海峡は急激に深くなっていて、海底地形が複雑だ。正確な位置を掘削し、橋脚の台座を沈降させるために、工事設備の位置設定を衛星測位によりミリメートル単位で制御する技術を適用したのである。
「海峡には海流がありますから、掘削機や台座を真っ直ぐ沈めようとしても、流されてしまうわけです。ところが我々の技術では、当該位置の海流を正確に予想して、どの位置から沈め始めて何分かければ、狙った位置に到達するか、というのが計算できるわけですよ」
「アドリア海流シミュレイターを使った?」
「あれは表層の流れだけなのでダメです。沿岸と海底の流れも考慮しないとね。表層よりももっと複雑なのですよ! もちろん独自のシミュレイターを作りました。それを使って、掘削機と台座で合計12回、沈降作業をやったのですが、毎回ぴったりと落ちるので、建設会社の人が『ヴィデオ・ゲームの達人のようだ』と感心してくれまして」
うーむ、それは褒め言葉になっているのだろうか。よく解らない。まあミロスラヴが嬉しそうにしてるから、いいのかな。
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