#16:第7日 (3) 哲学的美女

 30分ほどフットボールのドリルの説明をした。興味深く見ているのはスサナ、カリナ、巡査部長とマッチョ氏。ハファエラは少し離れたところで、アルセーヌと話している。オーレリーはどこへ行った?

 スサナは見ているだけでなく、俺の説明に従って実際に身体を動かす。胸をスポーツ・ブラで押さえつけているので、激しい動きでも平気。他の女二人は普通の水着なので、とてもじゃないが無理と思われる。マッチョ氏は、やればやれそうなのに、なぜかやらなかった。

 終わると今度はマッチョ氏が、護身術を教えると言う。フェアベアン・システムの一つで、“ディフェンドゥ”。そんなの、ビーチで教えることなのだろうか。

 素手でできることだからビーチ向き? しかし、少なくとも俺には必要ないと思うなあ。QBクォーターバックがスクランブルするときに護身術を使ったって、せいぜい1ヤード先に進めるだけだろう。それに俺はスクランブルしないし。

 俺と同じく、興味なさそうなのがハファエラとアルセーヌ。ハファエラは俺が用済みになったのを目ざとく見つけ、「今から議論を……」と言う。アルセーヌは釣るのに失敗したか。

「議論の前に、君、朝食を摂ってないだろうから、一緒にどうだろう。摂らなくても、コーヒーくらい付き合ってくれれば」

「はい、ぜひご一緒させて下さい」

 ハファエラは爽やかな笑顔。アルセーヌは残念そうに見送る。もう一度、カリナを誘ったらどうかな。そのカリナが、「議論が終わる頃、お迎えに参りますわ」。巡査部長が「私も行きます」。ハファエラに、時間厳守のプレッシャーをかけたつもりだろう。

「ところで君、ちゃんと服を持って来たんだろうね。ホテルのレストランで、水着は禁止だぜ」

「もちろんです。服を着て来て、水着に着替えたので」

 いや、どこで着替えたんだよ。もしかして、服の下に着ていて、服を脱いだ? それなら解るが、まさか下着を忘れたりしてないだろうな。


 ホテルに戻ると、ハファエラは洗面所で着替え。俺は部屋に戻ってシャワーを浴びて、着替える。ついでにベッドのシーツを整えて、リヴィングとの間のドアを閉めておく。

 下のレストランへ行くと、ハファエラが入り口で待っていた。よく見ると白いドレスの下にイエローが。水着の上にドレスを着ただけか。洗面所へ行かなくても、ビーチでできたのでは。

「下着はちゃんと持って来ましたが、着替える時間が惜しいので」

 ほんの数分のことなのに。それでも、「忘れてきた」と称して下着を着けずに服だけ着るという破廉恥なことをするよりは、まだ良心的か。

 ハファエラの朝食代は俺が出しておくことにする。俺はトーストとベーコン&エッグズとオレンジ・ジュース、ハファエラはポン・ヂ・ケイジョとコーヒー。ポンはやはり女性に人気だ。議論はまだにして、さっきのトレイニングの感想を聞いてみる。

「正直、どう言っていいかよく解りません。ただ、あなたが走るのを見てみたかっただけなんです。あなたの走り方は、とてもバランスがよくて力強さを感じました。美しいというか……困ったのは、あなたがいない間に、知らない男性から話しかけられたことです。逃げたくなりました……」

 俺だって君とは1度しか会ったことがないんだから、アルセーヌやマッチョ氏とそう変わらないはずなんだけど。そもそも、なぜ走るのを見たかったんだ。

「知性のことばかり考えていたのですが、最近になって、運動と知性の結びつきを考えるようになったのです。単なる運動ではなくて、美しく見える動作のことです。それは知性によって為されるから美しく見えるのか、また、動作が美しいと感じるのはいかなる知性の働きによるものなのか。そういったことを研究対象にしてみたくて」

 巡査部長が送ってくれたハファエラの『饗宴』に関する論文は、夜中のうちに読んだが、そんなことは書いてなかったぞ。今の言葉と関係がありそうなのは“美”だけだな。

『饗宴』で書かれている“美”は運動に限らず一般的な概念を指すと思われる。おそらくは、エロスが美しいと感じるものが“美”だとか、そういう定義しか為されていないだろう。ハファエラはどこから“運動”を持ち出してきたのか。

 どう考えても、後付けだな。彼女は大学の講演会で俺を見た。キー・パーソンの常として、俺に何らかの“感情”を持った。彼女はそれを“美”だと解釈した。俺がスポーツをしていそうなのは、見れば判る。ならば、運動と美の関係を研究していることにすれば、俺が走っているところを見たいという言い訳に使えるだろう。こんなところか。

 さて、その考えを逆用して困らせてやったら面白いと思うのだが、ターゲットと関係なさそうだから、やめておくかな。

「それなら、他人の運動を見るのではなく、君自身が運動をして、それが美しく見えるようにするというのも大事じゃないのかね。もっとも、俺はそれを教えられない。美しく見えるように動いてるんじゃなくて、鍛えようとして動いた結果が、他人つまり君から見て美しく感じられたというだけだから」

「でも、私には運動の才能がありませんし……」

「しかし君の身体はプロポーションがいいし、適切に鍛えればとても美しい動きができると思うよ。君の姉さん、アンゲラにトレイニングをいくつか教えてもらったらどうかな」

「姉のトレイニングは実用的な身体を作るためのもので、形だけを教えて欲しいと言ったら怒られてしまうんです。それより、あなたの運動を見られるのは、今日だけですから、どうしても来たかったんです。いけませんでしたか?」

 困らせるのはやめようと思いつつも、困らせてしまった。こんなことは時間の浪費で、それを俺がやってどうする。

「もちろん、何も問題ない。それに運動と美の関係についても考え始めたところだろうから、まだ結論は出ていないんだろう。さて、そろそろ本題へ移ろうか」

 ハファエラがもう食べ終わったので、部屋へ行くことにする。リヴィング・スペースのソファーに座らせ、飲み物を出し、向かい合って座る。結局、この部屋に女は何人入ったんだ。アイリスを含めて、ハファエラで5人目か。

「さて、議題は君から提供してくれるのかな。また人工知能のテストのこと?」

「はい。先日は、突発事象に対する避難行動を観察する、という例を出しましたが、その後で、違う例も考えたので、ぜひご意見を伺いたくて」

「もちろん、聞こう」

「あなたの論文にはない例なのですが……」

「構わないとも。いい例なら、次の研究テーマにするかもしれない」

「その場合は、私との共同研究にしてくださいますか?」

 ずいぶんと気が早いが、もしかしたらそれが狙いか。

「まずは、聞いてからね。しかし、少なくとも君に黙って研究することはないよ」

「ありがとうございます。私が考えたのは……人工知能に、美あるいは愛情を評価させるのです。評価できるように学習させる、と言った方がいいでしょうか」

「なるほど。美や愛情というのは法則や方程式が定まっていないけれども、人間の頭脳の中で何らかの化学反応をもって評価が下される限り、人工知能はそれと同じ計算ができるはずだと」

「そうです」

「ところで、なぜそれを思い付いた?」

「今、プラトンの『饗宴』の研究をしているんです。既に研究し尽くされたテーマかもしれませんが、自分なりの解釈がしてみたくて……」

 巡査部長からの情報のとおりだった。おそらく彼女も“美”というものを漠然とした概念で捉えていたろうが、俺の講演を聞いて具体例をどうするか考え直したんだろうな。

「『饗宴』がどれくらい研究されているのは俺は知らないけれども、“美あるいは愛情”のうち、どちらかに限定できないか。“美”というのは単独に存在する概念ではなく、その評価によって人間が愛でる対象になり得るものだから、“愛情”に統一した方がいいと思うが、どうだい」

「私もそれでいいと思います。私の記憶が正しいかどうか自信がありませんが……絵画を評価する人工知能があって、ほとんどの評価は正確だけれど、ときどき人間の評価と大きく異なることがあるそうです。その場合、科学的な評価だけで、人間の精神活動、特に愛憎が理解できていないから間違うのだということだそうで……」

 ああ、そうね。あれはABCアカデミーでも話題に上ったとおり、構図・タッチ・色使いなんかを計算で評価するが、それとは別に画材の年代調査などの、予備調査が必要って代物らしい。もちろん、俺も詳しいことは知らないので、迂闊なことは言えないんだが。

「人工知能に絵を見せて、評価ポイントを計算式ではなく、言葉で聞かせて学習できるようになったら、もっと性能が上がるかな。それはさておき、今日の議論のテーマは“人工知能と愛情”だ」

「はい」

「どうすれば、人工知能に愛情が理解できるようになるだろうか」

「それには、私たちが愛情とはどういうものかを、説明できるようにならなければなりません。先ほどおっしゃったように、計算式ではなく、言葉で人工知能に説明するべきですから」

 なぜ“私たち”なんだ。“人間”ではなく。

「では、君が定義する愛情とは何か」

「ここでの愛情は、最初の定義どおり、美に対する愛情としてよいでしょうか?」

「もちろん」

「それは視覚に依るものが大部分を占めると思います。造形、色、配置などでしょう。また美術には音楽が含まれますので、聴覚にも依存していると思います」

「嗅覚、味覚、触覚もあると思う」

「なぜですか? ああ、香水の香りも美に関係していますし、おいしい食べ物も美に例えられることがあるのでした。ですが、触覚は……触る芸術のことでしょうか?」

「いや、絵画でも『いい香りがしそうだ』『おいしそうだ』『手触りがよさそうだ』という評価があるだろう。つまり、実物に近いという感覚。それは評価者の嗅覚、味覚、触覚の経験に基づくんだよ。人工知能に教えるのは難しそうだね」

「ああ、そういうことですか……もちろん、絵画だけでなく、彫刻や、動物、植物、それから人間に対してもその評価を当てはめることになるのですね?」

「もちろん、そうだ」

「そうすると、他にも評価項目に入れる概念があるのでは……例えば人間に対してなら、男性であれば『逞しい』『力強い』、女性であれば『優美』『繊細』……すいません、ジェンダーを区別する必要はないかもしれませんが、そういう言葉で表されるものも含めることになりますか?」

 ほら、複雑化してきた。さすが哲学科。

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