#15:第6日 (9) 西風の賦

【By 主人公】

 昼食の後、アンドラーシ通りへ。ここはハンガリーの世界遺産の一つに含まれていて、ホテルからもそう遠くないのに、見に来るのがこんな遅くなってしまった。もちろん、夕食のレストランの行き帰りなど、タクシーで通りがかったことはある。だがそのときには日が暮れていた。明るいうちに見るのは初めてだ。

 だから一通り歩いてみることにする。ホテルのすぐ前、エルジェーベト公園から北東に延びていて、終点は英雄広場。端から端まで歩いても1マイル半、大した距離ではない。一直線に伸びる計画道路で、ブダペスト随一の目抜き通りなのだが、対向4車線とさほど広くはない。ただし歩道もあるし街路樹も並んでいる。

 通り沿いの建物は重厚で荘重な装飾が多い。4分の1マイル行くと、左手に国立歌劇場アーラミ・オペラハース。通りのランドマークとも言える建物だが、向かいにあるのもなかなか立派だ。旧国立バレエ学校。歌劇場ではバレエが上演されることもあるから、バレエ学校の生徒は毎日、向かい側の建物で踊ることを目標に練習に励んだのだろう。

 もう4分の1マイル歩くと、オクトゴンと名の付いた8角形の交差点。交わるのは路面電車トラムの走るテレーズ通り。

 ここまでは商業用の建物が多かった。ここからは住宅街になり、建物の高さも少し低くなる。その中に“恐怖の館”と名の付いた建物がある。幽霊が出るアパートメント、というわけではなく、ハンガリーがファシズムや共産主義に支配されていた不幸な時代の記録と、その犠牲者を追悼するための展示施設だ。観光客が列をなしている。

 その建物の前に、妙なオブジェがある。縦横10フィートくらいの鉄の壁に、錆びた鎖がたくさんぶら下がっているのだ。すぐ横に銘板があり、読むと“ベルリンの壁記念碑ベルリン・ウォール・メモリアル”。ベルリンの壁がどういうものかは知っているつもりだけど、どうしてブダペストで、しかも鎖なんだよ。

 いや、すぐ近くに本物の“壁”もあった。幅5フィート、高さ15フィートくらいの薄っぺらいコンクリート製で、この通りに元々あった建物の残骸かと思った。

 で、鎖の方は正しくは“鉄の壁記念碑アイアン・ウォール・モニュメント”。要するに、東西を隔てていた障害物を、記念として飾ってあるわけだ。ハンガリーは西側に属したり東側に属したりしていたから、特に大変だったろうな。

 平和になった現代を喜びながら、通りを進む。恐怖の館の斜め向かいに、リスト・フェレンツ記念博物館がある。時間があれば、行ってもよかったと思う。

 さらに行くと、先ほどは八角形だったが、今度は円形になった交差点が現れる。コダーイ円形広場。コダーイはもちろん作曲家コダーイ・ゾルターンのことだろう。ただし、どんな曲を作ったかは知らない。東側の角に、彼を記念した博物館が建っている。時間があれば、行ってもよかったと思う。

 通りはここからまた様相が変わる。庭付きの高級住宅が増える。時々、外国の大使館が建っていたりする。観光客が見るようなものはなくなるので、ここから引き返す。

 時間どおり歌劇場の前に到着した。マルーシャがいて、珍しく笑顔を振りまいている。ここではもちろん、アンナの名は使わないはず。ただ、近付いていくと笑顔が消えていつもの彼女に戻った。

「君はここへ、初日くらいに見に来たんじゃないのかね。本業なんだからさ」

「ええ、そう。そのときに、あなたを紹介して、観覧に呼んでもらうように取り計らったの。そうしたら最初から予定に入っていたらしくて、でもこんな遅い日になったわ」

「それでどうして今、君がここにいる?」

「ラカトシュ兄弟に誘われたの。それで、あなたを彼らに引き合わせようと思って」

 また男避けか。いや、彼女にそんなのは必要ないはずなんだけど。

「ラカトシュ・フュレプに兄か弟がいたのか」

「彼の兄と弟。詩人のファルカスと作曲家のフェレンツ」

 そういや、アネータがラカトシュ家は芸術一族と言っていたな。そいつらもキー・パーソンズなんだろうか。しかし、男のキー・パーソンは苦手だ。

「来たわ」とマルーシャが呟いて、笑顔に変わる。相変わらず変わり身が早い。それに心底嬉しそうな表情。もし彼女が俺の恋人か妻なら、他人に見せびらかして自慢したくなるね。メグは隠して一人で楽しみたくなるのに、どうしてだろうな。

こんにちはヨー・ナポート、ファルカスさんウール、フェレンツさんウール! またお会いできて嬉しいですわ」

 マルーシャが二人とフランス風にビズをかわす。それから二人に俺を紹介する。二人とも、気のない感じで握手をする。俺を邪魔者と思っているのがよく解る。

 身長の高い方がファルカス、低い方がフェレンツ。大してハンサムではない。俺と同程度かと。

「マルーシャさんアッソニとはどういうご関係で?」

 ファルカスがお決まりの質問をしてくるが、それを訊かれるのが一番困る。

「財団のウクライナ研究所が彼女を研究対象にしているので、その関係で」

「今回はブダペストへどんなご用で?」

 これはフェレンツの質問。君らもきっと、交互に話しかけてくるんだろうな。

「交通管制システムの視察だ。俺の研究と関係してるんでね。昨日でおおかた仕事は終わったので、今日は主に観光。この後に一つだけ仕事をすることになっている」

 こうでも言っておかないと、遊んでいると思われる。劇場へ入るが、正面からでなく、南側の側面にある通用口らしきところから。通用口と言っても立派な円柱が立っていて、髭を生やした偉そうな感じの、年配の男がいた。支配人であるらしい。マルーシャを大袈裟に褒め称えながら挨拶する。それからラカトシュ兄弟とも大仰に挨拶し、俺には一般人並みの待遇。

 中に入って、案内をしてくれるのかと思いきや、リハーサル室のようなところへ連れて行かれた。ウクライナの劇場でも見たな。しかしここは、ピアノが置いてある。さて、何をするのやら。

「では、ファルカスさんウール、フェレンツさんウール、お願いしますわ」

 マルーシャがラカトシュ兄弟を促す。いや、何をやるのか教えてくれよ。支配人は知ってるみたいなんで、知らないのは俺だけだよな?

 しかし誰も何も言わず、フェレンツがピアノの前に座る。いくつか音を鳴らしたり、和音コードを弾いたりしていたが、調律や鍵の硬さを確かめているのか。そしてピアノの横にファルカスが立ち、咳払いをしながら言った。

「私はいつも自分独自の節を付けて朗読するだけなので、歌はさほどうまくないのですが、ご容赦いただきたい」

 それからフェレンツの方に目で合図を送る。フェレンツがピアノを弾き始める。ああ、フェレンツが曲を作って、ファルカスが詩を作って、曲に合わせて唄おうってのか。


  “おお優しい西風よ 春の息吹よ

   汝 姿を見せず 花を咲かせる

   女神のもとに集まる 使徒の如く

   ……”


 何となくどこかで聴いたことがあるのは、気のせいなのかね。詩はともかく、歌がうまいかどうかは評価できんな。俺もうまくないから。それに曲もねえ。ハンガリーの普通の曲がどんなのか知らないんだよ。

 1分ほどで歌い終わった。フェレンツが気取った感じで後奏を弾き終えた。マルーシャと支配人が拍手する。俺は評価不能なので態度を保留。

「素晴らしい詩と曲でしたわ! 詩の中には出て来ないものの、女神フローラの姿がまざまざと頭の中に浮かび上がりました。まるで絵画を見ているような感動でしたわ」

 フェレンツがピアノを離れ、ファルカスと並び立つ。ファルカスはまた軽く咳払いをしてから言った。

「気に入っていただけてよかった。あなたは絵と言われましたが、実は我々もある絵を見て着想を得た結果、この詩と曲ができあがったのですよ。素直に白状すると、昨日までは全くイメージが合わなかったのですが、今朝、絵にちょっとした説明を加えてみたら、そこからは二人とも一気呵成でした。フェレンツも、何か言いたいことはあるかね」

「僕自身の感想を付け加えるなら、春というのは実際のところイメージを合わせにくいものだと思うのですよ。初春を想像することもあれば、花盛りのこともある。風もまだ冷たい方が春らしいという人もいれば、温かみを感じてこそという人もいる。それを絵の中の、あるイメージをもって統一できたところが大きかったですね」

「そうでしたか。それで、このタイトルは?」

「『西風ニュガティ・セール』です」

 ファルカスが答えた。

「私にプレゼントして下さると思ってよいのですね?」

「もちろんですとも」

「ありがとうございます。私も唄ってみようと思いますが、フェレンツさんウール、もう一度弾いていただけますか?」

「構いませんとも。楽譜をどうぞ」

 フェレンツが胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出して、マルーシャに渡した。さっきそれを見ずに弾いていたのは、それくらい憶えている、と主張したかったわけだ。フェレンツがまたピアノの前に座り、マルーシャとファルカスが立ち位置を替わる。マルーシャがお辞儀バウをすると、フェレンツが弾き始めた。おっとまずい。真剣に聴いてはいけない。


  “おお優しい西風よ 春の息吹よ

   汝 姿を見せず 花を咲かせる

   女神のもとに集まる 使徒の如く

   ……”


 ああ、まさしく女神ディーヴァの歌声。マルーシャが唄っているというだけで、天上の名曲のように聞こえてくるね。ファルカスの横顔を見ていると、魂が揺さぶられているのがよく解るよ。お前、自分が書いた詩なんだぜ。解ってんのか?

 マルーシャが歌い終わると、後奏が終わる前にファルカスと支配人が拍手をする。弾き終わってからフェレンツもすぐさま立ち上がって拍手をした。

「素晴らしい! あなたに唄っていただくと詩の良さ引き立ちますな!」

「曲の良さもですよ!」

 お前ら、それ、自分で自分を褒めてることになるんだぞ。解ってんのか。マルーシャがまたお辞儀バウをして、ファルカス、フェレンツと軽く抱き合う。何の茶番ファースなんだろうな、これは。

「我々だけで聴くのが惜しいくらいだ。明日の記念式典の中で唄ってもらうことはできないものかな」

「野外舞台シンパッドなら今からでも何とかなるんじゃないか。公園事務局に問い合わせよう」

 マルーシャが、明日は空いていないと言っても、二人でしつこく勧誘を続けている。そんなことはどうでもいいが、俺はここで何をしているのだろう、という気がしてきた。

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