#14:第1日 (8) Fly me to the moon

 夕食が終わり、バンガローへ戻る前に、ビーチへの散歩に誘ってみる。もちろん、メグは仕事中であるので「散歩に付いて来て欲しい」ということにしておく。素直に付いて来てくれる。

 本館の建物の北側にプールがあり、その向こうにビーチがある。今夜は上弦の半月。天頂から少し西に傾いたところに、半分になった月が浮いている。

 ビーチはわりあい明るくて、歩くのに支障はない。それどころか、他の男女の二人組ペアがそこら中にいる。月夜のビーチで二人きりのデート、というわけにはいかないようだ。

「月が綺麗だな、メグ」

 今が半月なら、最終日には満月に近くなるだろう。その時にもどこかのビーチで、メグと月を眺めたいものだ。

あの月まで連れて行ってくださいますかフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン・プリーズ?」

 古い歌のタイトルだ。俺でもそれくらいは知っている。その意味するところは……

「ところで、君は何時までリタなんだ?」

「10時までです。でも、あなたが必要とされる限り、リタのままでいるつもりです」

「朝は何時から」

「5時からです」

 つまり夜の10時から朝の5時までは、彼女はリタ・スコットではなくなるわけだ。一個人、メグ・スコットに戻る。今、9時過ぎ。彼女の仕事時間はあと50分ほど。

 ビーチを西へ歩く。椰子の木を柱の代わりにして、灯りがともしてある。プールの脇の茂みにも灯りがある。ところどころにテーブルと椅子があり、男女が座って囁き合ったり海を見たりしている。ビーチの一番端が、コ・ンゲア・ケ島の西端であり、ホテルの端だ。そこにも男女がいて抱き合っている。

 東の方へ折り返す。半月のためか、波はそれほど大きくない。そもそも、ここは小さな湾になっていて、オロ湾というのだが、かなり向こうまで遠浅だ。絶好のプライヴェイト・ビーチだ。しかし、歩いても歩いても男女がいる。プライヴェイトな空間はほとんどない。

 メグは笑顔で俺の肘に手を絡め、俺の歩みに合わせて付いて来る。言葉はいらない気もするが、言葉にして伝えたいこともある。

「君と一緒にここへ来られて、本当によかった」

「私も、とても嬉しいです」

 ビーチの東の端は、岬へのちょっとした上り坂になっている。そして南国の木々が生えている。しかしバンガローへ戻るには、もう一度本館の方へ引き返さなければならない。別のバンガローの敷地になっているのだ。

 振り返ろうとして、ふとメグの顔を見ると、頬に涙の跡があった。目尻の涙の粒が、月明かりできらめいている。

「どうした?」

「申し訳ありません……あまりにも嬉しくて……幸せすぎて、本当に夢のように思って……」

 笑顔が少し歪むと、愛らしい目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは後から後から流れ出してくる。

「嬉しいのなら、そんなに泣かないでくれ」

 愛おしくて抱きしめてやりたいが、“リタ・スコット”である間にそんなことをするわけにはいかない。メグはバッグからハンカチを取り出し、涙を拭いた。

「申し訳ありません……1年間、あなたにお会いすることをずっと楽しみにしていて、ストライキのせいでそれがなくなったのかと思って落胆していたら、突然の指示でこうして奇跡的にお会いできて……飛行機でお会いしてから今までのほんの数時間が、私が思っていたのよりも何倍も楽しくて……」

 いや、楽しいことはほとんど何もしてないのに。話をして、チェックインして、バンガローに入って、食事して、その後でビーチを歩いているだけなのに。これでそんなに楽しかったら、あと6日間でどれだけ楽しくなるんだよ。

 抱くまいと思っていたのに、メグの方から胸の中に飛び込んできた。肩を抱いてやったが、今はそれ以上はできない。少なくとも、10時までは。

「楽しい時間はまだ始まったばかりだぜ。それに去年は別れの時だって笑顔でいてくれたじゃないか。俺は笑顔のメグをもっと見ていたいよ」

「申し訳ありません、ありがとうございます……でも、もう少しだけ、もう少しだけ、泣かせてください。嬉しくて泣いてるんですから……」

 しばらく、メグの肩を抱きながら立ち尽くす。周りを見回すと暗がりに何人も男女がいるが、愛を語り合う男女はいても、嬉し泣きしている女なんて一人もいない。

 コンシエルジュとしての仕事ぶりが評価されているメグなのに、やけに気持ちが高ぶっているようだ。誰のせいかというと俺のせいではなくて、このシナリオを書いた奴のせいなのだが、今回ばかりはさすがにそのライターに感謝したくもある。

 ひとしきり泣いて気が済んだのか、胸元に埋めていた顔を上げて、メグは笑顔を作った。涙で少し化粧が乱れているが、それでも美しい。俺のシャツの胸は汚れているだろうけど、メグの嬉しい気持ちの結果ならそれもいいだろう。

「ありがとうございます……もう泣きませんから」

「本当に?」

「本当です」

「後で絶対泣かしてやるよ」

「それはそれで嬉しいです」

 無理難題を考えてメグに与えなければならない。ともかく、バンガローへ戻る。幸いにして、誰ともすれ違わなかった。美しいとはいえ、メグの泣き顔を見られるのは困る。なぜならそれは俺だけのものだからだ。

 部屋へ入り、洗面所へ行っていいよと言うと、しばらくして綺麗な笑顔になってメグが戻って来た。もうすぐ、10時になる。夜はまだ長いが、もうシャワーを浴びることにする。

 バス・ルームはとても広くて、シャワー・ストールと浴槽バス・タブがある。今日はシャワーの方にしておく。

 カーテンを閉めてシャワーを浴びていると、ストールの外で足音がする。もちろん、メグが勝手に入ってきて、俺の脱いだ服を回収しているのだ!

 今日は汗をあまりかかなかったので、シャワーはすぐに終えた。ストールを出ると、俺が用意した下着とバス・ローブだけがクローゼットに置いてあった。そういえば、彼女はどこで風呂バスを使うのだろうか。スタッフ用のバス・ルームか?

 バス・ローブを着てから、リヴィング・ルームへ戻って訊く。

「もちろん、この部屋です」

 そんな、事もなげに言わないでくれるかな。

「10時を過ぎていますから、もしご用がなければ、私もシャワーを浴びたいと思いますが……」

「そうしてくれていいよ」

「その前に何か軽いお飲み物でもご用意しましょうか?」

あれをザット・ワン

「かしこまりました」

 メグがミニ・キッチンの方へ行く。リヴィング・ルームで待つ。フロリダを作って戻って来た。やはりちゃんと憶えていてくれた。

 それからメグはスーツ・ケースを開け――彼女にその中身を整理する時間を与えていないのに気付いた――、着替えなどを取り出して、バス・ルームへ行った。

 中の音は、もちろんリヴィング・ルームからでは聞こえない。フロリダを飲み干し、ベッド・ルームへ行く。リヴィング・ルームとの間の折り戸は閉めておく。バス・ルームから、シャワーの音が聞こえてくる。

 30分ほどで、メグが出てきた。髪を綺麗に乾かしてセットし、化粧着ドレッシング・ガウンを羽織っている。もちろん、この部屋のものではなくて、自分で持って来たのだろう。彼女はこの部屋に泊まっているわけではなく、ただ俺のために待機しているだけなのだ。だが、10時を過ぎたら……

「他に何かご用は……」

 すっぴんウィズアウト・メイクアップでも可愛いメグが、笑顔で話しかけてくる。

「こっちに来て、座りなよ」

 ベッドの横に腰掛けるように促す。メグはひときわ嬉しそうな笑みを見せて、特に躊躇もせず、俺の横に座った。そして俺の顔を見上げる。その目を見ながら言う。

「今夜は、君をリヴィング・ルームへ戻さない」

 メグは笑顔のまましばらく黙って俺の目を見た後で、答えた。

「……あなたが呼んでくださらなかったら、夜中にこのベッドへ入るつもりでした」

 10時を過ぎたら、メグは本心を表してくれた。ビーチで泣いたときから、その思いがあふれかかっていたのに違いない。そっと唇を塞ぎ、そのままベッドへ倒れ込む。

「……一つだけ、告白させてくださいますか?」

 長い長いキスの後で、囁くようにメグが言った。こんなにうっとりした目のメグは初めて見た。

「何でもどうぞ」

 メグははにかむような笑顔を見せ、俺の耳元に顔を寄せると、ことさら小さな声で囁いた。

「……隣のバンガローに、声が聞こえてしまうかもしれません……」

 そんなに声が大きいのか、君は。

「できる限り優しくするよ」

「いいえ、月まで連れて行ってくださいフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン・プリーズ!」

 やっぱりそっちの意味だったか。もちろん、期待に応えてやることにする。

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