#15:第3日 (7) 短い話と長い話
【By オペラ
画家から電話が架かってきた。別の模写が完成したので、今から渡したいと言う。明日では何か都合が悪くなったようだ。
「たぶん、もう夕食はお済みだと思います。そんな遅い時間に訪問するのは、大変失礼だということは理解しているのですが……」
画家は恐縮した声で言った。
「とんでもないことですわ。一刻も早く見られるのは、私の喜びでもあります。それとも、私の方から受け取りに参りましょうか?」
「いえ、そんなことをしていただかなくても。僕が参ります」
「ホテルには、あなたがいらしたら部屋にお通しするようお願いしておきます」
これからすぐに、と言って画家は電話を切った。9時頃に来るだろう。迎える用意をしなければならない。着替える必要はない。飲み物と菓子を用意するくらいだろうか。だが、たぶん画家は長居せず、すぐに帰るだろう。雑談をすることもないはず。
ただ、なぜ明日ではいけないのか。“第一の模写”は既に警察に渡っているはず。だからそちらに問題はない。おそらくは、画家の家庭の事情だろう。父母と兄弟、いずれも芸術家であることは判っている。他の
おそらく、女の方。彼女が、弟の作曲家と接触したのだろう。画家が彼女に会いに行くのを阻止した方がいいだろうか。そうする方法はあるけれども、なるべく使いたくない。
予想よりも少し遅れて、画家は来た。笑顔で迎える。
「ようこそ、ラカトシュ
「今朝申し上げたとおり、すぐ仕上がったのですよ。早い方がいいだろうと思って持って来たのです」
画家の目に、少し迷いが見られる。何か他に言いたいことがあるようだ。
「もちろんです。ありがとうございます!」
「さっそくですが……」
画家は携えていた梱包を解いて、絵を取り出した。額装はしていなくて、カンヴァスだけだ。傷は付いていない。もし付いていたら、画家がこの場ですぐに直しただろう。
「改めて見ても、素晴らしい絵ですね! もちろん、額装は私の方で致します。家へ送る手配も。ですが、こんな素敵な作品を、無償でお分けいただいて本当によかったのでしょうか?」
「ええ、別に構わないのです。むしろ、あなたにはもっとお礼をしたいくらいで……」
「そうでしょうか。私、あなたと出会ったというだけで、他には何もしていません」
「いえ、あなたをモデルにするという許可をいただけたのですから……ただ、もし許していただけるのなら、一つお願いしたいことが」
「私にできることでしたら、何なりと」
「ありがとうございます……」
少し逡巡してから、画家は続けた。
「……僕には兄弟が二人いるのです。兄は詩人で、弟は作曲家です」
「ラカトシュというお名前は他で耳にした記憶がありますが、それがあなたのご兄弟かもしれませんね」
「おそらく、そうでしょう。僕は弟のフェレンツに誘われて、ウィーンであなたの主演したオペラを見たことがあるのです」
「まあ、そうでしたか!」
「弟は僕が画家として独り立ちできないのを気にして、たびたび著名人に会わせてくれるのです。僕の芸術心を刺激するためだそうです。あなたの場合は、オペラを見ただけで、お会いすることはできませんでしたが」
「お優しい方ですね」
「それで、その返礼と言ってはおかしいですが、今回は僕が弟を著名人に会わせたいと……つまり、あなたに会わせたいと考えたのですが、会ってもらえるでしょうか?」
「もちろん、喜んでお会いしますわ! ぜひお兄様も一緒にお越しください」
「お受けいただいてありがとうございます。それで、気が早いとは思うのですが、明日ではいかがでしょうか? あなたのご都合に合わせます」
「もちろん、構いません。では、昼食後の1時からではどうでしょうか? ちょうど
「わかりました。兄弟にも話しておきます。でも、あなたに会わせるなんて言って、信用してもらえるかどうか」
「信用なさらなかったら、お一人でお越しになれば」
「いや、無理にでも連れて行きますよ。では、今夜はこれで失礼します」
「あら、もうお帰りですか。まあ、私としたことが、お茶とお菓子を出すのも忘れてしまって!」
「お気になさらないでください。これからまだすることがあるので、絵をお渡ししたらすぐに帰るつもりだったんです」
予想どおり、画家は早々に帰っていった。なぜ画家が今夜来たのか判った。彼はやはり、今日の夕方に、女の
そして画家の目に迷いがあった理由も判った。彼女から何か気になることを言われたのだろう。あるいは模写のことか。彼女に先んじて模写を手に入れておいてよかった。しかし、いずれは彼女も模写を手に入れようとするだろう。そうならないために、画家を私の方に引き留めておいたほうがいいのだが……
なぜ私は迷っているのだろう。手段を選ぶべきではないのに。
【By 研究者】
ユーノが家に帰り着いたのは、10時を回った頃だった。もちろん、ヤンカもヨラーンも先に帰っていた。「また残業してきたの?」とヤンカが呆れたように訊いた。
「遅くまでいたけど、残業じゃないわ。財団の研究者と話してただけだから」
アーティーと呼べ、と言われたが、結局一度も呼ばなかったような気がする。
「財団の? そんなにディスカッションすることがあったの?」
「ディスカッション……というか、私がひたすら話して、彼がひたすら聞いてただけなんだけど」
しかし、それだけでとても気分がよかった気がする。ここ最近、彼ほど私の話を聞こうとした人はいなかった。誰も彼も、聞く以上に話したがるのだ。
もちろん、互いの考えを披瀝し、その上でディスカッションを交わすのは楽しい。一人で考えているよりも。しかし、一方的に話を聞いてもらうのが、これほど楽しいことだとは気付いていなかった。彼が発したのはいくつかの相槌と、私が次に話そうとしたことの呼び水……
「でも、彼の専門は数理心理学でしょう? 惑星物理学にも興味があったのかしら」
「興味があったわけじゃないらしいけど、シミュレイションについては彼のやっていることと近いから、話が合う部分はあったわ。でもほとんどは、私が興味があることについて話してただけで……」
「それを全部聞いてくれたの?」
「そう」
「あなたの興味のある範囲って、とてつもなく広いじゃないの」
「そうよ、だからこんな時間まで……」
「食事会は行かなかったの?」
「彼は行ったけど、私は行かなかったわ。話の他に、することもあったから、近くに食べに行って、先に研究室に戻って……」
そして彼は8時半にアカデミーに戻ってきた。食事会ではアルコールを一滴も飲まなかったと言っていた。飲めないわけではないが、飲むのは好きではないらしい。「今日は夕方のランニングができなかった」と言っていたが、身体を鍛えていて、節制しているのか……そういえば、彼のことはほとんど何も聞かなかったが、それでよかったのだろうか?
「食事会へ行って話をすればよかったじゃない」
「それだと他の人の話も聞かなきゃいけなくなるわ」
「当たり前でしょ。いろんな話をするための会なんだから。研究以外の話もするでしょうし」
「ヤンカは行って彼と話したの?」
「いいえ、私は大学の方の食事会に参加したの。昨日の、ラインハルト
「ええ? そんなことしたら、大学の人が話できないじゃないの」
「いいえ、彼の話を聞いている方が楽しかったから。ねえ、ヨラーン」
「ええ、ヤンカの言うとおりだわ。私も彼の話を聞いていて楽しかった。研究室のプレゼンテイションの後でディスカッションしたときもそうだったけど、彼は自分の専門だけじゃなくて、いろいろなことを知ってるのよ。私の専門のゲーム理論も、彼の方が詳しいんじゃないかと思ったくらい」
ゲーム理論なら関係あるだろう、とヤンカに言ったのはユーノだが、まさにそのとおりだったようだ。しかし、二人は話を聞くのが楽しかったらしい。ユーノは聞いてもらうのが楽しかったのに。
もちろんユーノだって、話を聞くのが楽しいときはある。でも、少なくとも今日は聞くよりも聞いてもらいたかった……
「それで、ラインハルト
「だから、いろいろな話よ。ゲーム開発のことから、そのためのビジネス、世界経済、政治にも詳しかったわ」
「映画の話も出たんじゃなかったかしら。ゲームの映画化の話から」
「私たちは知らなかったけど、世界的に大ヒットした
「でも、俳優や監督や撮影技法にも詳しかったわよね。その方面の知り合いもたくさんいると言ってたわ。
とにかく、いろいろなことを知っている人であるらしい。ユーノがプレゼンテイションをしたときも、その一端を見せてくれたことは憶えている。ディスカッションはあまり弾まなかった気がするが。
「それで、相手の話は聞いたの? ナイト
ヨラーンが訊いてきた。それはユーノも思い出そうとしていたところだった。シミュレイションで話が合うところはあったが、断片的な話ばかりで、要点は憶えていない。講演で聞いた話は一応憶えているが……
「それが、よく憶えてないのよ。何度か聞こうとしたけど、今日は話を聞きに来たんだから、とにかく聞きたいって言って……」
「珍しい人ね。ヨラーン、明日はあなたもたくさん話さなきゃいけないかもよ」
「想定質問以外のことを訊かれたら自信がないわ」
「そういうときは『あなたはどう思いますか』って逆質問しておきなさい」
「あら、ラインハルト
ヤンカとヨラーンのやりとりを聞きながら、ユーノは今日のことを思い返していた。相手から何か鋭い質問があっただろうか? 憶えていない。答えられなかったことは何もない。やはり質問というよりも、呼び水だったのだ。話したいように話させてくれた、ということだろうか。そういうことをまたしてみたいが、次の機会はあるだろうか?
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