ステージ#17:第1日

#17:第1日 (1) サントリーニ島

  第1日-2033年10月9日(日)


「なんて綺麗な景色でしょう!」

 隣で我が妻メグの声がする。俺はまだ目を開けていないというのに。おそらく彼女は、ステージ開始時に目を閉じてないんだな。幕が上がっていくところを見て、何とも思わないのだろうか。

 目を開ける。また高いところに立っていた。上には空、真ん中に水平線と島、そして下には海。その海にはヨットがたくさん浮かんでいる。既に季節外れだというのに。

 島の名前も知っている。確か、ティラシア島だ。そして今いるところももちろん判っている。サントリーニ島、ギリシャ。三日月のような形をした島の北西端、イアという集落。その高台、アギオス・ニコラウス要塞跡、通称イア・キャッスルから、西に面した海を見ている。

 海賊からの防衛のために建てられた、ルネサンス時代の望楼だ。そこが今は夕日の名所になっている。残念ながら、夕日の時間までここにはいられない。移動することになっている。

 ふーん、前回、前々回と同じで、やけにはっきりした記憶を持って始まるなあ。やはり出張で来たという名目だからか。

 そして前回も始まりは海辺だった。ただし季節は夏で、ビーチに立っていて、強い潮の香りを嗅いだ。ここも海辺だけれど、季節は秋で、崖の上だからか、潮風を感じない。それとも鼻が麻痺しているのだろうか。

 横を見る。もちろん我が妻メグがいる。袖なしの清楚な白いドレス。レジャー用だな。ちょっと肌の露出が多すぎるかもしれない。

 さっきのバックステージと違うじゃないか。白いブラウスに紺のタイト・スカートで、秘書みたいだったよな。そのままの姿で始まるのかと思ったのに、いつ着替えたんだよ。俺が目を閉じている間か?

 惜しいことをしたものだ。いや、我が妻メグの着替えなんて何度も見たことがあるし、これからも何回でも見られるはずだけど。

「あなたは何も感想がないの?」

 魅力的な笑顔を俺に向けながら我が妻メグが言う。俺は今見たばかりだから、まだ感想を考えてないんだよ。「景色よりも君の方が綺麗だよ」なんて言葉を期待してる? まさかね。

「夏の方が、空も海も青が濃くて、もっと綺麗だったろうな」

「あら、今でも十分綺麗な青だわ。観光ガイド・ブックの写真で見るのと同じくらい綺麗よ。それに写真では色を調整して、青を濃いめにしてあることが多いわ」

 写真と同じくらい綺麗、なんて陳腐な感想を我が妻メグから聞くなんて思わなかったよ。こんな風に景色を褒めるのは、コンシエルジュ経験者の習性なんだろうか。

「とにかく綺麗だよ。君は満足したかい」

「ええ、もちろん!」

 そりゃよかった。で、ここへ来た理由も判っている。今回はギリシャのクレタ島で開催される世界会議ワールド・コングレスに出席するのだが、合衆国を1日早く出発して、日曜日をサントリーニ島の観光にてたのだ。金曜日の夜にマイアミを出発して、ローマのフィウミチーノ空港で乗り継いで、アテネで一泊して、早朝の飛行機でこの島へ……

 えーっと、今何時だ? 9時か。この季節はアテネ発7時、サントリーニ着7時50分って便があって、それに乗ってきたはずで、空港からバスで真っ先にここへ……

 どうしてここが最初なんだろう。その理由はよく憶えていない。とにかく我が妻メグがここへ来たがっていたから来たんだ。

 そしてまだ9時だというのに、この観光客の多さよ。崖に群がってるだけで数十人はいるじゃないか。もちろん島に泊まった人も多いだろう。

 10月のギリシャは観光シーズンの最後で、世界会議がこの時期に設定されたのはシーズン終了ぎりぎりにする方が、参加者にもホテルにも都合がいい、ってことのはずなんだがなあ。

「今回はあなたに付いて来て本当によかったわ!」

 我が妻メグが付いて来た理由も判っている。世界会議の間、俺及び財団から派遣された研究員たちと、財団マイアミ本部ヘッドクォーターの連絡係をするため。いや、これって理由というか、名目だな。無茶苦茶な名目もあったもんだ。しかも連絡係は他にもいるはずなんだよ。確か二人くらい。国際戦略部門からだっけ。名前は憶えてないけど。

 それに我が妻メグの旅費は70%、俺が出すことになってる。サラリーから天引きで。ただし海外出張のときは必要以上にいいホテルに宿泊させてもらえるんで、部屋代が倍額にはならないから――普通は二人部屋を一人で使うからだ――大した出費でもない。

 いや、どうしてこんなつまらないことを考えてるんだ? 我が妻メグが不審そうな顔をしてるじゃないか。

「付いて来てはいけなかったかしら?」

「そんなことはない。このところ出張続きで、君の顔を見られない日がたくさんあったから、今回はいい機会だ」

 仮想世界の中では2週間会ってないからな。それ以外のときはマイアミで我が妻メグと一緒に暮らしてるはずなんだが、“そういうことになっている”という記憶だけしか持ってないんだから、虚しくて仕方ない。

 我が妻メグが十分に景色を堪能したと思うので――俺はこの手の景色は仮想世界の中で見飽きた――望楼を降りる。

 さてこれからどこへ行くか。ひとまず、イアの集落の中を歩き回る。よくとおり、白い壁の家が建ち並んでいる。青い空によく映える。夏なら、眩しくなるほどだろう。

 崖っぷちから落ちそうなところに建っている家もあって、そういうのを上から見て回るのも面白い。アマルフィ海岸の景色を思い出すのだが、あちらは赤い屋根の建物が多かった。もちろん、そんな記憶を我が妻メグに披瀝するわけにいかないので、黙っている。

「この建物の上で、よくウェディング・フォトを撮っているのよ」

 我が妻メグが嬉しそうに言う。そういえば俺たちって結婚してるはずなのに、結婚式をした記憶がないよな。いや、俺にないだけで、我が妻メグはあるのかもしれないけど。

「ウェディング・ドレスでなくても綺麗な写真が撮れると思うよ。君が被写体なら」

「そうね。でも記憶の残り方が違うと思うわ」

 我が妻メグのウェディング・ドレス姿はさぞや綺麗だったろう、などと夢想しながら、町を歩く。青いドーム屋根の教会があった。アギオスニコラオス教会。要塞と同じ名前だ。もちろん観光の名所。写真を撮る……いや、俺は我が妻メグが一人で教会の前に立ってる写真でいいと思うんだが、どうして俺と一緒に撮りたがる?

 まあ、写真撮影を頼む観光客には事欠かないので、そこらにいる人に声をかけて撮ってもらう。だいたいにおいて、前に写真を撮ったペアが、次に来たペアの写真を撮る、という流れになっているようだ。

 それからまた町を歩く。海沿いの崖の稜線に沿って集落が作られているので、道は曲がりくねっていて複雑だ。アップダウンも激しく、階段がさらに道を複雑化している。やはりイタリアのカプリ島を思い出す。我が妻メグには言わないけど。

 そしてまた青いドーム屋根の教会。しかも二つも。“主の復活リザレクション・オヴ・ザ・ロード”正教会とアギオス・スピリドン正教会。いや、もはや名前はどうでもいい。ここでも写真を撮る。

 この二つを上から撮れるところがある? 振り返ると、確かに階段が上に続いている。そこから撮らねばならぬものか、と思いながら、我が妻メグをその場に置いて一人階段を登る。今回はさすがに我が妻メグも「二人で撮りたい」とは言わなかった。

 上がってみると、見晴らしはいいが、教会二つと我が妻メグを入れて撮るのは無理と判った。仕方がないので、片方と我が妻メグを入れた写真を一枚ずつ撮る。見下ろす海の青がなかなか綺麗でよろしい。

 それから崖っぷちぎりぎりの道を歩いたり、崖の下を覗いて海際にある建物の残骸と、そこへ続く崩壊した道を見たり。

 建物は白いが、崖の岩は赤い。赤はもちろん鉄であって、溶岩に含まれていたものだ。サントリーニ島は元は火山島で、三日月型をしているのは噴火口と周囲の一部が海に沈んでいるから。つまりカルデラ。

 さっき見たティラシア島も周囲の一部であり、火口――サントリーニ島の湾――のちょうど真ん中にはネア・カメニ島が浮かんでいる。

 しかし、我が妻メグにその解説は必要ないだろう。コンシエルジュの習性として、旅行前にみっちり調べて憶えたに違いないから。

 それからまた複雑な道をうろうろと歩いて、広場に出て来た。この広場から南へ眺める海も素晴らしい。遠くにネア・カメニ島が見えている。

 そして振り返ると、また青いドーム屋根の教会。パナギアス・アカティストゥス賛美歌教会。我が妻メグがうっとりとした目で見ながら「ウェディング・フォトを予約すればよかったかしら」などと呟く。

「君はその服でも綺麗だよ、写真を撮ってあげよう」

「一緒に撮ってもらいましょうよ!」

 また他の観光客に頼む。そしてそのペアの写真を俺が撮る。みんな、どれだけ青いドーム屋根の教会が好きなのかと思う。確かに、他ではなかなか見られないから珍しいけれども、それだけだろう。

 それから近くのカフェに入って休憩。テラス席で海を眺めながらコーヒーを飲む。我が妻メグが地図を眺めながら「やっぱり崖下へも降りたいわ」と言う。さっき覗いた廃墟のある崖下ではない、最初に立っていた要塞の西のことだ。そこにもレストランやカフェがあるし、船着き場があってボートにも乗れる。

 であれば、なぜ青いドーム屋根の教会を見る前にそこへ行かないのかというと、そういう行き当たりばったりで行動するのも面白いから、だと思う。

 だいたいにおいて余暇というものは無駄な時間を過ごすことが目的だ。それなのに1日しか時間がない、などという矛盾した状況であっても、大まかな移動計画だけを立てて、その移動先で余裕を持って行動するようにする。

 与えられた時間を目一杯使えるようにと、分単位での移動計画を立てるようなことをしてはならない。そんなのは休暇が少なく何事も計画的でないと気が済まない日本人やドイツ人のような連中がやることだ。

 今回の場合であれば、アテネから朝一番の便でサントリーニ島へ来て、バスでこのイア集落へ。昼食を摂ってから島の中心のフィラ集落へ。そこで夕方まで過ごしてから最終便でアテネへ、というスケジュール。

 しかもアテネからは特別チャーター便に乗り継いで――俺たちだけが乗るんじゃない、国際会議に参加する連中のためのだ――クレタ島へ、ということになっている。

 しかし、とにかく移動のことは我が妻メグに任せておけばいい。コンシエルジュの習性を発揮して、よろしくやってくれるだろう。俺がすべきことと言えば、彼女の案内で景色を見て、綺麗だねと言いながら肩を抱いて、ときどきキスしてやるくらいのものだ。

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