#15:[JAX] キッチンとエプロン
ジャクソンヴィル-2065年12月24日(木)
7時ぴったりに、訪問者を告げるチャイムが鳴った。俺がここに住んでいることはチームの福利厚生部の担当しか知らず、そんな奴が来るはずもなく、チーム・メイトだって来ないに違いない。会いたきゃ、スタジアムに行けばいいんだから。アウェイのゲームの日以外、俺が1日のうち16時間くらいそこにいるということは、誰でも知っている。
だったら、誰が来たんだよ。隣の部屋と間違ってるんじゃないのか。寒いのを我慢してベッドを出て、トレーニング・ウェアに着替え――その最中にまたチャイムが鳴った――インターホンに向かって返事をした。
「
そこそこ高級なアパートメントなのに、ドアの前にカメラすら付いていない。
「
「おはよう、ベス。どうした、マギーに何かあったのか」
考えられるのはそれくらいだよなあ。それでも、電話でいいと思うけど。
「何もないわ。彼女も一緒よ。ドアを開けてくれる? 朝食を作りに来たから」
「そんな約束したかな」
「マギーのことで、少しだけ話したいことがあるの。早く開けて、寒いわ」
インターホンの脇にある“
「顔を洗うまで待っていてくれ。寝起きの顔なんて見せられない」
「あら、そんなの気にしないわよ。
ベスはピンクのパジャマの上にワイン・レッドのエプロン、マギーは白いブラウスにグレーのタイト・スカート――どう見ても出勤しているときの服装だ――にティール・グリーンのエプロン。マギーのはジャガーズのオフィシャル・グッズだと思う。
「
食器棚まで勝手に開けてんじゃねえよ、ベス。それはともかく、キッチンに立つマギーなんて想像もできなかったが、こんなにエプロンが似合うとは思っていなかった。ブラウスにタイト・スカートにエプロンという、どう考えてもおかしな組み合わせなのだが、なぜ似合うんだ。しかも俺に見られて照れてんじゃねえよ!
「突然お邪魔して申し訳ありません、ミスター・ナイト。ですが、家事をして身体を動かしたかったのです」
やっぱり家では家事をしてたんだ。オフィスで仕事をする姿しか見たことがなかったから、想像できなかった。話しかけようと思ったが、まず手近な壁にノックする。マギーの表情が微妙に変わる。
「
いつものマギーに戻った気がする。条件反射だな。いや、まだ若干元気がないか。それでもミスター・ナイトと言ってくれただけましだよ
「
「あなたのお口に合うか、自信がありません」
控えめだなあ。朝食なんて、トーストと卵料理でもいいくらいだから、失敗する可能性の方が低いのに。
「俺も手伝おうか」
「3人でキッチンに入ると狭いわ。ダイニングで待っていてよ」
ベスに仕切られてしまった。仕方なくダイニングで待つ。当然のことながら、この部屋で食事をするのは初めてのことだ。食器や調味料を一通り揃えておいてよかったな。
トーストの焼ける匂いが漂い、卵とベーコンの焼ける匂いが漂い、野菜を洗う音にコーヒーの香りまで。いや、食材は一切用意してないはずだが、君ら、それ全部持って来たのか。
十数分後、ダイニングのテーブルにできたての朝食の皿が並んだ。トースト、クリスピー・ベーコン、
「あなたのお好みを知らなかったから、色々作ってみたのよ。私が作ったのはサラダだけで、他はマギーが作ってくれたから」
好きなのを好きなだけ食べればいいって? そうさせてもらおう。ところで、コーヒー・カップが二つしかないのはなぜだ。いや、食器棚に二つしかないのか。俺が一つを使って、君らが二人で分けて飲む? そんな飲み方、初めて見たよ。
マギーが俺の前に座り、ベスがその横。二人で俺が食べようとするところをじっと見つめている。そんなに見るな。緊張する。
「……うまいな」
卵やベーコンなんて誰が調理しても同じだと思っていたが、違うようだ。
「あら、よかった! じゃあ、しばらくは毎朝二人で作りに来てあげるわね」
サラダはまだ食べていないのに、ベスが嬉しそうな笑顔で言う。いや、マギーはいいのかよ、それで。嬉しそうな、嬉しくなさそうな、どっちつかずの顔をしてるんだけど。
「リリーや他の二人は放っておいていいのか」
「彼女たちも連れてきた方がよかったかしら? 大人数で食べると、楽しいものね。でも、食器が足りないわ」
そういう意味で言ったんじゃない。他の3人は今、一部屋で住んでいる? リリーが一時的に、ノーラとヴィヴィの部屋へ移ってくれているのか。デッキ・チェアを運び入れて、3人で寝られるようにして。昨夜はキャンプみたいに楽しそうにしていた? 3日くらいで飽きるんじゃないのか。
「不都合ができたら、そのときに相談すればいいのよ。まず1週間はこのまま続けてみましょうね」
食事の問題じゃなくて、マギーの悩み相談がメインなんだけどね。まあ、いいや。
それで、食べながら悩みの話を聞く。もちろん、具体的な内容ではなくて、マギーの今の気持ちがどうなっているか。マギーはあまり食欲がなさそうで、スクランブルド・エッグばかり
「昨日はいろんな話をミス・チャンドラーに聞いていただいて、心がとても楽になりました。しばらくは平常どおり仕事を続けていけそうです」
いや、ミス・チャンドラーじゃなくて、ベスって呼びなよ。ベスからも言ってやれって。
「私もそう言ったんだけど、慣れるまで待って欲しいって」
確かに、何もかも急に変えるのは無理か。それに、ベスをミス・チャンドラーと呼ぶなら、俺のこともアーティーと呼ぶことになるよな。マギーから「アーティー」と呼んでもらえるなんて、ゾクゾクするぜ。でも、俺が慣れるのもしばらくかかりそうだよ。
「それで、リストを調べる件はどうなったのかしら」
どうしてベスがそのことを知ってるんだよ。そうか、俺がマギーに、全部彼女に言っていいって言ったんだった。
「2、3人、当たりを付けてるんだ。今日はそいつらにちょっと話を聞いてみる」
「私が知ってる人なら、私からも訊いてみるけど?」
知ってるのかな。だって君、つい数週間前に来たばっかりなんだぜ。俺もその3週間くらい前なんだけどさ。
名前を言ってみた。全員知ってる? どうしてそんなに交際範囲が広いんだ。言っちゃ悪いが、たかがチア・リーダーなのにさ。全員から声をかけられたことがある? まあ君、美人だからねえ。しかも愛想がいいし。
「同じ日に二人で同じようなことを訊くと、怪しまれるよ。君はしばらく間を置いてからでいいんじゃないかな」
「そうね、あなたの言うとおりだわ」
でも、彼女がスパイの役をやってくれると、実際助かるよな。俺が訊き回るよりもずっと自然だし。ただ、後でバレて、彼女の立場が危うくなっても申し訳ないから、やはり俺が自分でやらねばならない。どうしても困ったときだけ、補助してもらうことにしよう。
「さて、そろそろあなたたちはスタジアムへ行くんでしょう?」
食事が終わるとベスが言う。皿を片付けようとするので、制して俺がキッチンへ運び、洗う。こんなことまでさせられるかよ。
「マギーは8時半から仕事だが、俺はいつも9時に行くことにしてるよ」
まだ8時にもなっていない。君ら、いったん自分たちの部屋に戻ったらどうだ。
「でも、マギーはここにいてもすることがないから、早く行きたいって」
「朝早く行って、夕方いつもの時間まで働いていたら、残業が多くなるぞ。それはよくないんじゃないのか」
マギーに訊く。洗い物をする俺の手元を、なぜか凝視している。
「途中で休憩時間を多めに取りたいのです。まだ、以前のように集中して仕事ができそうにないので」
「なるほど。それはそうすればいいと思う」
でも、俺には早く行く理由がない。それに、わざわざ9時に行ってたのは、マギーと話すためだもんな。
「マギーのオフィスに、また盗聴器が仕掛けられてるかもしれないのよ? あなたが一緒に行って、探してあげるべきじゃないかしら」
それはそのままにしておく方が、“盗聴の証拠”を掴めていいんだよ。それに、マギーと一緒に歩いているところを誰かに見られるのはまずい。おかしな噂が立つと、マギーのためによくない。人妻なんだから。
「マギー、あなたはどう思う?」
「盗聴器の件ですか?」
「いいえ、アーティーとの関係が噂になる件」
「私自身はどんな噂をされても構いませんが、ミスター・ナイトの立場が悪くなるのは……」
本当にどんな噂をされてもいいのか。“浮気”だぞ?
「とにかく、何事も急に変えるのはよくない」
「でも、あなたは朝早くここを出て、スタジアムに行って朝食を摂って、どこかで時間を潰してからマギーのオフィスへ行くんでしょう? だったら、今から出掛けても、さほど普段と違わないじゃないの」
確かに。練習場のレストランの調理人は、今朝は俺が行かなかったから気にしてるんじゃないかな。後で一言声をかけておくか。でも、マギーと同時に出るのはやっぱりまずいよ。15分くらい置いてからだな。
「じゃあ、あなたは洗い物が終わったら出掛けてね。私たちはいったん部屋に戻って、しばらくしてからマギーに出掛けることにしてもらうわ」
ああ、俺が先? そうか、俺はいつも7時過ぎに練習場へ行くから。マギーは早くても7時半だもんな。
マギーたちがドアを出るのを見送り、寝室に戻ってシーツなどを片付け、鞄を持って部屋を出た。しかし、アパートメントの下のエントランスへ行くと、なぜかマギーがいた。
「君、もう少し後に出るんじゃなかったっけ」
「今日くらいは偶然を装っても不自然ではないだろうと、ミス・チャンドラーが……」
ベスめ、謀りやがったな。どうしても俺とマギーを同伴出勤させたいんだ。明日からはどうしてくれよう。
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