#17:第4日 (1) 夜明け前の駒鳥
第4日-2033年10月12日(水)
船のタラップを降りながら、西の空を見上げる。満月から4日ほど経った形の月が、中空に浮いていた。
まだ夜明け前。港の一角に明かりは灯っているが、人の姿はない。車も通っていない。もちろん、人目を避けてこの時間を選んだ。パパラッツィ。特に、あの
日暮れの前、私が船に乗ったところを、彼女は見ていただろう。だが、それだけではどうしようもないはず。誰に会いに来たのかも判らないのだから。
彼女は私に確かめようとするだろうか? するかもしれない。可能な限り逃げ回ろう。彼女とて、私だけを追うわけにはいかないだろう。彼女のキー・パーソンから、情報を得なければならないのだから。
ソクラテスは私の身体に満足してくれたようだった。それでいい。私の身体はそのために存在する。その対価として、私は必要な情報を得た。クロノス家について。船の構造について。ソクラテス自身について。次男と三男について。そして妹たちについて。
それぞれに興味深い情報だった。シナリオ・ライターが作った架空の経歴に過ぎないけれど、物語の構成要素としては、よくできている。
ターゲットに一番関係が深いのは、末妹だろう。アリアドネ。だが彼女の持ち物ではない。彼女の頭の中の知識。そこから導き出さねばならない。
彼女と親しくなり、彼女の信用を得ること。彼女の“テセウス”になること。そうすれば彼女から“糸”を与えられる。迷宮を脱出する鍵。
それが得られるのは、今日や明日ではない。明後日でもない。たぶん、金曜日。第6日目になるだろう。そしてターゲットにたどり着くのは、最終日になるに違いない。
それが何か、私は一つの予想を持っている。おそらく当たっているだろう。だが、そうであっても、まだ手に入れられない。時間の制約を満たす必要があるのだ。それがこの仮想世界のルール。その時が来るまでは、他の
彼は、どうだろうか。彼にはリタがいる。リタは自分でそれと知らず、ターゲットの情報を探り当てる素質を持っている。彼自身もそうなのだ。私はいつもそれを利用している。
今回も、そうした方がいいだろうか。あるいは妨害した方がいいだろうか。
それは今日と明日のうちに、考えることにしよう。その2日間、彼らは
私は彼らと行動を共にしない。クレタ島に残る。アリストテレスと交流することになるだろう。彼からはどんな情報を得られるだろうか。彼には何を与えなければならないだろうか。私は、私の差し出せるものを、全て彼に与える心の準備をしなければならない。
アルテム?
なぜ彼の名前を、今思い出したのだろう。他の男性のことを考えたからか。そうではない。彼は私の特別な存在であって、誰からも切り離されている。
そうだ、その名前は、私の頭の中に浮かんだのではない。別の記憶の中だ。仮想記憶。その名を私に与えることで、私の行動を操作しようとしている。私の反応を調べようとしている。
けれど、私が心を動かされることはない。私と彼は、堅い信頼でつながっている。私は彼に恥ずべき行動をしたことは、一度もない。むしろ、私は彼に会うために、できるだけのことをしているつもりだ。彼はそれを喜んでくれるだろう……
もう一度、月を見上げる。仮想世界の中に造られた、仮想的な天体の動きには違いない。けれど、やはり月の光には情緒がある。私をある種の感傷へ導いてくれる。遠い日の思い出へと。
あの月の光を、アルテムと共に浴びることはできるだろうか。アルテムのいる仮想世界へ、私はたどり着けるだろうか。きっとあるに違いない。私はそれを目指す。
現実世界で彼に会えないのならば、仮想世界で会うしかないから。それがたとえ、“アルテムの記憶を持つアヴァター”であったとしても、会いたい。
私はアルテムに会いたい。そのために、私はここにいる。
観察をしながら、アビーはエリックの動きも見ていた。頬杖を突いたり、腕を組んだりしているが、キーボードには一度も触らなかった。それでも
オリヴァーやトリッシュは、それに気付かなかったかもしれない。普通に、人目を探す素振りに見えたから。だが、
だから二度目は、別の理由だ。頭の中に何かが浮かんだ。仮想記憶に、誰かがアクセスし、何かの情報を置いたのだ。
エリックがそれをしたのではないかとアビーは思ったが、それらしい動きはなかった。だが、事前にタイマーを仕掛けて情報を流し込むこともできる。
もちろん、データを置いたのは一瞬だけだろう。すぐに削除したに違いない。だが
エリックが何のデータを置いたか、後で調べようとアビーは思った。今でなくてもいい。アクセスした記録は残る。
ただ、エリックがその記録までも削除したら?
シミュレイション・システムへのクラッキング。彼にはそれができる。十分考えられることだ。
もし削除されていたら、
仮想世界の中で、
昼間は結びつきが弱く、夜は結びつきが強い。夜の
たぶん「
もしこれが、出張でなければ? 朝起きて、
今はそれに、そこそこ近い状況だ。昼間でも、
おそらく、俺はそういう状況に慣れた方がいいのだろう。昼間は、
「
起きて考えごとをしていたけれど、寝ていたふりをする。目覚めのキスをもらってからトレーニング・ウェアに着替えて、外に出る。日の出は少しずつ遅くなっているはずだが、3日くらいでは明白に判りようもない。準備運動の後、走り出す。
少し行くと、やはり女がいる。長い黒髪に、白いロング・ドレス。昨日と同じ姿。そして今日ははっきり、俺のことを見ている。何かを訴えようとしている目つきだ。しかし近寄ってこようとはせず、俺は彼女をそこへ置き去りにして走る。
だが、いつかはアプローチしてくるだろうと思う。明日か、明後日か、その翌日か。それとも、俺の方から彼女に話しかける方がいいのだろうか。彼女がキー・パーソンなら、そうすべきだろう。キー・パーソンであるかどうかを知るためにも、話しかけるべきかもしれない。
ただ、俺ではなく、
ビーチの端まで行って、戻ってきたら、やはり白衣の女はいなくなっていた。代わりに、
「
「
「あら、そうだったの。じゃあ、そうしようかしら。あなたたちのホテルへ行ってもいい?」
どうぞ、という返事は
「あら、羨ましいこと。
なかなか鋭い。世界会議に出席したことはないだろうが――俺だって本当は初めてなんだが――趣旨をよく理解している。ツアーでなくて、一人なら行ってみたい? なるほど、一人でいるのが好きだから。
でも、彼女とはこの先、どこかでもう少し絡みそうな気がするんだよな。どういう場面かは、想像できないけれど。
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