#15:第5日 (7) 昼休みの出来事

【By 画家】

 ビアンカからも昼食に誘われたが、フュレプは館長のいる一団に同行することを選択した。こちらの方が、顔見知りが多い。館長の他にも、政治家と医者と弁護士と……彼らはフュレプの描いた絵を買ってくれたことがある。プロとしてではなく、アマチュアとしての値段で。それも、父の紹介だったりフェレンツの紹介だったりだが。

 それに、マルーシャがいる。昼食の席で、彼女の隣に座れなくても、同じ座の中にいるのだと思うだけでも気が休まる。そう、彼女といると、とても安心するのだ。

 他にそんなことを感じる女性はいない。女性だけでなく、男性もだ。他に最も気安かったのはポーラだが、彼女も“仕事として”の期待をフュレプにかけ、それが微妙なプレッシャーとなっていた。マルーシャにはそれが全くない。今のところフュレプにとって、彼女が唯一の、無心の信奉者に思えた。

 美術館ガレリアを出て、タクシーを待つ間も、フュレプはマルーシャの姿を目で追っていた。居並ぶ歴々から盛んに話しかけられ、笑顔で応対している。彼女の美は芸術と同じで、独占できないのは判っていた。それどころか、独占してはならないものだ。彼女の美は人類の共有財産と言っていい。

 しかし、マルギット島で2度、そしてホテルの部屋で1度、彼女と二人きりの時間を、ほんの僅かでも持ったことは、フュレプにとって大きな喜びだった。

 そのマルーシャが、不意にフュレプに話しかけてきた。来たばかりのタクシーに誰が乗るかという相談をしている最中に。

「ラカトシュさんウール、あなたの『西風ゼピュロス』についての解説は、大変素晴らしかったですわ! コヴァルスキの絵の美が、女性や子供の表情にあることは感じていましたが、その表情に自分が知る誰かを重ねれば、より理解が深まるという指摘はとても新鮮でした。ここにいる皆様も、同じようにお感じになったとおっしゃっていますわ」

 マルーシャが言って、周りを見渡すと、その場にいた者は――単におついしょうかもしれないが――そうだと言ったり、大きく頷いたりした。

「そうでしたか。ありがとうございます」

 フュレプは笑顔を作ってみたが、ぎこちなくなっているのが自分でも判った。それに、その指摘はマルーシャがフュレプに気付かせてくれたことなのだ。礼を言いたいのはフュレプの方だった。

 あの場でそのことを言って、マルーシャに感謝する。そうするべきだったかもしれない。

「あなたの作品を、もっと見てみたいと思いました。どこか飾っているアトリエはありますか?」

「ありません。個人に何点か売ったことがあるだけで……」

「では、どなたかのお宅へ行かないと見られないのでしょうか」

 その場にいる3人の男が、フュレプの絵を所蔵していると言った。マルーシャを自宅へ呼ぶ機会だと思ったのかもしれない。それより、マルーシャがまるで初対面のように振る舞っているのが、フュレプには気になった。それはどんな意図だろうか。

 すぐに気付いた。『西風ゼピュロス』の模写を見たことを、誰にも言わないためだ。それを知らないふりをしようとしてくれているのだ。

 内覧会でも、模写のことは誰も言及しなかった。それに近いことをフュレプ自身が言っただけだ。その存在が知られれば、噂となって広まるに違いない。適切な配慮だとフュレプは感じた。

「では、お三方にお許しいただければ、私が拝見しに参りますわ。ただ、明日と明後日しか時間がありませんが……」

 館長にせかされて、フュレプの絵を持っていない者がタクシーに乗った。持っている者が相談を始めている。どこかへ持ち寄ってはどうかと……

「それなら、僕の家のアトリエに来ていただければ」

 フュレプは言った。元々、それを考えないでもなかった。ファルカスとフェレンツがアリアを合作している。それを披露するのに、マルーシャをラカトシュ家へ招待しようと二人が言っていたためだ。残念ながら創作ははかばかしくなく、彼女がブダペストを去るまでに間に合いそうもないが。

「ええ、ぜひそうしていただけると。そこならあなたの未発表の作品も拝見できるのですね?」

「お見せするに値しないものを片付ければ、何枚かは……」

「では、昼食の間か、その後にでも相談させていただければ……」

 タクシーが何台もやって来て、マルーシャと他の者が乗っていった。フュレプは最後に乗った。知らない学芸員が一緒だった。

 なぜあんなことを口走ったのだろう。レストランへの移動中に、フュレプは考えていた。彼女に絵を見せたいのなら、密かに約束すればよかった。連絡先を知っているのだから。そうすれば、また二人きりで会えた。

 ホテルへ絵を何枚も持っていくのは大変だから、彼女をアトリエへ呼ぶことになったろう。離れだから、家の者にすら知られずに、彼女を招き入れることが可能だ。

 だが、おそらくは二つの思いから、フュレプにはそれができなかった。一つは、彼女の賞賛を受ける自信がないこと。もう一つは、他の者にも絵を見せてみたかったこと。後者は自信作を認められたいという欲求であり、前者とは相反する思いだ。

 きっと、『西風ニュガティ・セール』が完成していないからだろう、とフュレプは想像した。彼女に認めて欲しいのは、ひとまずあの一点だ。それが完成すれば、彼女を招いてみたい。評価を聞いてみたい。きっと賞賛してもらえるだろう。

 だが、あれを他の者には見せたくないという思いがある。あれは彼女のための芸術、彼女だけに捧げる美なのだ。それだけでも、彼女を独占したい。

 フュレプはため息をついた。昼食の後で、どうすればいいか、じっくりと考えてみないといけない。



【By 盗賊】

 Aが美術館ガレリアから出てきて、セントジョルジ通りへ歩いて行ったのを見届けてから、ディアナはダフネに電話を架けた。

「ターゲットAは、そっちへ行ったわ」

 そして少し離れて、後を追う。目立たないように、男にも女にも見える格好をしてきた。



【By 主人公】

 美術館を出て、セントジョルジ通りを北へ。この近くで食事を摂るとしたら、城地区ヴァルネジェドしかない。他の連中は車で行ってしまった。フル・コースを食べようとは思わないので、急ぐ必要はない。1時半までに戻って来いと言われたが、今度は5分前にしよう。

 ウーリ通りにパブがあったはず、と思って行ってみると、既に満席。セントハロムシャグ通りとの交差点にレストランが2軒あったが、やはり満席。この先の通り沿いには店がないようなので、マーチャーシュ教会の方へ。ここは昼でも観光客で雑踏している。

 オルサグハズ通りへ行くと、アラバルドシュというレストランがある。高級店らしいので空いているだろう。入ってみると、そのとおりだった。すぐに席へ案内された。ハンガリー料理の店だが、何を食べようか。



【By 盗賊】

 途中で見失うことなくターゲットAの跡をけ、三位一体広場まで来た。Aがセントハロムシャグ通りに入ったところで、ダフネはフォルテゥナ通りへ移動している。もしかして、また漁夫の砦レストランハラスバスチャ・エッテルムへ行くつもりか、とディアナは思ったが、Aはオルサグハズ通りへ入った。そして広場からさほど離れていないアラバルドシュに入ってしまった。あそこ、高いのに。

「ターゲットAは、アラバルドシュ。私も入っていいのよね?」

 ダフネからは「いいわイーゲン」の返事があった。役得として高いのを奮発するか、それとも安く抑えておくか。



【By 主人公】

 コース料理しかないが、頼んだらデザート抜きにしてくれた。二夜続けて走ってない分、抜かないといけない。前菜にマンガリッツァ豚のテリーヌ、スープはアーティチョークのコンソメ、メインがスモークト・サーモンのサラダ添え。ワインは頼まず、飲み物は水のみ。

 待つ間、何もすることがないので、店の中を観察する。ただし、あまりきょろきょろしない。俺をけてきた奴がいることは判っている。女だ。黒い髪を男のように短く刈って、痩せ気味だが尻の形が抜群にいい。

 ああいうタイプは一度見たら忘れなくなってしまった。日曜日に行った、漁夫の砦レストランハラスバスチャ・エッテルムのウェイトレスだ。200フォリントもチップをやったよな。変装するなら、金髪のウィッグくらい被らなきゃあ。

 振り向かず、窓に反射した透明な姿だけ観察する。入口付近の席に座り、ウェイターと何か話している。一瞬、こちらを見た。もちろん気にせず、ゆったりと構える。店を出てもまいたりしないから安心しなよ。

 もしかしたら、朝のマルギット島の姉妹――たぶん姉妹だよな――と連携してるのかな。顔はさほど似てないように思うけど、ハンガリー人と少し系統が違うのは共通している。

 前菜を食べながら、彼女たちの役割を考える。美術館があって、盗まれそうな絵があって、それを守る警察官がいて、警備システムを作る研究員がいて、画家がいる。あと足りないのは泥棒だけだ。

 じゃあ、彼女は泥棒か。女3人組の泥棒? 男はどこへ行った。いや、そこにいる女が男装すればいいか。彼女の男装姿を想像してみる。とても似合いそうな気がする。厚着して尻の形を隠せばいいんだもんな。ジゼルがいるから、想像しやすいんだよなあ。

 で、彼女たちはどうして俺に目を付けたのか。もちろん、俺一人だけではないかもしれない。マルーシャやミノーラ嬢、ラインハルト氏にも目を付けているかもしれない。それでもとりあえず、俺に目を付けた理由は? 何も目立つような行動してないけどな。そこの女と会ったのも一度きりだし。

 いちいち“そこの女”とか“マルギット島の姉妹”と考えるのは面倒だから、泥棒シーフのTとしようか。そこのがT1、島の姉がT2、妹がT3だ。でも、今日より前に会ったことがあるのはT1だけだぜ。しかも昼食を注文しただけだ。あるいは、どこからか今日の内覧会の情報を入手したのか。それしかないような気がする。



【By 盗賊】

 食事の合間に、こっそりと電話をする。

「ターゲットAは、間もなく食事を終えるわ。デザートは食べないみたい。安心して、私も食べないから」

 仕事の合間に食べる賄いより格段においしい。毎日こういう食事ができるようになればいいのに、とディアナは思った。



【By 主人公】

 窓ガラスに映るT1の姿をちらちらと見ながら、メインをことさらゆっくりと食べる。向こうも無事食べ終わったようだ。ウェイターに合図して、支払いをする。例のカードを見せると、ウェイターが口笛を吹くように口をすぼめた。一応、何だか判ってるんだ。

 なぜか支払いに少し時間がかかったが、気にせず悠々と店を出る。

 T1は顔を背けて無関心を装う。たぶん、俺が出るところはT2かT3が見張ってるのだろう。そして、後からT1が出てきて、俺を追う。T2またはT3は俺が向かう方向に応じて適宜先回り、という感じか。

 でも、行く先はブダ城ってのも判ってると思うけどな。隙があれば声をかけに来るかも。

 ただ、食事中ずっと考えてたけど、目的が判らんなあ。俺から何の情報を引き出したい? あるいは、俺に何をさせたい? 単に泥棒の仲間に引っ張り込みたい? 目を付けているからには、俺の肩書きも知っているはずで、何かで釣って、っていうのは無理だと思ってるはずだろ。

 まさか、痴女的色仕掛けで迫ってくる? でも、俺かラインハルト氏には効くかもしれないけど、マルーシャやミノーラ嬢には通じないよな。それこそ、本物の男が必要で。

 美術館まで戻ってきたが、何も手を出してこなかった。この後の、図書館か歴史博物館で何か仕掛けてくるのか。とりあえず、相手の出方を待つか。

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