#17:第7日 (11) アリアドネの香水

 廊下の足音に思わず身構えたが――といっても我が妻メグを抱えているので逃げようもないのだが――やって来たのは本物の船員たちのようだ。

 俺の顔を知らない奴もいるだろうが、フェードラやアリアドネのことは知ってるだろうから心配ない……いや待て。フェードラは普段は男装だろうし、アリアドネは夜中に人知れず遊び回ってるだけだから、「誰だ、こいつら」ってことになったりするのか?

 5、6人で俺たちを取り囲み、誰も何も言わないでいるうちに、別の足音が聞こえてきた。現れたのはソクラテス氏だった。その横の髭男は船長かな。

「ドクター・ナイト! あなた方は下船したという報告を受けていたので、驚いたよ。いや、心配無用。事情は解っているつもりだ。しかし少し話したいので……ミセス・ナイトは怪我をしているのか?」

「薬で眠らされているだけだと思うが、医務室へ案内してもらえると助かるね」

「もちろんだとも。こっちだ」

 船員が囲みを解いたので、ソクラテスに付いて行く。エレヴェイターに乗り、レヴェル4の医務室へ行くと、女がいた。マルーシャ。いや、ミズ・エレンスカ。入院患者が着るような薄青のガウンを羽織っていた。

 もちろん彼女もやられたので、治療を受けていたんだろう。しかしいったいどこにいたのか。

 老人だが精力のありそうなハゲの船医に我が妻メグを託し、ソクラテス氏、船長と共に隣の病室へ入る。使う人がほとんどいないのか、ベッドにシーツも掛かっていない。

 明るいところへ戻って自分の姿を見直したが、ひどいものだな。スーツが埃だらけで、靴も白くなっている。顔は見えないが、おそらく汚れていることだろう。

 丸椅子を勧められて座ると、髭の船長が「報告をまとめると」と話し出す。

 ミセス・ナイトとミズ・エレンスカの捜索をしていたが、そのうちにある船員から「二人は見つかり、ミスター・ナイトと共に下船した」という報告が上がってきた。その他にも数人、下船を目撃したという船員がいたので、信用して捜索を中止、パーティーも散会した。

 午前2時頃になって、船内で発砲音を聞きつけた船員がおり、見回っていると不審人物を目撃した。プロムナード・デッキまで追うと男が二人、女が一人倒れており、女はミズ・エレンスカだった。

 ほぼ同時に、コンピューター室から不審人物がいたというが船長に入り、駆けつけると俺たちが……という次第。

「ミズ・エレンスカと共に倒れていた二人が不審人物かと思うのですが、失神していて聞き取りができない。しかし数日前に補充した船員で、身元も確かなので、どういうことなのかさっぱり……」

 最後に船長が困惑顔で言った。その二人って、俺がコンピューター室で見たキャセイ人たちキャセイアンズなのか。確認してくれと言われればするけど、その前に、俺の方に何があったの話してくれと言われてしまった。

 船室に閉じ込められてたことは話すけど、解錠のことは話したくないなあ。それからアリアドネに会った経緯はどうしよう。レヴェル1をうろついてたらたまたま会ったことにするか。祖母グランマとの雑談は省略した。

「君を襲った人物に心当たりは」ソクラテスが訊いてきた。

「ないね。顔も見なかったし」

 中折れ帽ブリム・ハット野郎・ガイだと思うけど、奴に訊いてもどうせ否定するだろうから言わない。

「ミズ・エレンスカは襲撃者の顔を見たが、心当たりがなかったらしい。ミセス・ナイトの意識が戻れば尋ねてみたいが」

「たぶん心当たりがないと言うと思うよ」

「おそらくそうだろう。もちろんフィーやリーアにも聞き取りをする。ところでミスター、今夜は夫人ミセスと共にこの船に泊まることにしてはどうだろう。もちろん高級船室を用意するし、朝食も……」

「ありがたい申し出だが、我が妻マイ・ワイフの意識が戻らなくてもすぐにホテルへ帰りたいね。設備は大差ないと思うが、ホテルには財団のメンバーがたくさん泊まってて気が休まると思うんだ」

「了解した。もちろん無理に引き留めることはしない」

 病室のドアにノックがあって、ハゲの医者が顔を覗かせた。船長を手で呼び、何か耳打ちする。「奥様の意識が回復したようです」と船長。そうじゃない、眠りから覚めただけだってのに。

 医務室に戻ると、ベッドに横たわった我が妻メグが、こちらに顔を向けていた。その横にはミズ・エレンスカが座り、我が妻メグの左手をしっかりと握っている。元気づけてくれているのか、すまんね。

「マイ・ディアー……」

 力なかったが、我が妻メグの声が聞けてほっとした。ベッドの脇に立つと、ミズ・エレンスカが我が妻メグの手を俺に。白く美しい手を、優しく握ってやる。我が妻メグがわずかに笑顔を見せた。だいぶ無理しているようだ。

「私、どうしてしまったのか、全く解らなくて……」

「心配ない。後でゆっくり話そう。すぐにホテルへ連れて帰るから」

「ホテル……そうだわ、明日は帰国するから、荷造りをしないと……」

 相変わらず義務感の固まりだな、我が妻メグは。後ろでソクラテスが「タクシーを」と誰かに指示しているのが聞こえた。隣のミズ・エレンスカに「君にも後で話を聞きたいが」と囁いてみる。

「君はここに泊まるのかい」

「いいえ、私の泊まっているホテルはこのすぐ近くですから、そこへ戻りますわ」

 ハゲの医者は「お二人とももう少し安静にしていた方がいいと思いますが」と言いつつ、薬をくれた。俺も気絶してたんだが、全く心配してくれないのな。

 それからまた我が妻メグを抱きかかえて、プロムナード・デッキへ上がる。タラップの降り口に、着替えを終えたフェードラが立っていた。男装に戻っていたから、またテオと呼ぶべきかな。アリアドネはいない。

「僕もホテルへ戻りたかったんですが、リーアが大事な話があるというので、残ります。ただ、船は降りると思いますが……」

「ああ、ゆっくり話し合ってくれ」

「それからリーアが、後であなたに届けたい物があると言うので、ホテルへ行っていいでしょうか? 昼頃にでも……」

「夜が明けてすぐでも構わんよ。君が来られるのならな」

 暗に「フェードラの姿をもう一度見たい」と言ってみたのだが、テオはすぐに気付いて顔を赤くした。

「そんなに早くはさすがに……では、朝食後にでも。8時頃ではいかがですか」

「それでいいよ」

 別れの挨拶をして、タラップを降りる。ミズ・エレンスカが後から付いて来る。下にはタクシーが2台停まっていたが、乗る前にミズ・エレンスカに「君も朝食の後に来るかい」と言ってみる。

「では伺いますわ」

 ミズ・エレンスカは言って、タクシーに乗った。もちろん聞きたいのはマルーシャとしての話で、それを我が妻メグやテオに聞かせるわけにはいかないのだが、どういうセッティングにしようか。


 ホテルの部屋に戻り、一眠りしたら夜が明けたが、さすがに今朝のランニングは中止だ。我が妻メグも7時には起きなかった。隣で安らかに眠る我が妻メグの顔を見るというのは、とても楽しいものだ。

 もっとも今日はステージの最終日で、ターゲットが何だかも判っていない状態なので、あまり悠長にしてはいられない。しかしいっそ獲得は諦めて、ゆっくり退出するのもいいかな、などと思ってしまう。

 一人起きて、着替えて、我が妻メグの目覚めを待つ。8時前にようやく起きた。キスをして朝の挨拶。

おはようモーニン、マイ・ディアー・メグ」

「マイ・ディアー・アーティー、今、何時なの? まあ、もう8時!? ごめんなさい、寝過ごして」

「気にするな、もうしばらくゆっくりしてるといい」

「私、昨夜はどうしてしまったの? 途中から記憶が全くないわ」

「飲み過ぎて倒れたんだよ」

あらまあオー・ディアー! そんなはずはないわ。最上階のバーでミズ・エレンスカやミスター・ソクラテスと楽しいお話をしたことまで憶えてるのに……」

「もう少し後で説明するよ。ところで俺は財団の連中と打ち合わせがあるので、30分ばかり出かける」

「私も付いて行った方がいいんじゃないかしら」

「今日のは君がいなくても大丈夫だ。それから君は、朝食を抜いた方がいい。この1週間、特に昨夜は食べ過ぎてるようだから」

あらまあオー・ディアー! そんなことはないと思うけれど、あなたがそう言うのなら我慢するわ」

 我が妻メグがしゅんとした表情を見せているが、あれはわざとだというのは解っている。俺に「ちょっと可哀想だったかな」と思わせる手なのだ。んん、どうしてこんな余計な知識が仮想記憶に入ってるんだ。もっと大事な記憶を追加してくれよ!

 一人で部屋を出て、レストランへ行く前にロビーを探したらテオがいた。しかし以前のテオではなく、フェードラ寄りになっている。もう数週間この世界にいたら、だんだんとフェードラになっていくところを観察できたかもしれないのに。

「リーアからの預かり物です。あなたと奥様のための香水だと」

 グリーンの綺麗な香水ケースを受け取る。俺のだけかと思ったら、メグのも作ってくれたとはね。

「君の香水を作るんじゃなかったのか」

「ええ、受け取りましたよ。でもあなた方のはそれとは別に……」

「その香水を着けた君にも会いたかった」

「!」

 改めて、「フェードラの姿をもう一度見たい」と匂わせたら、テオはみるみる顔を赤くした。

「ええ、ああ……そう、それから、昨夜のことをあなたに報告しろと、ソクラテスから言われていて」

「長くなりそうか。一緒に朝食をどうだい」

「まだなんですか? 僕は摂ってきましたが」

「そうか、朝食の後という約束だったな」

 しかし飲み物だけでも、と言ってレストランに誘う。我が妻メグが摂らないんだから、代わりに連れて入ってもいいだろう。

 食べ物を取って席に着くと、テオはコーヒーだけをテーブルに置いて待っていた。食べながら報告を聞く。しかしたいしたものではなく、怪しいとされた船員に訊いても「何も知らない」の一点張りであること、俺や我が妻メグが「下船したのを見た」と報告した船員がなぜか行方不明であること、いくつかの船室が荒らされていて賊が侵入したのは明らかであること、など。継続して調査すると。

「僕とリーアの居室にも入られた跡があったんです。僕のところは何も実害がありませんでしたが、リーアのところはひどくて、何がなくなったかも容易に判らない有様で」

 ターゲットは“アリアドネの糸”だからな。それっぽいものを根こそぎ持って行ったんだろう。しかしたぶんそこにはなかったろうけど。

 さて、中折れ帽ブリム・ハット記者ジャーナリストか、どっちの仕業だろう。中折れ帽ブリム・ハットだと思うが、外れてたってどうということはない。

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