#15:第4日 (8) 夜のデート
【By 刑事(女)】
明日の内覧会に備えて、早めに帰ることになっている。目標は5時。ポーラだけでなく、パタキ主任やピスティも同じだった。何も起こらなければ、5時ちょうどに署を出ることができるだろう。
何も起こるはずがない! 少なくとも、第1区警察署駐在中の広域窃盗捜査課に、急な任務が課されることは、建前上あり得なかった。あるとすれば、
そのどちらももちろん起こらず、ポーラは目標の時刻の2分後に署を出た。4時頃からそわそわしていたが、見たところパタキ主任やピスティも同じだった。彼らも、この後何か約束があるのだろうか。あるかもしれない。しかし、それはポーラにはどうでもよかった。ポーラ自身の約束の方が甚だしく大事だった。
自宅に帰って着替える。着慣れないフォーマルを着用しなければならない。そういうところへ誘われているのだ。2年前に買って、そのときに着て以来だったが、体型が変わっていなくてほっとした。
せっかく早く帰ってきたが、約束の時間は7時だ。1時間ほどそわそわしながら過ごし、絶対確実に間に合う時刻に家を出て、タクシーで
創業1894年。ブダペストの、いやハンガリーの最高級レストランと言っていい。過去には教皇ヨハネ・パウロ2世や、連合王国のエリザベス女王、そして世界各国の王族や政治家、著名人が訪れた。内装や調度品も最上級。食器は全て国産ジョルナイ製。よもやそんなところに誘われようとは……
5分前に着くと、クリストフは既に待っていた。もちろん、正装。署を訪問したときの仕立てのよいスーツもよく似合っていたが、正装だと更に素晴らしく見える。自分が見劣りしてしまうのではないか、とポーラは恐れた。
「
「ありがとう、ラインハルト
「今夜はクリストフと呼んでくれ。さあ、入ろう」
エスコートされてレストランに入る。期待どおり、中は素晴らしく高級感に溢れていた。奥の、一段高まった上席に案内される。椅子に座らせてもらいながら、なぜクリストフはこんなランクの高いレストランを利用できるのだろうと考えた。世界的企業の
料理は既に頼んであるらしく、すぐに食前酒、そして前菜が出てきた。フォアグラの冷燻製。グラスを傾けながらクリストフが優しげな笑顔で言った。
「君を連れて来てよかった。みんなが君に注目している。とても誇らしいね」
「そうかしら? 自分自身ではよく判らないわ。あなたに釣り合っているのかどうか」
「僕の期待以上だよ」
頬が熱くなって、頭がのぼせそうになる。その後も次々に豪華な料理が出てくる。そしてクリストフの話も楽しい。本業のゲーム開発から始まったが、それに関わる世界中の情報収集、観光情報や科学技術、文化、芸術、食、ファッションを止めどなく語る。瞬く間に時間が過ぎていく。
コーヒーが出てきてようやく、終わりが近いことに気付いた。
「お仕事が素晴らしいだけでなくて、様々な経験をしていらっしゃるのね」
「楽しいだけならいいんだが、いろいろな危険な目にも遭っていてね。だから、君のような素晴らしい女性とゆっくり食事をしたり、絵画や音楽を楽しんだりするととてもくつろぐんだ」
「本国にはいい人はいらっしゃらないの?」
「一つのところに留まっていられないからね。僕を引き留めてくれるような人を捜しているんだが」
「そのうちきっと見つけられますわ」
「うん、その日が近いことを望んでいるよ。さて、君は明日は早くから仕事があるんだったね。もう帰った方がいい。送って行くよ」
「ありがとう。あら! そういえば例の約束が……」
「ああ、それもあったんだった。では、帰りがけに一目見せてもらうことにしよう」
レストランを出て、タクシーに乗り、ポーラの自宅――
昨夜、電話で夕食に誘ってもらったときのことだ。仕事のことを話している途中で、うっかり『
しかし、模写のことを言い出したのはクリストフの方だった。本物を隠してしまって、模写を展示したら?と。どこかでそういう前例があったらしい。だから、実はその予定があって、模写も準備済みだ、と話した。フュレプに渡す報酬が足りないのが、気になっていたせいだろう。
そうしたらクリストフが、それが見られるのなら報酬の一部を負担してもいい、と言った。それを今から見せる。
模写はフュレプのところから運び出した後、警察署でも
そしてクリストフが4人目になる。ただし、彼には2枚のうち1枚しか見せるつもりがないけれど……
「素晴らしい。これが模写だとはとても思えない。画家は素晴らしい技量の持ち主に違いないよ。明日になると、この元絵が見られるんだね? できれば並べて鑑賞したいくらいだ」
クリストフは腕組みをして絵を見ながら、感嘆の面持ちで唸った。そのときの彼の目は煌々と輝いていた。芸術を理解する者の目だろうと、ポーラは感じた。
「残念ながら、それはできません。それに、模写の処遇もまだ決まってないんです。明日、主任刑事や館長と協議して決めることに……」
「できることなら、1点分けてもらいたいくらいだね」
「ご冗談を」
「いや、これはそうしたくなるほどの逸品だよ。模写なのにね。とにかく、いいものを見られた。ありがとう。明朝、
「おやすみなさい、クリストフ。今夜はありがとう。とても楽しかったわ」
クリストフは帰っていった。絵を梱包し直しながらポーラは、これがあれば彼を引き留められるかしれないのに、と思った。
【By 主人公】
学生たちとの食事会の後、ランニングへ行く前の休憩をしていると、アネータが来た。レストランへ迎えに来ず、ホテルに戻っても出迎えず、こんな時間まで何をしてたんだ。しかもニヤニヤしやがって。
「明日の予定の確認を……」
「その顔は何だよ。いいことがあったのか?」
「ええ、それはもう、あなたのおかげで、あの有名なマルーシャとお会いすることができて」
そんなことが嬉しいのかよ。じゃあ、今からフォー・シーズンズに転職しちまえ。
「メッセージを持って行っただけなのに、お部屋でコーヒーとお菓子をごちそうしてくださったんです。すいません、私の上司には内緒にしていただけますか」
「そんなつまらない告げ口はせんよ。しかし、たぶん何か話もしたんだろうな」
「ええ、ほんの10分、いえ15分、いえ20分くらいかも……」
「俺の悪口を言ってたか」
「とんでもないです! 以前、イタリアでお会いしたときに優しくしていただいたのが印象に残っていると、それは幸せそうな様子でお話を」
いや、直前のニュー・カレドニアのことをなぜ言わないんだよ。なかったことになってるわけじゃあるまい。しかもそこではメグとの関係を……って、おい、まさか。
「俺の妻にも、マルーシャのことを言ったんじゃないだろうな」
「いけませんでしたか? 再会をとても喜んでくださってましたが」
あれから半年後にブダペストで再会なんていう、あまりにもできすぎた偶然を、
「明日のことだが、朝は国立美術館だよな。招待客は判ったか」
「はい、リストをもらいました」
受け取って眺める。美術館関係者とか文化国務長官とか警察署長とかは置いといて、まずはマクロロジック社の研究者だ。これか、
「調べましたが、たくさんありすぎて」
アネータがタブレットを差し出す。自分で見ろってか。
ゲーム開発部門の責任者。グラフィックス技術開発、仮想現実技術開発。おい、まさかこいつがこの仮想世界のクリエイターじゃないだろうな。映画製作技術協力多数。ずいぶんとエンターテインメント寄りだなあ。俺と違って、仕事の説明が楽だろうな。
ところで、どうして俺がタブレットで情報を見られるんだろう。通信機器を使えないんじゃなかったっけ。それとも俺が検索したら失敗するのか。
「君はこういう顔の男をどう思う?」
「ハンサムで有能そうですけど、付き合うと疲れる気がします。いろいろな意味で」
君は俺の味方だな。きっとメグも同じことを言うぜ。他に気になる奴は? 画家がいるな。Lakatos Fülöp。どう発音するんだ。ラカトシュ・フュレプ?
「知らない名前ですけど、ラカトシュ家はブダペストの有名な芸術一族で、その中に、もしかしたらその人がいるのかも」
検索しても判らないって? どうしてそんな無名の画家が呼ばれてるんだよ。何かあるって絶対思うだろ。例えば『
さて、他には。医者とか弁護士とか企業幹部がいるが、これはきっと芸術に金を落としてる連中だよな。バレリーナってのがいるが、これは何者だ。
「ビアンカ・ミノーラをご存じないんですか? イタリアの有名なプリマ・ドンナですよ!」
「メグは知ってたかい」
「もちろんですよ!」
タブレットで検索し直して、見せてくれた。はあ、綺麗な女だね。プロポーションもマルーシャに勝るとも劣らず。
って、おい! こいつ、見たことあるじゃないか。今朝、マルギット島で、俺の自転車を見てたぜ。あれは自転車に興味があったんじゃない、どうにかして俺のことを
とにかく、これで他の3人の
「それで、明日は何をするって?」
「絵画の内覧ということですが、詳細は教えてもらえませんでした」
いや、判ったよ。『
なら、あるな、警備システムの説明が。もちろん、それを破るための方法まで教えてくれるわけはないけど。俺の論文を参考にしたかどうかくらいは訊いてみるか?
「午前中は美術館だけか」
「はい。ですが、午後もほぼ同じ場所にいます。セーチェーニ図書館と歴史博物館を案内してもらえることになってますから」
なるほど、六つの翼があって、全部つながってるんだったな。そこで何を調べたらいいか、事前に考えておくべきなのだが、明日の朝までのアネータの宿題にするかなあ。そういうの、あまり好きじゃないんだが。でも、
いや違う、ビッティーに訊くべきだ。肝心なことは教えてくれないかもしれないが、概要くらいは……
また電話かよ。まさか、またジゼルからじゃないだろうな。アネータ、頼んだ。
「ハロー。……はい、そうです。……ああ、昨日の。……伺ってみます」
アネータの顔を見て、ジゼルからじゃないのが判った。じゃあ、誰だ?
「ドクトル・ネーメト・ユーノからです」
え、なぜユーノが。
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