#15:第4日 (9) 話すことの楽しさ

【By 主人公】

「ハロー、ユーノ。昨夜、何か忘れ物でもあったかな」

「こんばんは、博士ドクトル。もう夕食はお済みかしら」

「今夜は大学生と食事会だったよ」

「ああ、そうだったわ。ところで、その……今から時間はあるかしら?」

 遠慮がちな声。まさかバーに誘うんじゃないだろうな。

「どこにいるんだ?」

「もちろん、アカデミーよ。昨夜の続きができたらと思って」

 続きなんかあったっけ。それなりに切りがいいところで終わったと思うけど、まだしゃべり足りなかったのか。

「今からランニングに行こうと思ってたんだ。マルギット島にね」

「そうだったの。もし今夜は都合が悪いようなら……」

 明日の夜はどうかって言うつもりなんだな。何なんだろう、この誘い方は。積極的なキー・パーソンはたいてい歓迎なんだが、彼女はどうもターゲットとのつながりが見えにくいんだよな。

 それとも、ある一定時間しゃべった後でないと、キーになる情報が出て来ないのか?

「場所は?」

「こっちに来てくれると嬉しいわ。その方が落ち着くから」

 研究室の居心地がいいというのは、仕事依存症ワーカホリックの可能性があるぞ。とりあえず、行くか。さっき思ったとおり、俺が一番出遅れてるに決まってるんだ。せっかくキー・パーソンの方から機会を与えてくれてるのに、それを断るようじゃますます後れを取る。

 すぐに行く、と返事をして電話を切り、アネータの顔を見る。俺が女に会いに行くと解ってるのに、平気な顔をしてるな。心配になる相手とそうじゃない相手がいると。心配してるのはジゼルの時だけか。彼女が一番浮気相手として考えにくいはずなんだが、アネータの感覚は違うのか?

「アカデミーに行ってくる」

「ランニングは今夜も中止ですか」

「夜中に行くかもな。しかし、君は気にしなくていいよ。今日の仕事は終わっていい」

「了解しました」

「いや、待て。明日の午後の、図書館と歴史博物館の後は、予定がないんだっけ?」

「ありません。夕食のレストランを予約しておきましょうか?」

 うん、俺もその点を心配していて、どうも明日は誰かを夕食に誘わなきゃいけなくなるような気がするんだよ。キー・パーソンが新たに現れる展開になってさ。しかし、それをアネータに言うとまた例の顔に。

「店の候補を考えるだけでいいよ」

「了解しました」

 ホテルを出てアカデミーへ向かう。フォー・シーズンズの近くを通るときに、ジゼルの存在を気にする。昨日までは向こうからまとわりついてきたのに、それがなくなると、逆に気にしてしまうものだな。

 しかし姿を見ることもなく、アカデミーの建物に入り、ユーノの研究室へ。広いエリアの中、明かりが灯っているのは一角だけで、そこにユーノがいた。3枚のホワイト・ボードに囲まれて。

 数式を書いていたようだが、俺が近付いていっても気付かず、ホワイト・ボードにノックをするとようやくこちらを見た。控えめな笑顔だ。

「来てくれてありがとう。飲み物を用意するわ」

 研究の話をする前は、こうして優しい表情を見せる。話してる間は、女を感じさせない。そういうのを自分で気付いているだろうか。

「今日は大学で君の妹に会ったが、あまり話をしなかった」

「そうだったの? ヨラーンはあなたに会うのを楽しみにしてたはずだけど、どうしてかしら」

「昨日の研究者の方が印象がよかったのかもな。マクロロジック社の特別研究員フェロー

「ああ、ドクトル・クリストフ・ラインハルト。彼の話はとても面白かったらしいから」

 あっさり名前が出てきたな。最初から彼女に訊くべきだったのか、それとも俺が自分で調べたからキー・パーソンも口にするようになったのか。

 コーヒーを淹れてくれた。カップの形が彼女のと全然違う。こっちはきっと備品だ。

「ヨラーンの研究室だけじゃなくて、他でも彼と比べられたよ。彼の話は実際的だから受けがよくて、俺のは理論的だから解りにくかったのかもな」

「そうかしら。私はあなたの講演の方が面白かったわ。特に数式の流れが美しくて」

 さて、ここで“今年の最もエレガントな数式ザ・モスト・エレガント・フォーミュラ・オヴ・ジ・イヤー”のジョークを言うべきかどうか。

「君の姉さんはどっちがいいと言ってた?」

「言いにくいんだけど、ドクトル・ラインハルトの方。研究や開発の話よりは、その他の話に興味を持ったようだけど」

「彼は話題が広いようだな」

「いろんなところでいろんな経験をしてるようね。私は研究室からほとんど出ないから、別世界の人だわ」

「別世界に憧れる人は多いよ。エンターテインメントってのはその気持ちを満たすためにあるのさ」

 俺はこんな仮想世界に憧れたことは一度もないんだけどな。早く元の世界へ返して欲しいよ。メグを置いていくのだけは嫌だけど。

「映画やスポーツのスターツィラグに憧れるのね。でも、宇宙のツィラグだってとても興味深いのに。輝く星だけじゃないわ、地球だけを見てもまだまだ解らないことが多くて、知りたいことが山ほどあって」

「知ることは人間の欲求の一つで、楽しみでもあるが、知識を天から与えられることもまた喜びの一つだ。自分の力で知の高みへたどり着く過程も喜びではあるが、どちらを選ぶ人が多いかは、考えるまでもない」

「ええ、解ってる。高みへの果てしなさに恐れをなして、途中で思いとどまる人がいることもね」

「それで、今日はどこの高みへ連れて行ってくれるんだ」

「あなたも与えられる喜びの方がお好きなの?」

初心者ビギナーはエクスパートが導いてくれなければ、無駄に努力して疲れ果てるだけだからさ。まずどこか見晴らしのいい高みへ連れて行って、初心者ビギナーを喜ばせるのも、エクスパートの役目だろ」

「それで興味を持ったら、あなたの研究にも取り入れてくれるの?」

「俺は自分の研究テーマ以外にもいろいろ興味を持ってるよ。全部を研究する時間はないと思ってるだけさ。だから時間がある限り、趣味としてやるだけだ」

「いいわ。でも、私が話をして、深い興味を持ってくれたら、研究対象になる可能性もあるわけね。じゃあ、今夜は火山と地震のことを中心に」

 昨日話さなかった分野だな。それも研究テーマだったのか。

「先に言っておくけど、フロリダの近くに火山はないし、地震も起こったことがないよ」

「ハンガリーだって同じよ。でも、地球史上最大級の噴火の一つは2700万年前に北アメリカ大陸で起こってるのよ。コロラド州のラ・ガリータ・カルデラって聞いたことない? 火砕流だけでコロラド州がほとんど埋まるほどの規模で、一部は隣のユタ州を超えてネヴァダ州まで達したの。フロリダ州に火山灰は降らなかったかもしれないけど、エアロゾルが成層圏を覆って、全米どころか全世界的な気候に影響が出たのは間違いないわ」

 何でも地球規模で考えないと気が済まないんだな。いいや、好きなだけ話してくれ。

 しかし、本当に彼女は何を知ってるんだろうな。姉のヤンカは美術館の警備システムを知っていて、妹のヨラーンもそれに絡んでいそう。しかし、ユーノはそんな“小さなこと”には全く興味を持ちそうにない。そりゃ、本当のところは訊いてみなきゃ判らないけどさ。彼女だって意外な趣味を持ってるかもしれないんだから。

 話を聞き続けて、11時になったら、どこからか電子音が聞こえてきた。時計のアラームのようだな。ユーノの腕時計だった。

「残念だけど、時間切れだわ。もう30分あればよかったのに」

「時間切れとは?」

「11時15分以降は全館で警備システムが強制的に作動するの。防犯目的じゃないわ。残業禁止。正確に言うと、泊まり込み禁止」

「泊まり込んでまで研究に没頭する奴がいるのかね」

「昔はそんな人ばっかりだったって聞いてるけど」

 そういや、マイアミ大にも研究室にんじゃないかと思うような奴が何人もいたよな。構内には24時間営業の食堂があったし、レクリエイション・ルームへ行けばシャワーだってあったし。フットボール部にはクラブ・ハウスがあったから、研究室に泊まることはなかったけど。

 ユーノは帰り支度をすることもなく、カップをテーブルの上に置いたままにすると、デスクの抽斗からハンド・バッグを取り出して、「出ましょう」と言った。そしてフロアの明かりを消したが、歩くと廊下の電灯が次々に点いて、通り過ぎると順次消えていく。

 エレヴェイターで玄関前のロビーに降りたが、「ちょっと待って」と言ってほんの1分ほど姿を消した。警備システムを作動させる準備か。そして真っ暗になったロビーを抜けて、木の扉を開けて外に出た。

「君の家はどの辺り?」

「16区。って言っても解らないでしょうけど、市内の東の方。地下鉄メトロの2号線に乗って、エルシュ・ヴェゼール広場テール駅で郊外電車ヘルイーエルデキュ・バシュトに乗り継いで、30分くらい」

「デアーク・フェレンツ広場テール駅へ行くなら、送ろう」

「あら、ありがとう」

 送って行く間もずっとさっきの続きを話している。結局、ユーノから何を聞き出せばよかったのか。それとも、まだ聞き足りないのか。



【By 研究者】

 地下鉄の駅に降りて、電車を待っていると、背の高い痩せた男がユーノに近付いてきた。不審人物かと思ってユーノは一瞬身を固くしたが、相手は品のよい優しげな笑みを浮かべていた。真っ白なシャツにダーク・グレーのパンツで、身なりも悪くない。しかし、よく見たら男か女か判別がつかない。

こんばんはヨー・エシュテート、ドクトル・ネーメト・ユーノ」

 そしてさも当然のようにユーノの名前を知っていた。自分が忘れているだけなのかと思い、ユーノは記憶を探ったが、該当者はいそうにない。相手が一方的に私を知っているだけだろうか。そういうこともよくあるが……

こんばんはヨー・エシュテート。申し訳ないけど、あなたの名前が思い出せないわ」

「会うのは初めてなんだ。僕が君のことを知ってるだけだよ。僕はジゼル・ヴェイユ。でも、すぐに忘れてもらって構わない。君とほんの少し、話をしたいだけなんだ」

「何かしら?」

 こんな風に話しかけられたのは初めてだったが、なぜかユーノは相手が悪意を持っているように思えなかった。こんな笑顔をできる人が、悪人であるはずがない。研究者とは目の輝きが違っているが。

「さっきまで、財団の研究者と話をしていたんだろう? アーティー・ナイト」

「ええ」

 なぜそのことを知っているのか解らないながらも、ユーノは否定しなかった。

「昨日と合わせて、6時間か7時間くらいは彼と話したよね」

「ええ、たぶんそうね」

「気付いてないと思うけど、君は彼がブダペストに来てから、一番長く話している人なんだ」

「そうなの。それが何か?」

 ユーノはもちろん、そんな意識は全くなかった。彼と話したい人が、そんなに少なかったのかと思っただけで。

「それはとても素晴らしいことなんだ。僕は君が羨ましくて仕方ないよ。明日も彼と話すといい。できれば、夕食に誘ってみるとか」

「でも、彼にも都合が……」

「今からでも彼に電話するべきだよ。彼と話をするのは楽しいだろう? その楽しみをみすみす逃すつもり?」

 電車が来た。ドアが開いたが、相手は乗ろうとしなかった。ユーノは「失礼」と言って乗った。ドアが閉まっても、相手はプラットフォームに立って、柔らかな笑顔でユーノを見ている。電車が動いて、その笑顔が後ろへ流れていった。

 何だったのかしら、とユーノは思った。相手が何者かも、目的も解らない。電話するべきと言われたけれど、ユーノはそれを実行するべきか、迷っていた。

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