#17:第7日 (17) アリアドネの糸

 そういえばフェードラはどこへ行ったのか。一緒に帰ってきたのに、ロビーに入ってきてない。ああ、そうか、隣のホテルに泊まってるから、そっちへ行ったのか。

 我が妻メグのことを心配するあまり、別れの挨拶もしてないのは気にかかる。しかし空港に行ったら会えるかも。地震の混乱で欠航・延発が出たらしいから。

「あら、こんなに服が汚れて可哀想。着替えた方がいいわ」

 今さらながらに我が妻メグが服の心配をしてくれる。フロントレセプションに預けていたスーツ・ケースを出してもらい、我が妻メグが適当な服を選んで!俺に渡す。手洗いの個室で着替えてくると、ジェイドの姿が消えていた。

 4時過ぎで、少し早い気がするが、空港へ向かうことにする。いつ状況が変わるか判らないから、現地で待つ方がいい。

「ジェイドと何を話してたんだ?」

 タクシーに乗ってから、我が妻メグに訊く。

「いろいろ。でも主に、あなたとマドモワゼル・マルーシャのこと」

 なぜ俺とマルーシャなんだよ。俺と君のことを話せよ。ニュー・カレドニアでの感動の再会とか。

「だって彼女が訊きたがるんだもの。パリのホテルでのことを話したわ」

 ああ、“俺とマルーシャの関係”じゃなしに、俺について知ってることと、マルーシャについて知ってることを話したと。ジェイドはマルーシャを魔性の歌姫ディーヴァ・フェタールとして知ってたから、情報を仕入れたかったんだろう。

 そういえばパリでどんなことがあったのか、俺も詳しく聞いた憶えがないな。しかし我が妻メグに見せた姿は“単なる歌姫”で、本当のマルーシャは全然別の顔だ。あまり意味がなかったんじゃないか。

「彼女のことも少しは聞いたかい。仕事のこととか」

金融ファイナンスアナリストですって。でも詳しくは教えてくれなかったわ」

 アナリストか。金融会社からあらぬ恨みを買うこともありそうだな。インサイダー情報を掴んだから消されて、仮想世界送りになったんじゃないか。

「今日の俺のことを話そうか。マリアの遺跡を見に行ってたんだ」

「イラクリオンの東にある町ね。あなたはいつも詳しいことを教えてくれないから、震源地のイディ山に近いところだったらどうしようと思って心配したわ」

「そこでの議論は午前中に終えて、午後からプシフロという町へ行ったんだ。到着した途端に1回目の地震」

「プシフロって何があるの?」

「ゼウスが生まれたというディクテオンという洞窟だ。君はイデオン洞窟を教えてくれたが、ディクテオンの方が有名らしい」

「そうだったの。私も見に行きたかったわ」

「ところが地震のせいで閉鎖して見られなくてね。近くのギリシャ神話博物館で議論をしていたら2回目の地震だよ。どことも連絡が取れないし、地域の避難活動を手伝っていたので戻るのが遅くなってしまった」

「まあ、だからあんなに服が汚れて」

「遺跡も洞窟も、出土品は全部イラクリオンの考古学博物館に収蔵されてるらしいので、帰りにそれを見ようと思ってたんだ。この前見に行った時は、うっかり見逃してしまって」

「私も、マリアやディクテオンは憶えてないけれど、イデオンは憶えてるわ。青銅の像や、動物の骨、食器、武器、それにアクセサリーがあったはずよ。どれも祭祀のためのもので、動物の肉や葡萄酒ワイン蜂蜜酒ミードを祭壇に捧げたのだろう、と考えられているらしいわ」

 OK、それが訊きたかった。ターゲットの目星が付いたよ。酒を入れる器だ!

 古代のことだから、動物の角だろう。角杯。そして酒は供えるだけでなく、洞窟の中で迷わないように、道を示す印として使ったんじゃないか。俺が香水を使ったように。

 香りの道標。つまり“アリアドネの糸”!

 もちろん、壁に吹き付けるのではなく、角杯を壁際に埋めたりしたんだろう。それを見つけてくればよかった。

 しかし、俺が洞窟に入った時点で手遅れだったろうな。誰とも出会わなかったけど、もっと早くに奪われていたに違いない。マルーシャか、それとも他の二人のどちらか。

「ところで次の海外出張にも付いて来るかい」

「もちろんよ! 今回はとても楽しかったわ」

「でも昨夜みたいな目に遭うこともあるんだぜ」

「あれは私が不注意だったのよ。ずっとあなたのそばにいればよかったわ」

 懲りてないな。ニュー・カレドニアの誘拐事件も憶えてないのだろうか。確かに、俺が目を離したのもよくないんだけど。

 空港に着いたら大混雑だった。特にクロニス航空エアラインズのチェック・イン・カウンターがひどい。フライト・インフォメーション・ディスプレイを見ると、注記リマークス欠航キャンセルド遅延ディレイドの文字がずらりと並んでいる。チケットを持った客が、いつ出発だ、振替便を出せなどと文句を言っているのだろう。

 特別便は予定どおりと我が妻メグは聞いたとのことだが、確かに1便だけ定刻オン・タイムの表示。19時発アテネ行き。おそらくあれだろう。待合室はどこだ。IDを見せればVIPラウンジに入れてくれるのか。

 おや、見たことある顔。プラトンだな。トラブル対応でもしてるのか。わざわざ代表が出てくる必要はないと思うが、イラクリオンに滞在してるんじゃ、無視できなかったってことかなあ。

「ドクター……」

 後ろから遠慮がちな声。フェードラ、いや、テオだな。俺より先に我が妻メグが「ハロー、ミスター・クロニス!」と反応する。振り返ると、やはり男装に戻っただった。

「ハイ、テオ。さっきはろくに挨拶もせず済まなかった。君の乗る便はどうなった?」

「もちろん、欠航になりましたよ。振替便は他の乗客を優先するとの判断で、僕は船で帰るよう言われました」

「プラトンに」

「ええ、ついでにトラブルの対処も手伝えと、連れて来られたんです」

「こうして改めて別れの挨拶ができたんだ。ラッキーじゃないか」

「ああ、そうですね……」

「ハイ、メグ、あなたは特別便に乗れるのね! 羨ましいわ」

 後ろで我が妻メグに挨拶する声。ミキだな。振り返ってちらりと見ると、オリヴァーたちもいる。財団の連中も足止めを喰らったのか。

「ちょっと待ってな」

 テオに囁き、ミキやオリヴァーらに挨拶。ドイツ、日本、インドの連中は遅延便で発ったが、合衆国とクロアチアだけが取り残されてるらしい。ナカジマに礼を言えなくて残念。朝にしておくべきだったか。

 みんなどうせ俺より我が妻メグと別れを惜しみたいだろうから、我が妻メグに押し付けておいて、その隙に、テオと話す。

「君との議論は楽しかったよ。最後の冒険もな」

「そ、そうですか。ありがとうございます……」

「服を汚してしまったのに、クリーニング代も出せなくて申し訳ない。その代わりと言っては何だが……声を出すなよ」

「何です?」

 何をするか、言う必要もない。財団の連中や我が妻メグから見えないようにしながら、テオの細い身体を抱き寄せる。

ああ、神様オー・セー・モウ……」

 テオが一瞬にしてフェードラに戻る。全身の力が抜けたような感じ。

「声を出すなと言ったのに」

「うう、ごめんなさい……」

「さようなら、フィー。君に会えてよかった。忘れないよ」

ああ、神様オー・セー・モウ……さようなら、アーティー……僕も、あなたのことを……」

 最後にようやく名前で呼んでくれた。手を放しての顔を見ると、耳まで真っ赤にしている。しかしこれでの密かな願いも叶ったろう。

 誰にも気付かれてない……と思っていたのに、一人だけこの“抱擁”を見ている女がいた。マルーシャ。いや、ミズ・エレンスカ。少し離れたところに立っていた。全く目ざといな。言い訳する必要はないだろうが、彼女への挨拶はいつするか。特別便に乗るだろうから、アテネに着いてからでいいか。

 俺から離れたフェードラは、まだ名残惜しそうにこちらを見つめていたが、気持ちを入れ替えたかのようにの表情に戻ると、混雑の中に紛れていった。俺も振り返って、財団の輪の中に加わる。ただし俺と話そうとする奴は誰もいない。俺の人望のなさをよく表している。

 出発までラウンジで過ごし、19時発の特別便に乗る。満員だが、行きはそうでなかったはずだから、振り替えの客も乗せているのだろう。我が妻メグは窓側に座って、暮れなずむ西の空を見た後は、俺にもたれながら眠りに落ちてしまった。

 夜に寝られなくなるのに、早くも時差ボケ調整をするつもりか。それとも今夜は俺を寝かさない気か。昨夜はいいことをしなかったから。

 19時50分、アテネ国際空港着。預け荷物をピック・アップしてから到着ロビーに出ると、なぜかマルーシャが待っていた。

「マイ・ディアー・メグ! アーティー! ようこそご無事でウェル・カム・バックアテネに!」

「まあ、マドモワゼル!」

 我が妻メグが大喜びで駆け寄り、マルーシャと抱擁を交わす。いや、君、どうしてそこにいるんだよ。ミズ・エレンスカとして俺たちと同じ飛行機に乗ってたじゃないか。

「クレタへ行くのに特別便とおっしゃっていたのを思い出して、帰りもそうではないかと考えてお待ちしていましたわ」

「まあ、マドモワゼル、わざわざ私たちを?」

「だってお二人とも私の最も大切な人ですもの! 地震の報に接した時は、気が気ではありませんでしたわ。リタ、あなたと連絡が取れた時には安心しました。アーティー!」

 おい、まさか俺とも抱擁する気か。ああ、抱きしめられてしまった。胃の辺りにとても柔らかい物が当たっている。

 しかしこういうことをするのは、何か魂胆があるはず。

「リタはあなたが出掛けていて連絡が付かないとおっしゃっていましたが、ご無事で何よりでした」

 抱擁終了。魅力的な笑顔で俺を見上げている。だから、何の魂胆が。

「ああ、ちょっと混乱があったが、飛行機も飛んでよかった」

「今夜はアテネにお泊まりなのでしょう? 一緒にご夕食をいかがですか。クレタの空港ラウンジで軽食を? それでは夜中にお腹が減ってしまいますわ。『ディオニソス』を予約しているんです。アクロポリスのライティング・アップを眺めながら食事が楽しめるんですよ」

 我が妻メグは一も二もなく「喜んで!」。そうすると俺が行かないという法はない。タクシーに乗ったら女二人は後席へ、俺は助手席に座ることに。

 女たちは楽しくおしゃべり。俺はさっきのマルーシャの振る舞いを考える。

 何をしたかった? 俺の身体に接触するのが目的だろう。しかし少なくとも財布をるためではない。逆に……胸ポケットにいつの間にか紙切れが。取り出して開く。いつもの彼女の筆蹟。


 "He and she had it coming."(彼と彼女は当然の報いを受けた)


 彼と彼女? 中折れ帽ブリム・ハット記者ジャーナリストのことか。待て。我が妻メグにあんなことをした復讐は、俺がするつもりだったんだ。地震が起こったので時間がなくてうやむやにしたに過ぎない。

 まさか彼らは地震災害に巻き込まれた? いや、なぜマルーシャがそれを知ってるかだよ。彼女は彼らが報いを受けるところを見てたに違いないんだ。それどころか、彼女が彼らに……

 それ、はっきりさせておきたいな。この後、退出までに聞けるのか? ゼウス神殿へ一緒に行くのは我が妻メグじゃなくて、マルーシャにした方がいいのかもしれない。

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