#15:第5日 (6) バックヤード・ツアー

【By 刑事(男)】

「本当に素晴らしい絵ですね」

 ビアンカが囁いた。独り言のはずだが、自分に向けられたものかもしれない、とピスティは思った。さっきまで、パタキ主任がずっと彼女の横にいた。彼女が何か呟くたびに主任がそれに答えていた。主任に向けられた言葉かどうか、判らなかったのに。

 だが、主任は警備システムの説明のために前に出て、その後は元の場所に戻ってこなかった。館長の方へ行ったのだ。そこには署長もいる。戻ってきたかったに違いないが、館長と署長に呼ばれたのでは従うしかない。

 ビアンカの隣は、ピスティだけのものになった。それでもピスティは、彼女の感嘆の声にどう反応していいか判らなかった。

「この後、本当に替えてしまうのですか?」

 それははっきりとピスティに向けられた言葉だろう。「ええ、そうです」とピスティは小声で答えた。しかし昨日、彼女に話したときとは、状況が変わってしまった。

 こっそり模写と交換するのが、パタキ主任にバレた、というわけではない。あの後、別の模写を持ち込むことを館長に知らせたら、最初にどれを展示するかは美術館ガレリアの方で決める、と言われてしまったのだ。そしてその決定はパタキ主任のみに知らせると。

 だがこの後、取り替えないと決まったわけではない。来賓に模写を見せるのは失礼だと、警察の方から進言した。パタキ主任自らが主張したのだ。きっとビアンカに本物を見せたかったのだろう。それに対して館長は善処すると回答したらしい。

 だから、目の前にあるのは本物のはずなのだが、今は見分ける術がない。紫外線ライトを当てればすぐに判るのだが、ここでそれをするわけにはいかない。

「今、前でお話になっている、ラカトシュ・フュレプさんウールですけど」

「彼が何か?」

 ピスティはもちろん彼が模写の作者であるのを知っているが、ポーラから写真を見せてもらったのみで、本人に会うのは今日が初めてだった。芸術家らしくない、冴えない男だな、と思ったに過ぎない。

「模写を描かれたのでしょう?」

「いえ、その……」

 展示する模写を彼が描いたか、という質問ではなく、一般的な模写という意味なら、イエスイゲンと答えていいのだが。

「私、歌劇場の支配人の紹介で、彼に会ったのです。そのときに、模写を見せていただいたのです。とても素晴らしい出来映えでした。その時点では本物を見てはいませんでしたが、本物に見えたんです」

「そうでしたか……ええ、確かに、彼の模写は、素晴らしい出来なのですよ。本物と、ほとんど見分けが付きません。僕は何度も見比べて、見分けが付けられるようになりましたが……」

 至近距離まで顔を近付けて、の話。それも筆のタッチが微妙に違うというくらい。今のように、2メートルも離れてしまえば判らない。フローラの顔がどことなく違う、というのも感じられるのだが、それをもってどれが本物かは指摘できないのだ。

 それより、ビアンカがラカトシュ・フュレプをどう感じたのか訊いてみたい。まさか、気に入ったということはないだろうが……

 そのとき、ふと気になった。彼女が模写を見たのはいつだろう?

 ピスティが模写のことを彼女に話したのは、昨日のことだ。彼女を驚かせたくてつい言ってしまったのだが、取り替えのことには驚いたものの、模写が存在することに対しては、彼女は驚かなかったのではないか? あの時より前に、彼女は模写を見たのでは?

「ここで模写が展示されることになっていなかったら、私は彼からその模写を買っていたかもしれません。本物とか模写とかは関係なく、素晴らしい芸術作品と思ったのです。本物と同等の値を出しても惜しくありませんわ」

「それほどのものでしょうか。僕にはよく解りませんが……」

 言ってから、しまったとピスティは思った。彼女の審美眼を否定するなんて。いくら彼女が画家でなくても、バレリーナは芸術を理解することができる世界の住人なのだ。その彼女がいいと感じたものを、否定するべきではなかった。

「あら、それでも結構なのです。絵画の美は、それを理解したと思う者が対価を払えばよいのですから。名作と言われる絵でも私に理解できないものはありますし、逆にアマチュアの絵でも素晴らしいと感じるものがあります。コヴァルスキの他の絵を私はよく存じませんが、『西風ゼピュロス』については、彼の描いた本物と、ラカトシュさんウールの模写は、私の中では同じほどの価値ということなのです」

「そうですか。そういうことなら……解りました」

 確かに、ピスティにはコヴァルスキの絵の良さが解らない。単に「写実的で綺麗な絵」であって、いくらなら買おうとも思わない。ラカトシュ・フュレプの模写に対しても、それは同じだ。「芸術はその価値を理解できる者のためにある」という言葉を、どこかで聞いた気がするが……

「ラカトシュさんウールと、もう少しお話ししてみたいですわ。この後、美術館ガレリアの中を観覧するときに付いて来ていただくことになっていますが……」

「ええ、そのようですね」

 ピスティは『西風ゼピュロス』の解説を終えて下がったラカトシュ・フュレプを見た。彼はさっき、オペラ歌手のマルーシャと少し話をしていたようだ。

「昼食にお誘いして、あなたもお話をしてみてはいかがですか? 私が後で声をかけてみますわ」

「ああ、ええ、あなたがそうなさりたいのなら、どうぞ」

 パタキ主任が、昼食にビアンカを誘う約束をしていた。ピスティも同席させてくれるらしいのだが、署長も来ることになっている。そこにラカトシュ・フュレプまで来たら、ビアンカと話す機会がなくなるのでは、とピスティは心配した。



【By 主人公】

 ラカトシュ・フュレプの後に、招かれた偉い連中が入れ替わり立ち替わり前に立ち、『西風ゼピュロス』について語った。彼らもコヴァルスキの絵を収集しているんだろうか。誰か一人くらい、隠されたメッセージに関する噂のことを言ってくれてもいいと思うのだが、それが目的で収集してると思われたくないので控えてるのだろうか。

 しまった、ヤンカにあれを訊くのを忘れてた。俺の論文を参考にしたという“噂”の件。大勢の前で訊くと俺の自慢に聞こえそうだから、後にしよう。どこかでチャンスがあるだろう。

 ところで、この絵は本物なのかなあ。警備に金をかけてまで展示するというのは、いくら客が呼べるとしても、積極的すぎると思うのだが。そりゃ、盗まれそうだから展示しないというのはさすがに消極的すぎるけどね。

 でも俺なら、偽物を展示して、これ見よがしに警備しておいて、その実、本物はどこかに隠してある、っていうことにするな。現に、イタリアのステージがそうだった。難解な金庫を開けてみたらダミーでした、ってさ。で、絵を隠すとしたら?

 元々、どこかに隠してたんだろ。そこから動かさないのが基本だよ。動かすと必ずバレるんだから。バックヤードか、それとも他の場所か。

 それを知るには誰に訊けばいいか。館長か学芸員に決まってるんだけど、館長は今日会ったばかりだし、エメシェはただの顔見知り状態だし。昨日まで仕事がなければ、もっとお近付きになれたんだが。

 ただ、この世界のシナリオ仕様を考えると、仕事のついでに知る方法があったはずなんだよ。だから仕事先で会った人物とお近付きになればよかった。ジョルナイ・ポーラを夜のデートに誘うべきだったか、それともネーメト・ヤンカをたぶらかすべきだったか。

 他には? 大学はともかく、交通局は美術館とどう関係してたのかなあ。今さら考えても遅いか。いや、まだ遅くない。あと2日半残ってるんだから。

 1時間もかかってようやく内覧が終了。この後、残る1時間は他の美術品の観覧。バックヤードも見せてくれる? それはありがたい。

 案内役は館長他、学芸員が数人。賓客が4、5人のグループに分けられたが、外国人、即ち俺、マルーシャ、ミノーラ嬢とラインハルト氏は、エメシェが案内してくれることになった。説明は英語で。なるほど、彼女は英語がうまいから案内役に選ばれたと。

 ラインハルト氏が何か言ってる。ラカトシュ・フュレプにも解説して欲しい? でも彼は、館長と一緒に一番偉い奴らのグループに組み込まれたみたいだぜ。残念だな。

 そのラインハルト氏が、俺に声をかけてきた。「ハロー、ドクター・ナイト。クリストフ・ラインハルトだ」。実に気さくな感じで。しかし何だろう、この俳優の演技のような雰囲気は。それとも彼があまりにもハンサムなので、俺の頭が勝手に嫉妬してるのかな。

「財団のことはもちろんよく知っている。残念ながら君の論文にはまだ目を通していないが、時間があればぜひ話を聞いてみたい」

「現実に役立つかどうか判らない理論研究より、そちらのように確実に人を喜ばせる仕事の方が興味深いよ。世界中でヒットしたゲームの開発秘話や、有名な映画スターの話をしてくれると楽しいだろう」

 彼が、自分も競争者コンテスタントだ、と名乗るのなら打ち解けられるのだが、それをしないと単なる騙し合いになりそうだ。ただ、こんなに人が多いところで素性を語り合うのは不可能なので、腹を割るのはもう少し後の機会に譲ることにしよう。

 ミノーラ嬢、マルーシャとも握手して軽く挨拶。マルーシャは本当に初対面のふりがうまい。3人が互いに挨拶しないのは、ここへ来たときに済ませてしまったからだろう。

 エメシェに連れられて4階の展示を回る。そういえば最初に来た日は、このフロアだけちゃんと見なかったんだった。

 説明を聞いてるふりをしながら、監視カメラの位置を確認する。他の3人もしているはずだが、その素振りは全く見えない。あるいは既に調査が終わっているのか。

 展示室からバックヤードへ入る。ここでラインハルト氏がエメシェに質問。

「各フロアのバックヤードに保管庫がある?」

「仮置きのための場所はありますが、長期の保管は別の場所です。その場所はお教えできません」

「場所は教えてくれなくて構わないけど、盗難防止を考えると、保管は1ヶ所じゃなくて複数に分けた方がいいと思って」

「それについては適切に配慮しています」

 うまく逃げられてしまったようだ。

 修復作業をする部屋に入った。が、パネルによる説明だけで、作業自体は見られず。

 3階に降りて検査室。修復前の調査を行う。X線撮影機などの大型装置もある。

 2階には工作室。展示用の台を作ったり看板を作ったり。木工から金属加工までなんでもござれ。

 1階は機械室。照明や空調の制御を行う部屋だ。間取りを考えると、たぶん隣に警備用のモニター室もあるだろう。だが、当然見せてはもらえず。

 元の応接室に戻ってツアー終了。鞄などを置いていたら回収するところだが、幸いこちらは手ぶらで来ているのですぐに出られる。同じく手ぶらはラインハルト氏。マルーシャとミノーラ嬢はハンド・バッグを置いていた。中身を盗まれてないか、ちゃんとチェックしなよ。言うまでもないことか。

 さて、これにて解散、だが……

 昼食? 周りはそう言っている。賓客と美術館、警察関係者が一緒に昼食を摂りに行くらしい。どうやら最初に見かけた、二つのグループに分かれそうだ。

 偉い連中と館長、マルーシャが第一のグループ。警察関係者とヤンカ、ミノーラ嬢、ラインハルト氏が第二のグループ。エメシェもそっちだな。画家は……マルーシャのグループか。

 さて、俺はどうするべきか? いやいや、どう考えても“孤独な第三勢力”であるべきだろう。一人で食べるのが一番気楽でいいよ。ついでに、この隙に美術館の中をもう一度……は無理かなあ。

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