#15:第7日 (4) 天体観測

「さて、どこで話をしようか」

 整理運動をしながらダフネに訊く。ロング・スカートの裾が朝の風になびいて、ちらちらと覗くふくらはぎの曲線が美しい。

「私たち姉妹の美術館へお招きしますわ」

 美術館。つまり、コヴァルスキの4枚の絵を、そこに置いているということだろう。しかし、どうして俺を招待してくれるのか。

「光栄なことだが、そこまでしてくれる理由は?」

「あなたが私たちのお力になってくださったからです」

「俺は何もしてないと思うよ」

「それが良かったのですわ。どうぞこちらへ。自転車はもうしばらくここに置いていても構いませんでしょう?」

 後で回収すればいいだけだが、ホテルへ戻る以外にもう使う予定はないし、このまま放っておいていいかもな。アネータに言えばきっと何とかしてくれる。

 ダフネの後に付いて歩く。今さらながら、尻の形が美しい。あまり見過ぎないようにするため、並びかけることにした。

 しかしそうすると、ドレスの胸元が気になるんだなあ。どうして俺はそんなところばかり見てしまうんだろう。

「君の妹たちは、俺を招待することを了承してくれてるのかい」

「もちろんです」

「他に招待者は」

「いません。あなただけです」

「しかし、勝手に付いてくる奴がいるかもよ」

 マルーシャとか、ラインハルト氏とか。それからもう一人、ビアンカ・ミノーラだっけ。彼らも恐らく『西風ゼピュロス』を狙っていたはずで――ターゲットとして――ダフネたちに盗まれたのなら、奪おうとするんじゃないか。それには、3姉妹の誰かの跡をけるのがいい。

 ダフネが今朝、この時間、この場所に来るのは、少なくともマルーシャは知っているはずで、他の二人も知っている可能性がある。何しろ、俺の行動情報は各所にだだ漏れだから。

「ちゃんと注意していますわよ。もし付いてきても、あなたのせいにはしません」

 近くの陸上競技場へ行き、駐車場に停まっていた白い小型車に乗った。すぐにダフネが車をスタートさせ、北へ向かう。緑の並木道をゆっくりと走り、広い芝生公園の横を通り過ぎ、“音楽の泉”をちらりとかすめて、坂道を登る。

 アールパード橋を、西へ。オーブダ地区に入り、北のアクインクム遺跡の方へ行くのかと思ったら、逆に南へ折れた。

 この辺りは通ったことがないので、もうどこへ向かっているか判らない。しかし、右手に円形闘技場が過ぎていった。この町に二つあるうちの、見に行っていない方だ。円形と言うよりは、楕円形、あるいはフットボール形をしていたと思う。

 そこからは、西へ折れたり南へ折れたり。つまり、概ね南西へ向かっているらしいことが判る。町の西には低い山が連なっているが、そこへ行きそうな感じ。


 緩やかに坂を登り、緑が多くなって、民家が途切れたなと思った頃に、立派な建物の前に着いた。緑の木々に囲まれた、白堊の豪邸。というよりは、確かに美術館のような外観だ。

 門が閉まっているが、その前で車を停めて降り、ダフネが門を開ける。錆びてきしむ音がする。正面の建物は、思ったよりも壁や屋根が古びていた。しかし、使っていないわけではあるまい、という感じ。そこへは入らず、建物を回り込んで裏手に向かう。

 山裾の、鬱蒼と茂る林の中の小道を行くと、ドーム屋根を持つ円形の建物があった。

「天文台、かな」

「ええ、そうです」

「もう使っていない?」

「いいえ、まだ使っていますが、一時的に借りているんです」

 無断で、だろう。そりゃそうだ。天文台を借りられるほどの財力があれば、コヴァルスキの絵だって買ってしまえばいいんだ。そう高いものじゃないはずだし。

 荘重な木のドアの錠をダフネが開け、彼女に続いて入る。灯りを点けてくれない。ダフネはペン・ライトで自分の足元を照らしているが、俺の足元は真っ暗。しかし、彼女に付いて行けばいいのだから、危なくはない。

 もう一つドアを開けて、広間に入る。恐らく望遠鏡が置いてあるだろう。ダフネが立ち止まり、俺の手にペン・ライトを握らせた。そして手を持ったまま、上の方に向ける。四つの長方形が……額縁が、2列2段に並んでいた。もちろん、コヴァルスキの絵のはず。そのうち、左上の一枚だけ見たことがある。『西風ゼピュロス』だ。

「全部本物?」

「もちろんです」

「どうやって美術館ガレリアから盗んだ?」

「それをお知りになって、何か良いことがありますかしら?」

「知的好奇心が満たされる」

 信じられないことに、これを否定した合衆国大統領が過去にいるんだ。

「そんなに知的なことはしませんでしたわ。建物に押し入って、頂戴しに参上した、と言って、貰い受けただけです」

「いつ?」

「もちろん、今朝の2時です」

「その時間に美術館ガレリアへ来たのは小型無人飛行機だけのはず」

「あら、ご覧になったんですか」

「ちょうど、館長室にいたんだよ」

「あれは、私が操縦したんです。ゲッレールトの丘から。この辺りでずいぶん練習しましたのよ」

「そうか。しかし、無人飛行機は美術館ガレリアに入ってこなかったし、泥棒も来なかった」

「行く必要がありませんから」

「どういうことだ?」

「単純なことです。『西風ゼピュロス』は美術館になかったんです」

「美術館に……じゃあ、どこに?」

 ダフネの方を向いたが、暗闇の中のことで、何も見えない。しかし、穏やかに微笑んでいるのではないかと思う。

「どこだとお思いになります?」

「まさか、最初からここにあったんじゃないよな」

「ええ、そんなことはありません。ここへは、あなたにお見せするために持って来ただけです」

 では、どこにあったか。美術館ガレリアは、確かに本物の『西風ゼピュロス』を所蔵していたのだろう。密かに売られたとは思えない。ならば、美術館の関係者が隠し持っていた、ということになるのではないか。そんなことをしそうなのは……

「館長の家にあったのか」

 待っても、ダフネの返事はなかった。しかし、否定しないのは肯定の意味に受け取っていいのだろう。だが、それでいいのだろうか? 予告状では、今朝の2時に美術館ガレリアに参上する、となっていたのではないか。はっきりと思い出せないが……

「8月20日、午前2時、美術館ガレリアが所蔵するダリウス・コヴァルスキの『西風ゼピュロス』を頂戴しに参上する」

 ダフネが唄うように言った。どうして彼女は、俺が予告状のことを考えていることが解ったのか。

「私たち、嘘はついていませんわ。午前2時に美術館ガレリアへ行くなんて、予告していませんもの」

 確かにそうだ。『西風ゼピュロス』は美術館ガレリアの所蔵だが、館長が自宅に持って帰っていただけだ。そこへ2時に行って、盗んできた。

 とすると、解らないのは3枚の絵に、誰がどうやって目印の署名を書いたか? 館長室のは、館長が嘘を言っていたとしても、他の2枚は?

「それより、もっと知的好奇心の刺激されることを考えてみませんか?」

「何のこと?」

「この4枚の絵に、どんな秘密が隠されているか」

 それは確かに興味がある。そしてもちろん、ダフネは解ったのだろう。なぜその秘密を、俺に考えさせようとしているのかは解らないけれど。

「暗くて絵がよく見えないが、それでも解るのかな」

「これくらいで十分ですわ」

「この配置に意味はある?」

「それもお考えになってください」

「『西風ゼピュロス』以外は知らないんだ」

「左下が『南風ノトス』、右上が『北風ボレアース』、右下が『東風エウロス』です」

 どれにも女神が描かれている。画家は、何と言っていただろうか。しかし、名前が判っていて、それだけで謎が解けるのなら、絵を盗む必要はないはずだ。ヒントにはなるかもしれないが。

 解読に、絵画そのものが必要なのは? カンヴァスはどうやら関係ないらしい。アネータがそう言っていた。信用してもいいだろう。彼女はもう一つ、絵の中に暗号として描かれているのでは、と言った。しかし、それだって写真があれば解るはずだ。逆に言うと、写真に写らない何かによって描かれていると……

「光って……いるのか?」

 俺の目が、どうかしたのかもしれない。ペン・ライトの光はふらふらと揺れて、そのせいで煌めいているだけだろうか。しかし、100年くらい前の絵のはずで、表面も古びていたはずだ。あるいは、洗浄したのか?

「ライトを消してもいいかな」

「あら、どうしましょう。私、真っ暗なところが怖いんです。あなたにしがみついていて構いませんか?」

 そんなこと言いながら、さっきからだいぶ身を寄せてるじゃないか。それに俺は走った後なんだぞ。君の身体が汗臭くなるぜ。

 構わず、ペン・ライトを消す。ほんの少し明るかっただけなのに、それに目が慣れてしまって、辺りはただの闇になってしまった。光の残像まで残っている。

 しばらく待つ。ダフネが本当にしがみついてきた。いや、そんなに身体を触らないでくれ。手が下におりてきた。そこはまずい。思わず腰が引けてしまう。

「……やっぱり、光っているのか」

「何が見えますか?」

 解らない。いや、待て。ここは天文台じゃないか。そうか、最初からダフネはヒントをくれていた。見えるのはおそらく星座。絵の中に、夜光塗料で点が描かれていたんだ。

 100年前だから、おそらくラジウム塗料だろう。絵の具に混ぜたから光も弱い。放射性物質の崩壊が進んで光らなくなっていてもおかしくないが、あるいは放射線検出装置を使って場所を特定し、描き直したのか。

「残念ながら、星座は詳しくなくてね。俺が住んでる辺りじゃ、町が明るすぎて星空も見えないんだ」

「『東風エウロス』に描かれているのはスパルタの王妃レダです。何の星座と関係しているかご存じですか?」

「確か、はくちょう座だったんじゃないか」

 俺が知っている神話では、ゼウスが白鳥に化けてレダを誘惑した。レダは後に卵を産んだ! 卵からヘレネ、あるいは双子座のカストルとポルックスが産まれた。

 他の説もあるが、それはさておき、『東風エウロス』にはくちょう座が描かれているということか。それほど“星”は多くない気がするので、あるいは一部なのかもしれない。

 そしてこの並びに意味があるとすれば、他の3枚と合わせて、夜空の一部が切り取られているのだろう。なぜそんなことをせねばならないのか。

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