#16:第3日 (6) 巡査部長の圧迫感
「プロフェソールは、こちらにいつまでご滞在の予定ですか」
階段を降りながら、後ろも振り返らず
「土曜日まで」
「では、1日だけカルナヴァルをご覧になれますね」
「カルナヴァルの間は君たちも警備が大変だろう」
「科学捜査研究課員は外に出ませんが、他の間接部門では署員が駆り出されることもあります。我々はここに詰めて、システムを使って問題行動を監視するのです」
「騒ぎに紛れて犯罪をしようとする連中を?」
「
「ただの引ったくりではなくて、集団でやるのが特徴か。捕まえにくいんだろうな」
「そういう集団の出現を検知しようとしているのです。あなたもビーチで引ったくりに遭われたとか。荷物は戻ってきたそうで、結構なことでした」
そういう情報もちゃんと伝わってるのかい。間抜けなプロフェッサーだと思われてるんだろうな。
階段を降りるから、2、3フロア下へ行くと思っていたのだが、10フロアくらい降りた。階段の壁は薄汚れていたが、このフロアの壁は塗り直してある。床のリノリウムも綺麗。ドアも白塗りに細い
そのドアの一つを
椅子を勧められ、大型ディスプレイの前に座る。このディスプレイだけ場違いな感じがするので、プレゼンテイション用に持ち込まれたものかもしれない。
「迎えに手違いがあり、大変失礼しました」
なぜここに来てからそんなことを。
「君が来てくれる予定だったのか?」
「はい」
「臨時の秘書を務めてくれるホテルのコンシエルジュが頼りなくてね。何も聞いてなかったんだ」
「ホテルには連絡していません。コムブラテルの受付係が、昼休みでいなくなっていたのです」
「ブラジルはおおらかだな。昨日はどこに行っても、10分や15分の遅れは当たり前だったよ」
「少なくとも警察内部ではそのようなことがないように努めたいと考えています」
考えている、即ちまだできてないのか。
「でも、今は遅れてないんだろう?」
「そうでもありません。迎えの車の中で、私の自己紹介をする予定だったのです」
2015年生まれ。40年、リオ連邦大学計算機情報学科修士課程修了。修士論文タイトルは『複数の監視カメラ映像の解析による人物挙動の変化検知及び予測』。同年、文民警察科学捜査研究課採用。以後、論文の理論を用いた監視システムの構築に従事。
なるほど、超優秀な頭脳を持つ人材であることは解った。加えてこの美貌とプロポーション。どれか一つでも持っていればいいものを、三つとも独り占めとはね。現実の俺は、一つも持っていない。仮想世界の中ですら肩書きだけだ。
「俺に人事の権限があれば、君を財団に引き抜きたいくらいだよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
しかしちっとも嬉しそうな顔をしない。警察の仕事が合ってると思ってるのかも。
「俺の自己紹介は必要?」
「いいえ。あなたの経歴や研究内容は熟知していますし、ほとんど全ての論文を読んでいます」
「それはこちらも光栄だ。今日は監視システムの紹介だそうで」
「
「昨日、交通局で交通管制システムの紹介を聞いたが、それと連携してるのか」
「
「確かそうだった」
「こちらでは道路上の監視カメラの他、警察で設置したものと、私設カメラのうち警察に登録されたものの映像を利用することができます」
「それで行動監視を行う?」
「
「これから2時間半も説明してもらえるほど盛りだくさんなのか」
「もちろんです。まず、基本になる論文を説明します。その後、歩行者挙動監視システム、車両挙動監視システム、そしてこれらの複合監視システムについて説明します。誤解しないでいただきたいですが、正確には不正な挙動の監視システムです。集団の中から突出した行動を発見するもので、市民個々人の挙動を監視するものではありません」
「もちろん、理解してるよ」
プライヴァシーの問題があるから、いちいち断るのだろう。しかし、実際には個人の監視はできてしまう。それが犯罪あるいは事故に関係しない限り、調べないというだけだ。
「では、論文の説明から」
「君、
「お気持ちはありがたいですが、私、体力には自信がありますので、平気です」
いや、本当は前に立っていると胸の揺れが気になるので、座って欲しいんだよ。説明に集中できない可能性がある。
「何かスポーツを?」
「
ブラジリアン柔術というと、寝技の組み技が多いんじゃなかったっけ。彼女から寝技に持ち込まれたら、逃げられそうにないんだけど。
「知り合いにアスレティック・トレイナーがいるんだ。君のトレイニング方法を知りたがるだろうな」
「そうですか。私のことを紹介して下さっても構いませんよ。トレイナーの意見も聞いてみたいと思っていますから」
「では、その話は後で。余計なことをしゃべりすぎた。始めてくれ」
「
態度は慇懃だが、俺は上官ではないので――そして年下なので――返事は「
それはさておき、論文の解説。まずはカメラ映像の中の人物の追跡。最近傍法と粒子フィルター法を動的に切り替えることにより、多数の人物が交錯する中で個々の移動軌跡を正確に追跡する。
次に複数のカメラ映像の中の、同一人物の同定。時間と予想軌跡、顔認識、服装認識、歩容など身体の動きの特徴を元に、複数の映像にまたがる人物の移動を追跡する。
さらに、日付をまたいだ映像での、同一人物の同定。前日あるいは前週同曜日の軌跡と顔認識、歩容解析から同一人物の移動軌跡を特定し、パターンを学習する。
そして問題行動の検出。移動速度あるいは移動方向の急変、他の人物あるいは車両との接触、個人のパターンから大きく外れた移動軌跡を検知した場合、問題行動と見做す。ただし、個人の行動がある日を境に急変することもあるので、学習次第で行動パターンに組み込まれることもある。
これをソフトウェアで実現したのが、歩行者挙動監視システム。リオ市内2万台のカメラ映像をチェックすることができる。
「パターン学習の効率が、最初は非常に悪かったのですが、あなたの論文を元にシミュレイションを再構築してパラメーターを調整したところ、大変うまくいくようになりました。虚報率、つまり人の目で見て問題ない行動を問題と検知してしまう、あるいはその逆を検知してしまう確率が、1%未満まで落ちたのです」
「それはたいしたものだ。俺が他で紹介されたシステムでは、1.2%から1.8%の範囲が多かったように記憶している」
「もちろん、ビッグ・データの中からサンプリングで取り出した例が、たまたまよかっただけということも考えられます。しかし、実際に検挙率は上がりました」
「実際に適用してるのか」
「
「リオ市内全域で?」
「市内のカメラがある場所だけです」
「領域から外れることもあるわけか」
「
「俺の場合はどうだった?」
「警報は上がりました。ただ、初動の時点で盗難品が被害者の手に戻ったという連絡が入りましたので、犯人は追跡しませんでした」
「ひったくり犯はちゃんと検知できるんだ」
「被害の特に多いコパカバーナ、イパネマは監視カメラを充実させていますので、見逃しはほとんどありません。被害件数も以前より減りました」
「なくならないのは、犯人の方が、このシステムがあることに気付いてないのかな」
「今、周知すると陽動が増えるかもしれませんし、他の地区の被害が増えるかもしれないので、広報する時期を検討中です。それと、余計なことかもしれませんが、被害を受けた後のあなたの行動も、警報の対象になりました」
「犯人を追いかけたことが?」
「
「俺の行動はパターンに載ってないのに」
「不特定多数の共通的行動パターンから外れる例も検出しますので」
そして一昨日の行動データを見せてくれた。俺が女に話しかけられ、鞄を引ったくられ、追っていくところで確かに“問題行動”を検知している。もちろん、引ったくり男も“問題行動”。
「この後、あなたが元の場所に戻って警官と話をするまで、あなたは追跡対象者になっていました」
引ったくりを捕まえてくれた二人の行動は、検知されなかったのかねえ。アルセーヌとオーレリー。
「でも、そのさらに後の行動も追跡できるのでは?」
「正直に答えますと、そのとおりです」
「どこまでできる? 俺がホテルへチェックインするまでか」
「いいえ、今日、この建物に入るまで、できるはずです。それにデータを遡れば、あなたがトム・ジョビン国際空港に着いてからの行動も判るでしょう」
へえ。俺はコパカバーナ・ビーチへ“突然”放り出されたのだが、その前の行動が判るのなら知りたいものだね。それはこの後の複合監視システムの例を示すときに見せてくれる? なら、それまで待とうか。
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