#15:第7日 (6) 国境検問所
タクシーを飛ばしてアクインクム遺跡に駆けつけたが、到着したのは11時。公開の式典はとっくに終わっただろう、と思っているのだが、やけにざわついている。遅れてこれから始まるというわけでもなさそう。というか、警察がいるよ。つまり、もうターゲットは盗まれてしまったと。やられた。いったい誰に。
現場を見てみたいが、遺跡の中に入ることもできない。警官と刑事が右往左往している。見張りの警官にじろりと睨まれる。おっと、見知った顔を発見。
「
「えっ!? ああ、ドクトル・ナイト。どうしてここに……」
ポーラは今朝美術館で見かけたのとは違うスーツ姿だったが、どうも様子が変だ。目が泳いでる。それに徹夜明けのはずなのに、どうしてこんな事件現場に出張って来てるんだ。
「今日で帰国するんだが、最後に少し観光をしようと思って」
「そうでしたか」
「それで、何があったんだ?」
「いえ、お教えするわけには……」
「“風の塔”のレリーフの公開式典があったんだろう? もしかしてそれが盗まれたのか」
「……申し訳ありませんが、訊かないでいただけませんか。後でちゃんと発表しますから」
そんな、泣きそうな顔をすることないのに。美術館の方は勝利宣言を出したんだろう? 発表したのは君じゃないだろうけどさ。
「他の二人の刑事は?」
「別件で、他に回っているんです。あの、私、まだ仕事が」
他でも盗難事件が? じゃあ、別のターゲット候補があったんだろうか。
「ああ、邪魔して申し訳ない。しかし、あと一つだけ。式典が行われていたにしては、人が少ないんだけど」
今日は建国記念日だし、他でもいろいろな式典をやっているから、人は分散しているだろうが、それにしても少ない。博物館の館長らしい男はいるが、一般人はほとんどいないじゃないか。まさか、全員容疑者として警察へ連れて行かれたというわけでもないだろう。
「式典の後、別のイヴェントがあったので、たぶん皆さんそちらへ」
「どこで何のイヴェント?」
「向こうの、
教えてあげるから、さっさとそっちへ行って、という感じでポーラは言ったが、その内容があまりにも衝撃的だった。マルーシャが来ていた!
レリーフが盗まれたとしたら、その犯人は彼女でまず間違いない。しかしそれがバレることもなく、なおかつその後、堂々とコンサートに参加してしまうところが、さすがと言うか何と言うか。
とりあえず、
「ああ、11時からの。ええ、とても短い、1分くらいの歌を、無伴奏で独唱したんだけど、とても感動的だったわ! その後の拍手の方が長かったんじゃないかしら」
「それで、彼女はどこに」
「すぐに帰ったと思うわよ。他に二人、付き添いみたいな男の人が来ていて、その人たちと一緒に」
ラカトシュ兄弟だな。おそらく彼らは、レリーフの運搬に利用されただろう。どれくらいの大きさと重さがあるか知らないが、少なくとも車で運ぶはず。ハンド・バッグに入るような代物じゃあるまい。しかし、どこへ行ったかはもう判らない。ホテルももう引き払っただろうな。
ホテルといえば、ジゼルがまだ待ってるのを思い出した。もうすぐ昼だし、彼女とちょっと付き合った後で、退出するか。無茶なことを言われないといいなあ。
腕時計の三つの針が12の位置で重なって、さあ黒幕が、と思ったのに、電話がかかってきた。どうして今頃。まさか、ジゼルが待ちきれなくなって電話してきたのか。
「ハロー、誰だい」
「
「マイ・ディアー・メグ。荷物は全部詰めたよ。後はスーツ・ケースをロジスティクス・センターに送って、時間になったら空港へ向かって出発するだけだ」
「空港行きのバスはホテルのすぐ前から出るはずだけど、遅れないように気を付けて。所要時間は40分だったわね。シャルル・ド・ゴール行きはリスト・フェレンツを何時出発だったかしら」
どうしてこんなに世話好きかと思うが、コンシエルジュの時の気質が抜けないのだろう。ありがたくもあり、うるさくもあり。しかし、俺の帰りを待ちわびているのだろうと感じる。
ああ! でも、ステージが終わってもアヴァターにしか会えないんだよな。次にメグと夜の語らいを楽しむのは、いつの日か。解ってるよ、ちゃんとするよ、愛してるよと何度も言ってから、電話を切る。
さあ、黒幕が。しかし、また電話だ。何なんだよ、どうして電話が鳴ったら幕が下りないんだよ。降りてる間は、外の時間は経たないんだろう? だったら、黒幕の方を先にしろよ。
「ハロー、誰だい」
「
ジゼルだった。やっぱり、待ちきれなくなって電話してきたのか。
「
「ジジだよ。早く来て。マルーシャが出て行っちゃったから、一人で寂しいんだ」
「どこへ行けばいい、レストランか」
「僕の部屋に決まってるじゃない。ドアの錠を開けてるんだ。早く君が来てくれないと、他の人が入って来ちゃうよ」
何を言っているのかさっぱり解らない。錠を掛けて、俺がノックをした後で開ければいいだけだろ。解ってるよ、ちゃんと行くよと何度も言ってから、電話を切る。
ようやく黒幕が降りてきた。何だか、電話が架かってくるのを察知して、待っていたような気がする。暗くなって、スポット・ライトが降りてきて、アヴァター・メグが現れる。ああ、彼女の身体に触りたい。
「ステージを中断します。
「冗談がきついな、ビッティー。ハンガリーは5ヶ国か6ヶ国と接してるから、
シェンゲン協定に加盟しているから、他の加盟国との間にはないはずだが、たぶん東側の国との間にはあるだろう。
「お答えできません」
「いくつかあるうちの、どこでもいい?」
「お答えできません」
頑なだな。メグなら絶対、親切に案内してくれるのに。
「じゃあ、ハンガリーの隣国で、シェンゲン協定の加盟国と非加盟国をそれぞれ教えてくれ」
「加盟国はクロアチア、オーストリア、ルーマニア、スロヴァキア、スロヴェニアです。非加盟国はセルビアとウクライナです」
「地図を表示して、色分けしてくれ」
床が地図に変わる。中心のハンガリーが緑。加盟国が淡青、非加盟国が黄。ウクライナとの国境、セルビアとの国境はかなり短い。全体の10分の1くらいかな。しかし、検問所はいくつあるか判ったもんじゃない。
だから、
「ちなみに、そこはメインなのかサブなのか」
「お答えできません」
やっぱり答えてもらえないか。
「この後、君を呼び出せる?」
「いいえ、できません」
つまり、これ以上のヒントなしでも判るはずだと。
「無事退出したら、どんな言葉で迎えてくれるんだ」
「どんな言葉がよろしいでしょうか?」
メグが言いそうなことを、ビッティーに言わせるのはつまらないよな。メグは嬉しそうに言うから俺も嬉しいのであって、それをビッティーの抑揚のない声で言われた日には。
「『
メグならきっと「
「了解しました」
「じゃあ、
「ステージを再開します」
幕が上がり、アネータに電話でチェックアウトを伝える。鞄を持ってロビーに降り、ロジスティクス・センターに荷物を送る手続きをした後で、アネータに訊く。
「どこかに有名な
「空港に行かれるんじゃないんですか?」
まだ寄り道するつもりかという感じで聞き返してくる。そういや、飛行機の出発時間って、誰も知らないのな。もしかして夜中の12時とかじゃないか。
「行くかどうかは置いといて、純粋に情報として答えてくれよ」
「有名なところなんて、あったかしら」
アネータが首を捻って考え込む。どうしてタブレットで調べないんだ。しかし、そうして考えてる姿はなかなか魅力的なんだけど、不必要なセクシーさだよな。
何も思い付かないのか。そういえば、世界遺産の洞窟の中に国境があると、ジゼルが手紙に書いてたな。それのことじゃないのか。いや、スロヴァキアとの間だから、検問所はないか。
「あっ、思い出しました。ショプロンです。
ショプロンはハンガリー北西部、オーストリアとの国境の町。1980年代後半、東側社会主義国では民主化が進められようとしていた。ハンガリーはその中で最も進んだ国だった。88年から海外旅行を自由化し、89年5月にはオーストリアとの国境に張っていた鉄条網を取り払った。
その中で、ハンガリーの有志団体により“ヨーロッパ・ピクニック”が計画された。ショプロン付近で、ハンガリーとオーストリアの国境を挟んで、東西ヨーロッパの人々が将来のヨーロッパ統合について語り合う集会を開こう、というもの。
しかし、実際のところは東ドイツ国民をオーストリア経由で西側に亡命させようという企みだった。当時の東ドイツは、東側諸国の中で最も強力にマルクス・レーニン主義を守ろうとしており、多くの東ドイツ国民が西ドイツへの亡命を望んでいたのだ。
ハンガリー政府はもちろんこれに協力的で、“ピクニック”は8月19日に開催され、“大成功”を収めた。その日だけで600人以上の東ドイツ国民がオーストリアへ越境。8月中で3000人に達した。そしてこれが結果的に、11月9日の“ベルリンの壁”崩壊へとつながったわけだ。
しかし、説明が長いよ、アネータ。俺が知りたかったのは場所だけだ。地図を見せろ。なるほど、横に長いハンガリーの、左上の角みたいなところだな。近くにはオーストリアにまたがる世界遺産のフェルテー湖。ん? 何か、嫌な予感がしてきた。
「ありがとう、アネータ。1週間、世話になった」
「私も、いろいろと学習できました。奥様にもよろしくお伝えください」
いったい何を学習したんだろうと思う。
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