#15:第7日 (5) 風の塔
「日時が指定されれば、緯度と経度が計算できる」
「おっしゃるとおりですわ」
緯度は、北極星の高度から判る。しかし北極星がなくても、頭上の星座の位置関係から計算できる。日時が指定されれば。そして同時に経度も求められる。そこに宝が隠されている?
「しかし、厳密な値は計算できない。緯度や経度が1秒でもずれていれば、数十ヤードの違いが……」
「緯線1秒の長さは30メートルほどです。経線1秒の長さは緯度によって違いますが、ブダペストのあたり、47度30分でも、20メートル以上です。地球上のどこか一点を指すためには、確かに誤差が大きすぎますね」
「つまり、概算の緯度と経度さえ解ればいい。その位置を含む都市が特定できさえすれば」
「そういうことです」
合衆国なら、北緯45度上にミネアポリスがあるとか、西経90度上にメンフィスやニュー・オーリンズがあるのはよく知られている。ニュー・オーリンズは北緯30度も通ってるんだったかな。
さて、この絵の場合はおそらく北緯と東経だろうが、それぞれ何度で、ハンガリーのどこの都市を指すのか。いや、コヴァルスキの祖国であるポーランドの都市かも。
「都市が判ったとして、その中のどこに何があるかは?」
「“どこに”は現地に行って調べれば判ると思っています。“何が”は、せっかくですからお教えしましょう。『アポロンとダフネ』という彫刻です。ローマ時代の詩人オウィディウスの『
「君の祖先が収集していたものを、どこかに隠し、その在り処を絵の中に残した……」
「私たちはそれを描いたデッサンだけを見たことがあるんですが、その中のアポロンが、あなたによく似ていると思いますわ」
冗談だろ。アポロンは神だが、彫刻ではギリシャ人に似せているに決まってる。俺はギリシャ人に似てると言われたことは、さすがにないよ。
「そしてダフネは君に似ている?」
「私よりもっと美しいですわ」
まさかマルーシャに似ているんじゃないだろうな。
「俺もそのデッサンか実物を見てみたいよ」
「残念ながら、お見せするわけにはいきません。私たちだけの宝ですから」
さっきからいろいろ言いながら、ダフネが俺の身体を撫で回すのはなぜなのかなあ。アポロンは身体だけが俺に似ているんだろうか。
とにかく、絵画の特別鑑賞会は終わった。ダフネがようやく俺の身体から離れ、手を引いて天文台を出ようとする。
「絵はどうするんだ?」
「ここへ置いていきます。後で警察に連絡しますから、いずれ元の持ち主のところへ戻ることでしょう」
「目的はもう果たしたから、返すのか」
「私たちが独占するより、多くの人に見てもらいたいですから。特に、『
そういうことなら、俺はこのまま『
「ここは、何という天文台?」
車に乗りながら、ダフネに訊いてみる。名前さえ判れば、後で場所を調べることができる。
「さあ、それはご自分でお調べになったら。ハンガリーで最大の天文台、ということはお教えしますから」
俺の魂胆が見抜かれてるのか。ホテルに戻って、アネータに調べてもらうまでは、ここに来られそうにない。道は複雑で憶えにくいし。
ダフネには「マルギット橋の上まで送ってくれればいいよ」と言った。北のアールパード橋へ行くと遠回りになるからだが、帰り道は来た道と違うところを通ったらしく、距離感すら掴めなかった。
橋の上で車を降りながら、ダフネに礼を言う。
「いいものを見せてくれてありがとう。君と知り合いになれてよかった」
「私もあなたと会えてよかったと思いますわ」
「そういえば、俺が何もしなかったのがよかったと言っていたな。あれはどういう意味?」
「あなたは絵を盗もうとしませんでしたから」
それは盗む方法を思い付いていなかったからで、館長室にいた間は、もし隙さえあれば、盗みたかったんだぜ。チャンスはなかったし、いつの間にか模写にすり替えられてて驚いたんだ。
「他に誰かに盗もうとしていたのか」
「ええ、少なくとも3人は」
「よくその3人を出し抜くことができたな」
「それもあなたの論文のおかげです」
あれに、敵の裏をかくやり方なんて書いた憶えはないんだけどね。別れの挨拶として、ダフネの手の甲にキスをした。
自転車でホテルに戻ると、ロビーでアネータが呆れ顔で待っていた。
「ずいぶん遅かったですね。心配しました」
言葉と表情が一致してないよ。子供じゃあるまいし、帰ってくるのがちょっと遅くなったくらいで、いちいち心配すんなって。
「朝食を摂ってる間に、調べて欲しいことがある。まず、ハンガリーで最大の天文台」
「コンコリー天文台です。ブダの西の、山の中腹にあります」
そんなに有名なのか。とりあえず、場所を調べろ。
「それから、指定の緯度経度と日時で星座を表示するアプリケイション」
「私が持っているこのタブレットで見られればいいでしょうか?」
それでいい……待て待て待て、もしかしてそれで盗聴されてるんじゃないか? まあ、いまさらどうでもいいや。
部屋に戻ってシャワーを浴び、レストランで朝食。それからまた部屋に戻って、アネータを呼び出す。10時になってしまった。
「メッセージが入っていますが……」
まだターゲットを探さなきゃならないっていう忙しいときに、これだよ。
「誰から?」
「ジジ・ヴェイル
ジジ・ヴェイユだよ。フランス語の発音ってそんなに難しいかね。
「何の用?」
「フォー・シーズンズ・ホテルに、会いに来て欲しいと」
最終日に会うって約束を守れって? でも、午後からって言ったはずだぜ。
「いつ会いに行くかは後で返事するよ。まず、天文台の場所」
アネータがタブレットで地図を見せてくる。ホテルからほぼ真西だな。距離は6.7キロメートル……4マイルと4分の1、よりも少し短いくらいだな。
今日も営業してるじゃないか。9時から5時まで。さっきは閉まっていたが、夜には観測をしてるんだろ。明け方から9時までの間だけ閉まってたのか。とにかく、もう絵は発見されてしまってるな。その前に警察が来たかもしれないけど。
「ところで、泥棒はどうなったんだ。何かニュースがあった?」
「警察と美術館が勝利宣言を出してました。盗まれるのを防いだと」
宣言が出たのは7時。取り返したという意味じゃなさそうだな。じゃあ、絵は本物だという館長の主張を通したわけか。いいのか、それで。
「星座を表示するアプリケイションは」
アネータがまたタブレットで見せてくる。日時を入力すれば表示されると。さて、どうしよう。とりあえず、今日8月20日午前2時。タブレットの中に星空が表示される。天頂の配置は、天文台で見た“星座”と少しずれている。
そういえば、位置は? ああ、ブダペストが基準なのか。北緯47度29分、東経19度03分。あの時見た配置が天頂に来るように、動かすことはできないものか。
フリックでは動かない。緯度経度を再入力するしかない。緯度はもう少し上げる。経度はもう少し西へ。逆だった。東へ。
おお、まさかのぴったり。北緯50度、東経20度。
この位置にある都市は? タブレットの表示を地図に戻す。ハンガリーではなく、ポーランドだった。クラクフ。ポーランド第3の都市で、かつてポーランド王国の首都だった古都。ふむ、これはボナンザかも。ただし、ダフネにとって、であって、俺には関係なさそうだ。
じゃあ、ターゲットはいったいどこにあるのか、とりあえず、タブレットをアネータに返す。
「ご用はお済みですか。チェックアウトはいつにしましょうか」
「何時までいられるんだっけ」
「12時までですが、ご希望があれば延長します」
とりあえず、ビッティーからゲートが開いたお知らせがあるまではホテルにいたらいいと思うが、ターゲットのことを考えないと。
「えーと、チェックアウトは……」
「考えごとをしたいんだけど、調べ物を頼むかもしれないから、しばらく黙ってそこにいてくれないか」
「イエス・サー」
案外、素直。
さて、ターゲットは。考えれば考えるほど「絵ではない」という気がしてくる。だって『
だから、泥棒が『
予告状が出た後で、どんな情報があった? 俺がそれを知らされたのは、ジゼルからだが、それはさておき、朝になってから起こったことは。
ダフネと会ったな。女3人との朝食や、温泉のことはどうでもいいだろう。その後は国会議事堂。何もなさそう。午後から歌劇場。何もなさそう。
それから美術館に呼び出されて、またダフネと会って、美術館で実りのない打ち合わせをして、ユーノとディナー。
そこでは情報があった気がする。
何か面白い話題が出たか。
あれ、
「アネータ」
「
また油断してやがったな。今が一番重要なところなのに。
「アクインクム遺跡に、塔の跡が残っているな。あれが何だったか、判っているのか」
「塔の跡……すいません、それ、知りません」
なんと情けない顔をしている。知らないのなら早く調べてくれ。しかしこれも、初日に調べておくべき情報だよなあ。
「いろんな説があるみたいですが……ただ、とても新しい情報が一つあります。ブダペストのある歴史研究家が、自分の研究に基づいて、部分的に復元したものを作ったそうです。それを今日の建国記念式典に合わせて、アクインクムの遺跡博物館で公開すると……」
「それはどんな説なんだ」
「ギリシャにある“風の塔”を小型にしたものではないかと。広場にあること、それに、水を引き入れて時計を作った形跡があるというんです。それで、部分的に復元したのは、塔の上部の
ボナンザ! そのレリーフの中の
「その公開は何時からだ?」
「10時半です。博物館の開館の、30分後。あ、ちょうど今からですね」
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